夏果て

「もうすぐ夏が終わるって思うと、なんとなく寂しい気分になるよな」
 一年ぶりの浴衣に腕を通しながら、薄い唇に何の意図もなく乗せた言葉に、正解など設定したつもりはなかった。
「そうか? ……そうだな、来年の夏まで、夏の遊びはできなくなるしな」
 しかし牧の返答に、明確に『違う』と感じてしまった。『そういうことじゃねえんだよ、お前ってやっぱズレてんな』と、常ならば軽く笑い飛ばす程度のことだったろうが、今日はなぜか、それができなかった。
(ああ、そっか……こいつはオレとは違うもんな)
 何か、いや、正体もわかってはいるのだ。小さな棘が胸に突き刺さり、引っ掛かって抜けず、表情を作れない無表情が顔に張りつく。
(だからオレは、どこまでお前に話していいもんだか)
 わからなくなる。神奈川の双璧と呼ばれたのは高校時代のことで、ふたりとも東京の大学に進んで二年にもなった今、そのたぐいの言い回しを使ったり、ふたりを関連づけて話そうとするのは、神奈川時代の知り合いくらいだった。男友達と同居していて、その相手が深体大の牧だと言えば興味を示す者もいたが、単に牧がよく知られているせいと、女を連れ込めないだの、実は女と住んでるだのといった下卑た話のネタになる程度のことだ。
 つまり、現在のふたりの客観的な関係性は、昔ほど繊細なものではない。そう実感しているゆえに、藤真は高校時代の──当時はあえて話題にしなかったことを、不意に話してみたくなる。
(……なんで?)
 終わったことだ。いまさら他者からの助言を欲するわけではない。こぼしたいだけの愚痴のようなもので、今一番身近にいるのが牧だというだけのことだ。そうして口を開きかけては、しかし牧はきっと忌憚ない意見を述べるだろう、自分は性懲りもなく苛立ったり傷ついたりするかもしれない、そう思いいたって口をつぐんだ。ちょうど今のように。
「帯、やってやろうか」
「……ん? ああ、うん」
 浴衣を羽織ったきり動きを止めていた藤真の眼前に、穏やかに笑んだ牧の顔が現れる。これからふたりで浴衣を着て、近場の夏祭りに行く予定だ。まだ前も全開にしている藤真とは違って、牧は腰ひもを結ぶまでは自分でできたようだった。
「ほら、藤真、前を押さえててくれ」
「うん」
 藤真はテーブルの上に置いた〝ゆかたの着付けガイド〟を脇目に見ながら、身ごろの上下を気にしつつ浴衣の襟を重ねて押さえる。牧は藤真の腰に腰ひもをぐるぐると回し、前で結んで留めた。続いて帯だ。ガイドの通りに細く折って藤真の体に巻きつけ、後ろで結んでやる。
「……こんなもんか?」
 女性の大きなリボン結びの後ろ姿は容易に想像できるが、男性の帯結びの形は意外なほど印象になく、おかしくはないと思うが、本当に合っているのかどうかは少し不安だ。
「まあ、歩いてて取れなきゃいんじゃね?」
 軽い調子の藤真に対し、絶対に大丈夫だと言いきる自信はなかったが、昨年も持ったのでなんとかなるだろう。
 昨年は日程の都合で夏祭りには行かなかったが、別の場所で行われた花火大会を、やはりふたりで浴衣を着て見に行った。その前の年、高校三年の夏の花火大会では藤真のみ浴衣で牧は普段着という失態を演じてしまったので、はりきって浴衣を用意したのだ。
「じゃあ、今度はオレが結ぶ番だな」
 近場で行われる祭りだ、花火が上がるらしいが、ほかはさほど特別なこともないだろう。そうは思いながらも、ささやかで穏やかで、しかし非日常的な触れ合いが、否応なく気分を盛り上げる。

 支度の間にバラバラと大きな音を立てて降ってきた雨は、少し様子を見ているとサッと上がっていった。この季節には珍しくない通り雨だ。
「雨、止んでよかったな」
 群青の空の向こうに薄くたなびく夕焼けは、赤みが強く、燃えるような色をしている。対照的に涼やかな趣きの恋人を見据え、牧は満足げに目を細めた。部屋の中で着付けをしあっていたときには、客観的に見られていなかったのだと思う。
 首が細く肩幅もあまり広くない藤真に、浴衣はよく似合った。体に沿わない袖のラインのせいか体躯が華奢にも見えて、愛らしい印象だ。ユニフォームや普段のTシャツ姿より肌の露出がないのに色っぽく感じてしまうのは、余計なことを考えすぎなのだろうか。
「うん、ちょうどよかった。涼しいし」
 雨に冷めた空気はひんやりとして気持ちよく、夏の夕方特有の生暖かさを感じさせない。石のにおいなのか、土のにおいなのか、雨上がりのにおいは藤真が東京に越してきてから好きになったもののひとつだった。
「うっかりすると足が濡れそうだな」
 履きものはふたりとも雪駄だ。
「濡れてもすぐ乾くだろ」
 だから逆にちょうどいいな、などと他愛のない話をしながら祭りの会場に向かって歩く。
「……なんでちょっと笑ってんの」
「ん? 怒ってたほうがいいか?」
「ふはっ! やべえそれウケる、ムダに通行人威嚇して歩く牧」
 藤真が普段より印象を柔らかくするのとは対照的に、浴衣を着た牧は日ごろよりいっそう堂々として見えた。貫禄があると言えば、案外繊細な彼は傷ついてしまうかもしれない。不機嫌そうな顔をして歩いていたなら、さぞかし不穏な空気になることだろう。
「そんなのが面白いのか? しかしさすがになあ……」
 牧はあたりを見回す仕草をする。周囲には、同じように祭りに向かっているらしきカップルや友人連れが見える。
「ウソウソ、善良な市民をおびやかすなよ!」
 藤真は軽く笑うと、ぽんと牧の肩を叩いた。
 なんの気兼ねもなく浮かれた気分でいられる夏の休日は、藤真にはずいぶんと久しぶりのもののように感じられて、少しばかり落ち着かない。
 高校のときは単純に忙しかったうえ、二、三年については精神的な余裕もなかったと思う。やりたくてやっていたことだったから、ほかの遊びをしたいとはほとんど思わなかったが、まれにある全く練習をしない休日には、妙な罪悪感に駆られたものだった。
 大学だとて暇というほどではないが、高校よりはずいぶんと時間に余裕ができた。環境に慣れた二年目ともなればなおさらだ。そして何より、牧と都合も合わせやすい。

 八月下旬、日の落ちるのは想像以上に早く、さほど長い道のりではなかったが、祭りの気配を感じるころにはすっかり暗くなっていた。
 通りは灯火で飾られ、スピーカーから聞こえる祭囃子と、おしゃべりをしながら歩く人々、屋台の呼び込みとでざわざわ賑やかだ。しかし、穏やかな騒がしさだとも感じる。日ごろ通う渋谷や、たまに足を運ぶ新宿にある、せわしなさや人の〝圧〟のようなものはない。
「東京の祭りも、うちのほうとあんまり変わんないんだな」
「このあたりだとな。比較的近くに住んでる人間が多いんだろうし」
(確かに、オレらが住んでるのだって特に大都会! って感じでもないフツーの住宅地だしな)
「興味あるなら、浅草とかあっちのほうの祭りなら全然違うと思うぞ」
「いいよ、そんなに興味ない。てか、飲みもの買おうぜ」
 藤真はドリンクを売る屋台を目で示した。外に出てすぐは想像より涼しかったものの、少し歩いた今は肌に纏わりつくような暑さを感じる。ドリンクの缶や瓶の浸かった、氷水を張ったスタンド式のクーラーボックスは、いかにも涼しげで魅力的だ。
「ああ。なんにする?」
「んなの、ビールに決まってんじゃん!」
「……決まってるか?」
 そんな話は初めて聞いた。なにしろ藤真が合法的に酒を飲める年齢になったのはつい最近のことで、牧にいたってはまだ未成年だ。まあいいかとぼやきながら、藤真の缶ビールと、自分用に瓶入りのラムネを買った。心地よい笑い声が耳を撫でる。
「別に、お前も酒飲んだって誰もなんも言わねーと思うけど」
 見た目的な意味で、とは心の中だけで付け加える。それに、部活の飲み会で断りきれずに酒を飲んでいることだって知っている。
「必要がなけりゃ飲まない。それに、ラムネって祭りのときくらいしか見なくないか?」
「あーそっか、ラムネいいな。つぎ飲みたくなったらそうしよっかな」
 牧は空いているテーブルに淡い水色のラムネ瓶を置くと、キャップから取り外した部品を使い、飲み口を塞ぐビー玉を思いきり押し込んだ。ブシュッという開栓音とほぼ同時に、ビー玉が鋭く透き通った音を立てて瓶のくびれに落ちる。シュワーと小さな音とともに、瓶の中を気泡が昇っていくのが見た目にも爽やかだ。
 藤真も自分の缶のプルタブを引く。こちらもまたいい音がした。ふたりして、口もとには愉しげな弧を置いている。
「んじゃおつかれー」
「おう、おつかれ」
 もちろんどちらも疲れてなどいなかったが、定型句のようなものだ。すぐに歩くつもりだったから、ふたりともその場に立ったまま、缶ビールとラムネ瓶を合わせて音の出ない乾杯をする。
 藤真は缶に口をつけると、炭酸入りのジュースを飲むのと大差ない調子でゴクゴク喉を鳴らし、大きく息を吐いた。
「ぷはーっ! まずい!」
「まずいのかよ」
 爽やかに言い放たれた言葉に、思わず笑ってしまった。
「ビールって、味は別にうまくなくねえ?」
 ならば無理して飲まなくていいのでは、と牧が言うより早く、藤真の言葉が続く。
「でもなんとなく飲みたいって感じがする。のどごしかな」
 自覚は薄いが、二十歳を越えたからには酒を飲まなくては、という思いもなくはない。飲みかけの缶を牧の口もとに差し出すが、腕ごと押し返されてしまった。
「俺はいい」
「ノリわるっ、外だから?」
「そうだな……」
 藤真は一瞬怪訝な顔を作ったが、すぐに表情を戻して言う。
「んじゃ、そっちひとくちちょーだい」
「ん? ラムネがよかったなら交換でもいいが……」
「そういう意味じゃねーよ。もういいや、じゃあいらね」
 藤真は小さく舌を出して不愉快をアピールするが、牧の目にはそんな表情も愛らしく映ってしまう。家だったらその唇を塞いで舌を吸っている、と想像しかけて頭を横に振った。
 藤真はふいと顔を背け、見せつけるように缶ビールをあおって勝手に歩きだす。
「おい、藤真っ……!」
 牧は大股で藤真に追いついて隣を歩く。ビールを断ったことには、藤真が酒を飲むなら自分は素面でいるべきだと思ったところが大きい。藤真は酒に強くないのだ。加えて、傍目には友人同士の飲みもののシェアでしかなくとも、牧にとってはデートだ。外で堂々と間接キスをするのは照れくさいと感じてしまった。
 しかし、ひとくち程度ならもらっておけばよかったかもしれない。そうすれば藤真の機嫌を損ねることもなかっただろう。
(俺もまだまだだな)
 近くの屋台から香ばしいにおいが漂ってくる。この状況をあまり放置しないほうがいいように思えたこともあり、とりあえず提案してみる。
「藤真、いろんな屋台があるな。なんか食うか?」
「えー? うーん……おっ、肉棒が売ってんじゃん!」
「にっ!?」
 驚きながら藤真の視線の先を見ると、フランクフルトの屋台だった。のれんには〝ジャンボフランク〟とある。
「藤真、そういう言いかたは……」
「いいだろ、通じてんだから。ジャンボだって。ジャンボな肉棒!」
 藤真はなぜだかその言い回しを気に入ってしまったらしい。牧は誰か聞いていやしないかと周囲の様子を窺いたいような、やめておいたほうがいいような、至極複雑な気分だった。
「じゃあ買ってくるから、ちょっとここで待っててくれ」
 藤真にラムネ瓶を預けて屋台から少し離れた場所に残し、急ぎフランクフルトを買いに行く。屋台のそばで肉棒だの言われるのはさすがに気まずいと感じてのことだが、牧が財布を持っていること自体はいつものデートと同じだ。フランクフルトを二本購入し、戻って藤真に渡すと、ぱぁっと花が開いたような、晴れやかな笑みが返ってくる。本当に、本当に愛らしい、周囲の空気まで輝かせる、夏のひまわりのような笑顔だった。
「わぁ〜、でかい! オレぶっとい肉棒大好き!」
「藤真……」
 藤真は溜息をつく牧の様子などお構いなしにフランクフルトにかぶりつく。
「はふっ、熱いっ、汁がっ……♡」
「藤真、酔ってるのか?」
 やや前傾の姿勢でフランクフルトを齧りながら、藤真はさも面白くなさそうに、視線だけを牧に向ける。
「ちょっとビール飲んだくらいで酔うかよ。てかお前ってそんなんだっけ? 家で食ってるときとか、普通に下ネタ言ってくんじゃん」
「それは家だからだ」
「あっそ。外ヅラがよろしいんですね」
 藤真に言われたくはないと思ったが、さすがに口には出さなかった。歯を見せた藤真ががぶりと噛みついた口もとで、フランクフルトの皮がパリっといい音を立てる。熱い肉汁が染み出て旨いのだが、藤真の言葉を思いだすと股間が痛くなるような気もして、牧は眉間に皺を寄せた。
 大胆な表現に戸惑ったのは、品よく見られたいと思ってではない。藤真の言った通り、男しかいない場なら下ネタも気にしないほうだが、なぜだか今日は妙に意識してしまうのだ。缶ビールを勧められたときも同じだった。私的で性的な興奮を刺激されるシーンを、その中にある恋人の姿を、傍目に触れさせたくないと感じる。いつもとは違う印象の、柔和な色香の漂う藤真が、自分以外から不埒な目で見られることが心配なのだと思う。
 近くにあった車止めの柵に腰掛けてフランクフルトを食べ、串を捨てて少し歩くと、浴衣姿のカップルらしき男女が声を掛けてきた。
「あれ、藤真じゃん」
「わぁ〜藤真くん、浴衣似合うねー!」
 華やいだ声を上げてにこにこと笑う彼女に対し、男は明確に気疎い顔になる。牧は一瞬で状況を察した。
(そりゃそうだ)
 藤真が美人なのは確かだが、隣にいる浴衣姿の彼女にそんな反応をされては、男はたまったものではないだろう。
「おお、鈴木とカナちゃん。やっぱ女子の浴衣は映えるなー」
 世辞のつもりではない、素直な感想だった。華やかな浴衣に、メイクも髪型も合うように考えているのだろう。自分がそれを待たされる側と考えると面倒でしかないが、他人ごととして見ている分には感心する。
「ほんと? わぁ〜浴衣着てきてよかった〜♡」
 鈴木は後悔していた。特に藤真を呼び止めたかったわけではないのだ。人並みの中でも目立つ、いかつい浴衣姿の男に目を止めたら隣に友人を見つけて、思わずその名を呟いてしまった。黙っていればこの状況は回避できたかもしれない──が、やはり目立つ二人組なので、彼女のほうが気づいていたかもしれない。
「藤真、大学の友達か?」
「うん。バスケ部じゃないけど」
「藤真は同居人と一緒なんだな」
 以前にも藤真と一緒にいるのを見かけて聞いたことがあった。立派な体格と日本人離れした容貌だけでも充分だったが、さらに藤真と(自分とも)同級生というのが衝撃的でよく覚えている。
「うん」
 鈴木の横で、カナは目を丸くする。
「へえ〜、友達とルームシェアって、同級生かと思ってたよ。おとなのひとだったんだね」
 興味津々といった様子だが、この展開は牧にも、そして鈴木にも嬉しくないものだ。ならば、と牧は口を開く。
「……藤真、そろそろ行くか」
「おっ、そうだな藤真、引き止めてすまなかったな、じゃあな!」
 早々に話題を畳もうとするふたりを見て、藤真はさも愉快そうにニヤニヤと笑ったが、抗わずその場を離れることにする。それぞれのペアは逆方向に歩いたが、女子のよく通る声は牧と藤真の耳に届いていた。
「同居人のひと、どういう繋がりのひとなんだろ? 知ってる?」
 藤真は牧を見遣って小さく笑う。
「ぷっ、おっさんに見えるってよ」
「いまさら、慣れてることだ」
「どういう関係のひとに見えるんだろうな?」
「さあ……」
「お前は、どう見えたらいいと思うんだよ?」
「んー? 『あのふたり、バスケやってるひとかな』とか」
「頭ん中バスケでいっぱいかよ、ねーわ」
 ふたりにとっては身近なものでも、今の日本ではそこまで浸透しきったスポーツでないことは牧も重々承知している。だからこその、願望のようなものだった。
「……なんか、ちょっと食うと余計ハラ減る現象あるよな。なんなんだろうなこれ」
「普通に晩飯どきだしな。なんか食おうか、なにがいい?」
 藤真は近くの屋台に目を止める。
「んーじゃあたこ焼き」
「あれはひとり分か? 二パックいるかな」
「一個でいいだろ、いろいろ食ってこうぜ」
「飲みもんは?」
「まだある」
 とりあえずたこ焼き一パックと、その隣の屋台でじゃがバター、牧は新しいドリンクを買って、ちょうど空いたテーブルに陣取った。
「おお〜、祭りっぽい!」
 藤真は嬉々としてたこ焼きのパックを開けると、一つに楊枝を突き刺した。
「はい牧、あーん♡」
「!?」
 唇の前にまで持ってこられたそれを、牧は考える暇もなく口で受け取って咀嚼する。熱い。口の中も、それから顔も。
「オレにもあーんして♡」
 最後まで口の中に残っていたタコを妙な音を立てて飲み下し、牧は顔を険しくする。普段の外食ではこんなことはしないのだ。
「どういうつもりなんだ? 藤真」
「どうって、祭りだし」
「なんなんだその理屈は」
「嫌ならいいけど。お前今日、ノリ悪すぎ」
「嫌じゃないが、そういうのは家でだな……」
「はいはい」
 藤真はじろじろと、いかにも胡散臭いといった目で牧を見る。もともとシャイな男ならば納得もするが、牧はそうではなかったはずだ。カップルだらけの店に男二人で入ったのも、クリスマスのイルミネーションの中を歩いたのも、花火大会で手を繋いだのも、思えば高校生のときだった。
(付き合って三年目じゃ、もう飽きられてんのかな)
「藤真、芋もうまいぞ」
 牧は藤真の内心など知る由もなく、穏やかな表情でじゃがバターを勧めてくる。
「うん。……うまい」
 屋台のじゃがバターはひときわ旨い。それは確かなのだが、気分的にはどうにも煮えきらなくて気持ちが悪い。藤真は缶の中に残っていたぬるいビールを全部あおった。
 その場での食事を終えると、二本目の缶ビールを買い、「ビールにはやきとりだ!」と知ったようなことを言ってやきとりを買って食べた。ビールの味は相変わらず不味かった。
 次はどうしようかと歩いていると、若い女に声を掛けられる。
「すみませぇん♡」
「男性おふたりなんですかぁ?」
 浴衣姿の若い女二人組。アップにした髪の明るさに対して、黒く長いつけ睫毛には迫力さえ感じる。藤真はあからさまに面倒そうに返す。
「そうだけど」
「ウチらもちょうど女子ふたりなんですけどぉ〜♡」
「そうなんだ、でもオレらデート中だからごめんね! バイバイ!」
 藤真はにこりと笑って牧の腰を抱くと、密着させた体を押してふたりから離れていく。逆ナンパなど珍しくもない。それだけで終わっていれば何も言うつもりはなかったのだが、背中の向こうでかん高い声が上がった。
「はぁア? ないわー!」
「うっざ、調子乗りすぎ! 面白いと思ってんのかよ、つまんねーんだよ!」
 最近はこんな女性もいるのか、嘆かわしいことだ、と年齢不相応な感想を抱いて首を振る牧のかたわら、藤真は振り返って思いきり叫んだ。
「うるせえブーーース!!」
 そして舌打ちと、ひとが愛想よくしてやれば調子に乗りやがって、というぼやきが続く。キャーだのひどいだの言う女の声が遠ざかっていくが、自業自得だろう。
「……激しいな」
 藤真にアグレッシブな面もあることはよく知っているが、女子のファンには愛想よく接する姿ばかり見てきたので、少し面食らってしまった。
「なに、引いた?」
「いや……まあ、お前もいろいろ大変なんだろうなと思った」
 相手の態度もあるだろうが、やはり酔っているのだろう。女の気配が失せても藤真が離れる様子はなく、半身は相変わらずぴったりと密着している。ふざけているだけにしては、凭れてくる体が重い。よくよく見れば頬には赤みがさして、目はとろんと垂れている。体を擦り寄せたことと角度のせいで胸もとが大きく開いて見えて、気になって仕方がない。じっくりと見ていたいような、見てはいけないような落ち着かない気分で、夜の明かりの中でもひときわ白い胸をちらちら盗み見ていた。
(この辺にホテルは……あっても今日は満室のような……)
 おとなしく家まで我慢するのが最善のようだ。となると、あまりくっついてもらわないほうが助かる。
「藤真、大丈夫か? 少し座って休むか?」
「なんで」
「酔ってるだろう」
「酔ってねえよ」
 酔っている人間おなじみのセリフを言って、藤真はぎゅうと牧に抱きついた。半身どころでなく完全に抱き合う形だ。
「おい、藤真っ!」
 牧は藤真を抱えて道の端に移動する。覗き込んだ藤真の顔は相変わらず赤いが、長い睫毛の下の瞳は明確な意思を持って、妖しげに牧を見返す。
「いいじゃん別に、酔っ払いがふざけあってるようにしか見えねえよ」
「俺はそういうふうには思ってない」
 牧は責めるような、甘えるような視線から逃れるように顔を背ける。
「はあ?」
 どういう意味だ。つまり、牧はこれをカップルの接触と認識したうえで拒否しているのだ。なおさら悪い。
(昔は違った)
 しかし、今日は初めからそうだったのかもしれない。なんだか自分ばかりが浮かれていたような気がして、急激に悲しく、そして馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「帰る」
 呟いて押し返した牧の体はびくともせず、その反動で藤真の体だけがふらふらと歩きだす。
「おいっ……!」
 牧が咄嗟に藤真の袖の端を捕まえたのと同時に、遠くで籠もった破裂の音が聞こえた。
「花火だ」
 周囲の人間が一斉に空を見上げる。夜空に次々に咲いた花は、海辺の花火大会で見るような、大きく近くに感じるものではなかったが、祭りに来た人々を喜ばせるには充分で、ほうぼうで小さな歓声が上がった。
 帰ると言った藤真も足を止めていた。光の滴を、それが落下しながら描く線のひとつひとつを凝視していると、空が落ちてくる錯覚に襲われる。足もとの覚束ない感覚に、思わず空に伸ばしかけて引っ込めた手を、大きな手が後ろから包んで握った。
「……!」
 牧は藤真の腰に腕を回すような格好のまま、花火が終わるまで無言で寄り添っていた。
「よし、帰るか」
 帰り道では、ずっと手を繋いでいた。
(拒否ってたくせに、どういうつもりなんだろ、変なの)
 牧は何も話そうとしない。月明かりの縁取る、高い鼻梁をした特徴的な横顔がこちらを向くと感じて、藤真は慌てて目を逸らす。手を振りほどく気になれないのが、少し悔しかった。

 帰宅すると、藤真が先に玄関に入って照明を点けた。背後でドアロックの音が聞こえたかと思うと、即座に抱きすくめられていた。
「っ!!」
 押し殺してもなお荒い呼吸が耳を撫で、密着した体からは布越しにもじっとりと高い体温が伝わる。尻に当たる硬いものからは、ひときわの熱を感じた。
「なんだよ、帰った途端発情かよっ……んむっ!」
 顎を捕らえられ、顔だけ振り向かされる形で唇を塞がれる。舌を押し込んで絡め取る、貪るようなキスだった。くらくらする。まだ少し酒が残っているのだろう。体を抱え込まれて牧のほうを向かされると、厚い胸を押し返してささやかに抵抗を示した。
「途端? 俺はずっと我慢してたんだぞ。お前がくっついてくるから、気が気じゃなかった」
 当然のように言ってのける牧に、藤真は眉を跳ね上げて怪訝な顔をする。
「我慢? ずっとオレのこと拒否ってたくせに?」
「拒否なんてしてない。家でしようって言ったんじゃないか」
「じゃあ最初から出かけなくて、家でやってりゃよかったじゃん」
 このままでは喧嘩になってしまいそうだ。拗ねた調子の藤真に、牧はことさら穏やかな口調を意識して返す。
「どうしてそうなるんだ?」
「だってお前、昔はそんなじゃなかった」
「昔? デートか試合のときくらいしか会えなかったからだろう。だが今は違う。家でふたりきりで、ゆっくりいちゃいちゃできるじゃないか」
 高校のころはふたりとも今よりずっと忙しかったし、互いに目立つ立場だったから、ずいぶんと都合を考えたものだった。貴重なデートの機会はいつだって特別で、当然浮かれていただろう。今日のデートだとてもちろん楽しみだったが、昔と違うと言われれば違うかもしれない。しかし牧にはそれが悪いことだとは思えなかった。
「いちゃいちゃ……?」
 思ったまま口にした言葉だったが、あらためて藤真の口から聞くと途端に照れくさくなる。だが、はっきり言わなければ伝わらないこともあるだろう。
「ああ、藤真といちゃいちゃしたくて、ドキドキしてた」
「ふうん……」
 触れ合う体は熱いが、牧は強引にキスしたきり、それ以上先に進もうとはしない。こういうところは昔と同じだ。玄関で迫られることにも覚えはある。
「……じゃあ、いちゃいちゃしよっか」
 藤真は玄関の段差部分に腰を下ろすと、まだ雪駄を履いたまま土間に立ち尽くす牧の浴衣の裾を左右に大きく開く。
 わかりきっていたはずだが、下着越しにもくっきりと形を主張するものを目の当たりにすると、あらためて動揺を孕んだ興奮が起こり、自らの下半身まで疼いてくる。
 すりすりと音を立てて撫でると、汗だろうが、じっとりと湿っていた。下着を下ろし、こぼれ落ちるように現れた立派な男根を下から支えるように掴まえる。色黒の逞しい竿から、高く張り出した先端部に肉の色を見せ、ときおりピクンと脈打って、牧とはまた別の生命を持っているように思えた。
 男の体の仕組みはよく知っているつもりだが、牧が自分に対してこうなってしまうことは未だに少し不思議だ。嫌なわけではない。むしろ──
「ジャンボフランク……」
「あれより太いんじゃないか?」
「スーパージャンボフランク」
 まじまじと見つめて呟き、大きく口を開けて咥え込む。蒸れたようなにおいが鼻を抜けるが、先端を喉に押しつけるように、より奥へと導くとそれも感じなくなった。
(やっぱりオレ、こいつが好き)
「ンぐっ……」
 さほど経たないうちに、息が詰まって気が遠くなる。酩酊に似た感覚と嘔吐反射に逆らわず口から出すと、豊満な亀頭にねっとりとした唾液が糸を引いた。
「肉棒が好きとか、言ってたな」
「うん。すき」
 挑発的な笑みを作ると、ぴちゃぴちゃと音を立て、表面全体に舌を這わせて愛撫を施していく。ふざけて言ったつもりではなかった。これについては〝牧のためにしてやっている〟という感覚ばかりではなく、体の一部に過ぎないはずのそれそのものが、無性に愛しく感じられるのだ。無論、誰のものでも同じように思うわけではないだろう。
「ああ……藤真……」
 牧は一方的な奉仕を求めたつもりではなかったのだが、藤真がその気ならば拒否する手はない。帰宅直後の状態をためらわず咥えられることには、恥ずかしさと同時に妙な興奮があった。
「んむっ、んんっ」
 ときに苦しげに呻きながらも、まるでそれが美味であるかのように、音を立ててしゃぶりつく。喉奥と舌を使いながら、顔を前後させるピストンの動作を繰り返されるうち、牧はたまらず藤真の顔を引き剥がす。
「くっ、藤真っ……!」
「なに?」
「いや、出そうになったから……」
「いいよ、出して。飲みたい」
「!」
 妖艶に微笑して再び唇を寄せられると、もう咎めることはできなかった。髪を撫で、頭を包み、高みに昇るように自ら腰を振る。窄められた唇が、しきりにいやらしい水音を立てていた。
「っ、いくぞ……ッ!!」
 体が震え、強烈な快感が一本の鋭い線のように奔る。閉じ込めていた欲望は放たれ、吸い出されて、藤真の口内に受け止められる。身動きできないほどの充足感だった。
 藤真はべろりと舌を出し、受け止めた精液を見せつけると喉を鳴らして飲み下し、唇の端を吊り上げて笑う。牧の欲求は落ち着くどころか止めどなく湧き起こる。
「まだやれる?」
「当然だ」

 薄明るい部屋のベッドの上、浴衣を乱して肌の多くを露わにしながら、組み敷かれた白い肢体が艶かしく踊る。
「あっ、あんっ、んっ、うぅっ…」
 腰を抱え上げられ、大きく開かれた脚の間に、浅黒い男根がしきりに出入りする。肉の薄い体を暴力的なまでの体格差と質量で穿たれながら、藤真はそのたび苦悶に似た歓喜の声を上げた。
「んぅっ! あっ、あぁっ、あんっ…」
 その身に纏わりつく浴衣が、衣服というより動作を拘束するもののように見えて、日ごろは息を潜める牧の攻撃性と支配欲をしきりに煽る。
「お前だって、やりたかったんだろう?」
 動きを止めると、体を穿ったままで、ツンと尖った胸の突起をひねり上げて弄る。
「あンっ! ぅうっ、あぁっあ…」
 背を反らし、強請るように胸を突き出して悶えながら、秘部は大きくうねり、淫らに締めつけてくる。牧は求めるものを察しながらも与えず、とろとろとよだれを垂らす先端部を、指の腹を小刻みに動かして虐めた。
「ひんっ! あぅ、ああっ、そこ、やめっ…! んうぅっ…!」
 びくびくと痙攣するように腰を揺らし、拒絶のような言葉もすっかり快感に濡れている。いじらしくて、愛らしくて堪らない。
「はぁっ…あぁっ…ぅっ…」
 責める手を止めても快楽の余韻が残っているかのように、体はぴくり、ぴくりと震え、内奥はもの欲しそうに吸いついてくる。もうあまり余裕はない。
「動かすぞ」
「ぅあっ…!」
 返事をする前にすでに牧は体を引いていた。ひとつになったようだった粘膜が引き剥がされ抜けていく感触に、藤真は身震いする。
(ぞくぞくする……)
 行為には慣れているし、牧のこともいい加減よく知っているつもりだが、ときめきと恐怖と、自らの肉体への後ろめたさが綯い交ぜになったこの感覚は失せない。
「あぁっ、んっ、うぅ…んっ…」
 牧は何度かゆっくりと動作したのち、欲望のままに抽送の速度を上げていく。
「うぐっ、んっ、ぅあっ、んんッ!」
 波打つ体を押さえつけ、あるいは大きく開かせた脚の間に好き勝手に打ち込まれる自らの肌色。自分だけが見ることを許されている、極めてプライベートで、たまらなく卑猥な光景だ。
(藤真……藤真、好きだっ……!)
 あさはかだと言われようが、体が強く求めるたびに、自らの心をあらためて思い知らされる。パンパンと規則正しく肌がぶつかる音に、濡れた肉が擦れる音、乱れる息。肉体の受ける直接の快感を、視覚と聴覚とが増幅していく。
「藤真、いくぞ…ッ」
「っあっ、んっ…はぁっ、あっ、あぁーっ…!!」
 昇りつめ弾け飛ぶスパークの中で、あるいは体ごと意識をさらう波の中で、思考を失ったまま、ただ腕に抱えた、互いの存在を愛おしいとばかり感じていた。
「あっ……あぁ…っ…」
 藤真は潰れそうなほど強く抱かれながら、自らのうちに注がれた温かな感触と、どちらのものか判別できなくなった鼓動に浸る。熱い息が、大きな音を立ててしきりに耳を撫でていた。
「ふーっ……」
 牧はひときわ大きくため息をついて上体を起こす。しかし繋がれた下腹部は離さないまま、藤真の片足だけ持ち上げて体を横向きにひねらせ、体を交差させる角度でなおも腰を揺らした。
「あぅっ、んあっ…ぁんっ、んッ…!」
 ぐちゅ、ぐぽ、動くたびに粘性の音を立てる局部が悦び咽んで収縮し、自ら注いだ精液が愛液のように溢れ出る。牧はうっとりと息を吐いた。
「やらしいな、藤真……」
 現在の行為の主導権が牧にあったとしても、藤真が拒絶を示せないわけではない。しかしそれをしないのだ。身を乗り出して顔を覗き込むと、乙女のように染まった頬と、快楽に潤んだ瞳が微笑んだように見えた。
「……最高だ」
 呟いてくちづけると、それきり言葉を忘れたように、獣のように貪った。

 力の抜けた体で裸の温度を共有しながら、牧は藤真の背中を包むように抱く。
「なあ藤真。来年もまた、浴衣を着て祭りに行こう。そうしたら、楽しみなんじゃないか? 夏が終わったって」
「……なんの話だよ」
「祭りに行く前に言ってた」
「あー……」
 働かない頭で思いだす。夏の終わりは寂しいものだとか、言った気もしなくもない。
『そういうことじゃねえんだよ、お前ってやっぱズレてんな』
 言葉は出なかったが、いかにも名案だというように得意げな顔をしている牧を認めたら、それでいいような気がしてしまった。
「そうだね」
(次の夏が楽しみだとしたって、その夏の終わりにはまた同じように、オレは寂しい気分になってると思うんだけど)
 子供時代の、夏休みの終わる名残惜しさ。道端に増えていく蝉の死骸。高校のときに感じた焦りと絶望と空虚感。追いつけない逃げ水。印象的な光景と体験とが絡み合って作られた感情が、この季節には染みついている。夏は嫌いではないが、だから夏の終わりは嫌いだ。しかし、牧にそれを理解してもらおうとも今は思わない。
 男らしい無骨な輪郭をした頬に、なんともなしに触れようとして、ゆっくりと宙を掻いた白い指が、大きく暖かな手に包まれる。ふたりとも、今日の花火が上がった直後の光景を幻視していた。
「なあ藤真、明日の夜、たこ焼きでもいいか?」
「あ?」
 あまりに唐突に思えた話題に、間の抜けた声が出てしまった。牧は藤真の手を掴まえたまま、照れくさそうに視線を泳がせる。
「今日あんまり食えなかったから、明日ちゃんと食いたいと……」
「明日も夜店探しに行く?」
「違う。買ってきて家で食べるんだ」
「ふーん。たこ焼き好きなんだな」
 何か言いたげに手の甲を指で弄ってくる、牧の意図もわかってはいる。
(こいつといると、なんだかしんみりできねえなー……?)
 ふっと、唇から笑みを含んだ息が漏れる。
 夏が終われば秋がきて、蝉が死のうが人は明日の食事を考える。何も特別なことのない、当たり前の営みの端にしがみつくように、広い背中に腕を回した。

雨宿り

 去年の冷たい雨の日、ずぶ濡れのあなたと出会って俺は、頬を伝う熱には気づかないふりをしてただ
「ひどい雨ですね。うちで雨宿りしていきます?」
って言ったんだ。

 俺の住んでるアパートでシャワーを浴びて着替えを要求して軽く食べてなお、藤真さんはふてぶてしく言った。
「帰るのめんどくさくなったな。泊めてくれねえ?」
「宿代頂戴しますよ」
 出会い頭から尋常な様子じゃなかったから、後輩なりに遠回しに『帰ったほうがいいですよ』って言ったつもりだったんだけど
「おいくら万円?」
「おカラダで払ってくれたらいいです」
 これだって、嫌がるって思って言ったんだ。戯け顔を作って藤真さんの体をベッドに押し崩した、俺の体を突き放してキレて笑ってくれたらそれでおしまいだった。だけど違った。
「……それさぁ、まじで言ってる?」
 俺は妙に察しがいいほうで、藤真さんが「まじで」そう聞き返してるんだって気づいてしまった。そうしたらもう止められなかった。
「まじでって言ったら、どうします?」
 どうする? どうなる? 好奇心を抑えることができなくて、薄い胸をシャツの上からまさぐった。俺のシャツだ。だけどその下にはまだ知らない鼓動がある。
「泊めてくれるんなら、それでもいいかな」

 それからだ。度々藤真さんと致すようになったのは。
 好きとも会いたいとも言わないで、ただ「会える?」とか「時間ある?」とかそんなレベルで、一応体育会系なんで基本先輩優先、藤真さんの都合で。
「仙道って、もともと〝そう〟なの?」
「いんや? ……て、正直に答えちゃいましたけど、詮索はナシじゃなかったでしたっけ」
「うっかり答えるほうが悪い」
「まあ、そりゃそうですけど……」
 藤真さんは男との行為には慣れていた。そしてめちゃくちゃエロかった。エロいのについては藤真さんがどうっていうより男女の差だと思う。互いに快楽だけを追求する割り切りの行為に、俺は簡単にのめり込んだ。
 なぜか昔から女の子に不自由したことはなかったけど、もう元には戻れないんじゃないかってくらい、これはシンプルに強烈な快感で、そして少しだけ背徳的だ。

「ナマで中出し、さすが都民は進んでますなぁ〜」
「いやいやいや、誰がさせてると思ってんですか!?」
 恋人じゃない。そんなつもりじゃないただの遊び相手。でもセフレっていったら「友達じゃねえよ先輩だろ」って怒られた。じゃあ俺たちって一体なんなんだろう。

 インターホンが鳴って、あっけらかんとした声がした。
「はろう。雨宿りさせてよ」
「人の家に押しかけてきて雨宿りもないでしょ!」
 しかも傘までさして。そんなわがままな先輩を家に入れてあげる俺って本当お人好しだ。
「いや、最初のとき、そうだったなって思い出してさ」
「そうですね。季節は違ったけど……んむっ」
 キスはあんまり好きじゃないって言ってたくせに、今日は藤真さんから仕掛けてきた。まるで言葉を封じるためみたいだった、なんて全く思わなかったことにしてあげます。

 あんまり設備の充実してないこの部屋には除湿器なんてなくて、裸で抱き合った二人の肌が六月の湿気た空気を帯びてぺたりと張り付いて、剥がれて、それを繰り返す。普段は不快でしょうがない感触だろうに、妙に愉快な気分になって、夢中で藤真さんの体を撫でていた。
「ねえ、ぺたぺたして離れたくないって言ってるみたいですよ」
「離れたくない、ってオレが言ったら嬉しいのかよ? お前は」
 この人、プライベートではめちゃくちゃ思ってることが顔に出るんだ。いや、もしかしてわざとやってる? ともかく、藤真さんの顔は俺の愉快な気分とはぜんぜんそぐわないもんで、俺は少しだけ焦った風にする。
「えっっ、そんな、ちょっとした冗談じゃないですか」
「だよな、男と付き合ってる自体、きっと冗談みたいなもんだよな。魔が差した、みたいな」
「ふじっ…はっ…」
 藤真さんの手が俺の股間に伸びて、俺は素直に口を噤む。
 だいたい、なんで付き合ってる相手がいるのに俺と遊ぶ必要がある? 別の相手じゃなきゃいけない理由があるからだろう。二人の間に事件が起きたのかもしれないし、藤真さんが単なる思い込みで拗ねてるだけかもしれない。なんにせよ俺は余計なことは言わない。言っちゃいけない。めんどくさいって思われたら、きっとあっけなく終わってしまうんだろうし。

 ああ、俺はいつの間にかこの関係を終わらせたくないって思うようになっていた。
 なぜかって、気持ちいいから、それ以上のことがあっちゃいけない。そこにたどり着いたらきっと二人ではいられなくなる、なんとなくそんな気がする。そして俺の勘はよく当たる。

「昨日も雨、今日も雨」
「梅雨入りしましたから、しばらく雨でしょうね」
「そーだね。ウチの体育館も結露がすごくて嫌な感じ」
 そっからバスケの話に持って行きたかったのかと、思わなくもなかったけれど俺は
「また雨宿り、しにきてくださいね」
 本当にあなたのこと想ってるなら、こんなこと言えないはずなのにね。

それからずっと、おれたちは 3

3.

 二〇十五年四月一日、早朝。
「藤真! 結婚しよう!!」
「ばっか今日エイプリルフールだろ。もっと面白いウソつけよ」
 朝っぱらから妙にテンションの高い牧を、オレは動物にやるみたいに「しっしっ」てして追い払おうとする。個人的に認識してるうちで一番くだらねー行事だと思ってるんで、対応もそれなりになるってもんだ。
「おっ、四月一日ってそうか。いや嘘なんかじゃないぞ。ほら、これ読んでみろ!」
 牧が突きつけてきた新聞の紙面の文字を、目に入ったまま読み上げる。
「パートナーシップ、証明……?」
 そして見出しは〝LGBTカップル公認へ〟と続く。東京都渋谷区でパートナーシップ証明制度が施行されるというニュースだった。
「なあ、まだガキだった俺たちが一緒に暮らし始めたころ、よく通ってた渋谷だ。運命を感じないか!?」
 ふたり暮らしの始まった大学時代、住んでたのは世田谷区で、通学で渋谷駅を使ってたのはオレだけだが、牧だって当時は若者だったんで、ふたりで渋谷を歩くことは多かった。
「って、具体的にどういう……」
「書いてあるだろう、ちゃんと読んでくれ」
 簡単にまとめると、自治体が同性カップルに対し、ふたりのパートナーシップを婚姻と同等であると承認し、証明書を発行する制度。本当の結婚と全く同じってわけじゃなく、あくまで自治体の条例ではあるが、それなりに後ろ盾になるものみたいだ。
「婚姻と、同等……」
「というわけで、結婚しよう」
 牧はにこにこ、キラキラとした一切の曇りのない笑顔で言い放つ。プロポーズってほどの重さはない。まあ、二十年以上も付き合ってきてたらそんなもんかもしれない。
「別にオレ、結婚したいなんて思ったこと……」
「できないって思ってたからだろう。できるっていうなら俺はしたいぞ。いつか別れるつもりで今まで一緒にいたわけじゃないんだ」
「そりゃあ、そうだけど……別に、今の状態で特に困ってることないし……」
「これから困ることが発生するかもしれない。お前よく言うじゃないか、なにが起こるかわかんないって」
「それ言われるとなあ」
「なんなんだ、なにが懸念なんだ? ムードが足りなかったか?」
「ムードは別にいらないけど……」
 そういや昔一緒に住もうって言われたときもムードなかったな。まあそれはいいとして、懸念って言われてしまうと特にはない。ただ、さっき言われた通り、男同士で長く一緒にいて、結婚なんて他人ごととしか思ってなかったし、願望もなかったから、急に言われても戸惑うって感じだ。
「これ、渋谷限定の話だろ?」
「ああ。だから渋谷に引っ越そう」
「渋谷に住むとこなんてあんのかよ?」
「いくらでもあるだろう、センター街に住もうっていうんじゃないんだ。嫌なのか? それならそう言ってくれ」
 そうなんだよな。そう。オレは嫌なら嫌って言うほうだ。
「嫌では、ない……」
「なんだ、じゃあ決まりじゃないか!」
「戸惑ってる」
「……そうか。そうだよな。じゃあ、少し考えてみてくれ。引っ越しも必要だし、まだ証明書は貰えないようだし、そう急ぐことでもない」
 牧は少し消沈したみたいだったが、あくまで穏やかに言った。前に家を買うって言われたのを拒否ったときは見たことないくらい凹んでたから、ちょっとは安心してるようだ。……そうだな、家のこと言いだしたあたりから、牧はその手のこと考えてたんだろう。世間で言う、結婚みたいなこと。それで牧は心の準備だけはある状態だったから、今回のニュースに迷わず飛びついたってわけだ。だけどオレは違った。けど──
「牧、本当にいいのか? 取り返しつかなくなるんじゃ?」
「ああ、いいさ。一体なにを取り返すっていうんだ?」
 牧の目は見守るみたいに優しい。そうだな、オレは一体なにをおそれてるっていうんだろう。
「……そうだね。いいよ。パートナーの証明を受けよう」
 牧は大きく目を瞠って、それからみるみる破顔する。がばっ! って音が聞こえたくらい、オレは思いきり抱きすくめられていた。
「藤真……! ありがとう!! もう離さないぞ!!」
「ありがとうはおかしくね?」
「そうか? まあものすごく嬉しいってことだ!」
 痛いし暑苦しいけど、こんなに喜んでるならまあこのままでいいかな。
 牧が『考えてみてくれ』って言ってから、正直考えてはなかった。嫌じゃない。牧とは一緒にいたい。断る理由なんてない。必要なのは、ほんの少しの覚悟だけだった。
 牧みたいにはしゃぐテンションにならないのは、結婚に憧れがなかったからだろう。男同士ってのももちろんだが、男女でも離婚する夫婦なんていくらでもいるじゃんかって思ってて。だけど、牧がしたいっていうなら付き合ってやってもいいなって感じたんだ。

 制度ができるって決まっただけで、施行はまだ先だ。引っ越しもしなきゃいけないし、互いに仕事もあるってんで、意思が決まったからって早々に動けるわけじゃなかった。そのうち、世田谷区でも似たような取り組みを検討してるって話が耳に入って、じゃあそれを待ってから渋谷か世田谷か決めようってことになった。住むところとしては学生時代に暮らした世田谷のほうが馴染みがあるし、その制度のほかにも気にするべきところはあるんじゃないかって、ふたりで話して。
 結果、オレたちは学生のとき以来で世田谷区に舞い戻ることになった。宣誓書を出しに行く日、牧は朝から、いや前日から様子がおかしくて、オレはずっとそれを面白がってた。「今日がオレたちの新しい記念日になるのかな」って言ったらめちゃめちゃ嬉しそうにしてて、オレは自分が結婚する実感ってよりは、牧はそれでこんな幸せそうな顔するんだって、そっちのほうで胸がいっぱいになって、少し感動してしまった。まあ、決断してよかったなってことだ。
 オレが四十一歳、牧は四十歳のときだった。

 パートナーの宣誓をしたからって、日常が特に変わるわけじゃない。外では人並みに働いて、家では相変わらずしょうもないことで笑ったり機嫌悪くしたりして、大きな事件なんて起こらず、なにごともなく年とってくのかなーって思ってた。ああ、ちょっと大きめのことといえば、牧の強い押しに負けてマンションを買ってしまった。ある程度間取りとかに口出しできる、セミオーダータイプだ。

 五年後、二〇二〇年。
 外ではウイルス感染症が流行して、今夏に予定されてた東京オリンピックはひとまず延期、オレは平日なのに仕事に行けずに家にいる。連日こんな感じなんですっかりだらしなくなっちまって、今日起きた時間は朝の十時半だった。
「おはよ〜」
 自分の部屋を出て、居間のソファに座ってた牧に後ろから声を掛ける。
「おう、おはよう」
 牧はこっちを振り返ってちょっと照れたみたいに言った。家にいる割にちゃんとした格好してんなって思ったら、肩の向こうにノートパソコンが見えて、さらにその画面の中で気まずそうに笑ってる人が見えた。
「!!」
(居間でリモート会議すんなつっただろ!)
 オレはバシンと牧の背中を叩いて、そそくさとトイレに逃げた。トイレの音とか聞こえないもんだろうか。ドア閉めてたら平気か。

 居間にいるわけにいかないんで部屋に戻って、ちょっとスマホ弄って、タブレットで動画見て。それぞれの部屋にテレビを置いたら居間に来なくなるだろうって、牧が昔断固反対した名残で未だにテレビはないけど、もはやそれでも暇しない時代なんだよな。ベッドに転がってしばらくだらだらしてたら、部屋のドアがノックされた。
「藤真、仕事終わったぞ。遊ぼう」
「もう!?」
(遊ぼうって! 犬かよ!)
 牧の言葉と、リングコン──直径三十センチほどのリング状のゲームコントローラー──をアピールする仕草に、声と脳内とで別々のツッコミを入れていた。
「ああ、会議終わったからな」
「会議しか仕事ないんだ」
「今日はな」
 それでも会社にいればなにかしらやってるんだろうが、在宅勤務となれば余った時間はまあ遊ぶわな。それすらしてないオレがどうこう言えることでもないんだが。

 リングフィットネス・アドベンチャー、通称リングフィットは最近人気のテレビゲームで、体の動きを認識する機能を搭載した専用コントローラーを使い、冒険しながらフィットネスができるという代物だ。テレビでもよくCMを打ってる。
『最近どこも景気悪くて、儲かってるのはゲーム会社くらいらしいぞ』
 大真面目な顔で言いながらリングフィットとゲーム機本体を買ってきた牧に、言いわけしなくていいのに! ってツボって笑ってしまった。
 牧はテレビゲームが好きじゃない。理由は簡単、下手だから、面白さを感じるとこまでいけないんだ。そしてゲームの上手い花形に嫉妬してた。大学のときの話だ。だが体を使ってゲームをするリングフィットは、牧も好成績を出せて面白いようで、すっかりハマってる。
「どれにしようかな」
 牧がミニゲームを選んでるのを、オレはソファに凭れて見守る。
「パラシュートやって」
「藤真パラシュート好きだな。スカイダイビングしてみたいとか?」
「いいや?」
 プレイしてるときの牧の動きとか反応が面白いからだよ、とは内緒にしてる。牧は休日に出かける予定を入れたがるタイプだから、こうやってダラダラ家で過ごしてるのって意外と新鮮で悪くない。不穏なニュースが多いのとは裏腹に、家の中の時間はのどかだ。
 ちなみにこのゲームには一人プレイモードしかないんだが、牧は二人で遊べると思って二つ買ってきたんで、一個は花形家にあげた。品薄で買えてなかったんだって感謝されたが、牧は一体どういうルートでこれを手に入れたんだろう。
「……花形、大丈夫かな」
「お前、またそれか? 花形は感染症じゃないだろう」
「でも内科は内科だし、病院いるしさぁ」
 花形は神経内科のお医者サマだ。詳しいことは知らないが、オレたちが遊んでるときにも働いてるのは確かで、食事に誘って労ってやるのも今はためらうような状況で。まあ、そのうちことが収まったらなんかご馳走してやろう。
「しっかし、生きてるうちにいろいろ起こるもんだな〜」
 青春はいつの間にか終わって、仕事ももう変わんないだろうし、余生って歳じゃないけど、もうそんなに新しいことはないんじゃないかと思ってた。だけどたとえオレたちが変わんなくても、人がいれば世間があって、世間が変わればやっぱりオレらにも影響はあるんだよな。
「そうだな。一緒にいられてよかった」
「ん?」
 話が噛み合ってないんじゃないかって聞き返す。
「会いたくたって気安く移動できない状況なんだから、離れてたら心配じゃないか」
「あー……」
 オレと牧が密とか気にしないで一緒にいるのって、家族だからなんだよな。昔は別々のチームでバスケやってるだけだったのに。いまさらだけど、不思議な気分だ。
「これからだって、きっといろいろあるぞ」
「あるかな。いいことだといいな」
「今は〝病めるとき〟だから、次は〝健やかなるとき〟がくる」
「えー、あれそういう意味ではなくねえ?」
 結婚式の牧師の誓いの言葉だ。もちろんオレらは式なんて挙げてないが、ちょっとした真似ごとはした。牧ってそういうの好きそうだろ。でもあれって、一体誰に誓ってるんだろうな。相手に対してか?
 病めるときも、健やかなるときも、富めるときも、貧しきときも、

 それからずっと、おれたちは <了>

それからずっと、おれたちは 2

2.

「牧……?」
 裸足の足の指でおそるおそる牧の股間に触ると、想像した通りのじっとりした感触に、自分で自分の眉間にシワが寄るのがわかった。
「おい、牧ってば!」
 このまま足に体重を乗せて踏んづけてやろうかと思いながら声を荒げると、牧は「うーん」と呑気に呻いて眠そうに目を瞬かせた。
「お、藤真、おはよう。なんだ、モーニング足コキサービスか?」
「お前さあ……」
「ん……んんっ!?」
 牧は首を前に折って自分の股間を見つめると、おずおずとスラックスの中に──たぶんパンツの中まで手を突っ込んで眉を寄せた。
「すまん、夢精した」
「中学生かよっ!」
「……三十七だ。うん、それで藤真は三十八だよな?」
「ああ? ついこの前三十八になったな」
 牧は不思議そうな顔でオレを見つめて、安心したように笑った。寝ぼけてるんだろう。夢精だけなら怒るようなことじゃないだろうが、呑んで帰ってとっ散らかした床の上にスーツのまんま寝て夢精、って状況には呆れたっていいだろう。
 普段なら勝手に部屋に入ったりしないけど、昨日の夜は飲んで帰るから先に寝てていいって言われてて、大人しく先に寝て。朝起きたら牧の部屋のドアが半開きだったから、そりゃまあ様子見に覗くくらいするよな。
「それで、なんなんだよ、このありさまは」
 床の上には本やらなにやら散らかっている。牧がズボンを気にする仕草をしたが、もう手遅れだろう。オレはとりあえず自分の疑問を晴らすことにする。
 牧は照れくさそうに、でも嬉しそうに口もとに笑みを浮かべた。
「飲み会で昔の話が出て、懐かしくなって、アルバム見ながら寝落ちしたんだな。おかげで十七のときのお前の夢を見たぞ」
「それで夢精?」
「ああ、初々しくてものすごくかわいかったんだ」
 にこにことして、さも楽しげな牧の態度がなんとなく気に食わなくて、衝動的に腹を踏んづけていた。
「うぐっ!」
 筋肉に覆われた硬い腹だ、どうってことないだろ。股間じゃないだけ有情だと思ってほしい。
「悪かったな、古くさくてかわいくなくて」
「そんなこと言ってないだろう。今のお前もかわいいし、いやどっちかといえば綺麗だな。すごくセクシーで素敵だ。若いお前はそりゃ抜群にかわいかったが、今の俺には今のお前が一番だ」
「……寝起きでそんな饒舌なの、すごいね」
「本心だからな」
 確かに、試合中の打算以外で平然とウソつくようなやつじゃないのはよく知ってんだけど、今がいいって言いながら昔のオレで夢精してんだから説得力はない。情けない状況のくせに、ズボンの股間を気にしながらダンディに笑うのが憎たらしいようでいて憎めなくて、自然とため息が出た。
「……シャワー浴びてきていいか?」
「うん、行ってきな」

 オレは自室の机に向かって、牧の部屋から拝借してきたアルバムを眺めていた。牧の部屋に置いてるくらいだから、オレがこれを見たのは結構久々だ。
 開きっぱなしのまま牧が寝落ちしてたのは、夢に見たらしい高校生のころのページ。バスケ関係で撮られたのとか、オレが個人的に盗撮されたやつとか、写真そのものは結構多い。高二から付き合ってたものの、お互いの立場上カップルっぽい写真は少ない。
(若いつっても、ちょっと子供すぎねえかな……いや……)
 オレってこんなだったっけ? ってくらい、自分で言うのもナンだが、昔こういうボーイッシュアイドルいたようなって感じの美少女顔だ。女顔とか言われてたのは下らねえ悪口だと思ってたんだが、割と事実だったのかもしれない。そしてバスケ部の中とか、牧の隣に並んでたりすると余計にそれが際立つ。
(オレって年とって顔伸びたのか!? いや、輪郭が丸いからそう見えるのか)
 机の上に置きっぱなしになってるミラーで自分の顔をチラ見する。そう痩せたつもりはないんだが、今って結構頬が痩けたんだな。あと今は斜めに分けてる前髪を、全部下ろしてたからもあるだろう。女っぽく見られるのが嫌だったわりに、短くしても前髪は下ろしたまんまで、スポーツ刈りとか坊主みたいにまではしたことがなかった。まあだって、そういうのはシュミじゃなかったし。
 昔の友達と会うと、だいたいオレと牧は「昔と変わってない」って爆笑されるんだが、主に牧のせいだと思う。実年齢を言うと驚かれることは多いものの、オレはしっかり年食ってるんだ。
(で、そりゃまあ、牧は若い子のほうがいいわなー……?)
 オレと牧とは好みのタイプが違う。牧と付き合ってから気づいたことだが、オレはたぶん年上っぽい見た目? 雰囲気? が好きだ。だけど牧はかわいさと気の強さがマッチしてる感じの子が好みだったはずで、今となっては三十八歳のおっさん(オレ)よりは当然若い子のほうが、かわいいっていう点で好みに合致するだろう。オレだって、別に性的な目線でじゃないが、若くて元気な子は「かわいいな」とは思うし。同時に「若けえなぁ」って、なんだか疲れた気分にもなるんだけど。
 それに若いほうが性欲あって、ガツガツ牧のこと求めるんだろうしさ。
 チリチリ、ジリジリ、なんだか嫌な感じにイライラしてくる。
 ふと自分の右手に──なんも着けてないままの右手の薬指に目がいって、机の引き出しから取り出した二つの指輪を重ねて着けた。付き合って十年経った誕生日に貰ったやつと、この前の二十年経った誕生日に貰ったやつ。重ねて着けれるようにって、今回のは細いの選んだんだって。おっさんのくせによく考えてるよな。
 もう一つ。三つ目の指輪を取り出して、指先に挟んで窓の光にかざす。すっかりくすんだり凹んだりしちまってる、二十年も前の指輪。付き合ってから初めての、高三の誕生日に貰ったやつだ。
 大学生のとき、初めてできた彼女へのプレゼントに悩んでる友達が『最初で指輪は重いって聞くからネックレスがいいかな』とか言ってて、オレは初めての誕生日に指輪を贈ってきた牧を思って笑っちまったもんだった。
 オレとしてはこれも気に入ってるんだが、着けてると牧が子供っぽいだのおもちゃみたいだの、もっといいやつ買ってやるだのってうるせーから、二つ目を貰ってすぐに着けなくなった。ペアリングだったのに、牧があんまり着けてなかったってのもある。
(いいじゃん、ちょっと安っぽくてかわいい指輪……)
『大人になったんだからそれなりのものを贈りたいし、お前にも身に着けてほしい』
 たぶんそれを言われたときは指輪を貶されたってくらいのイラ立ちだったんだけど、今だとまたちょっと違うように感じる。
(年食ったオレには、高校生のときに貰った指輪は似合わないってことなんだよな)
 そりゃそうだ。当たり前。オレは見た目しっかり老けていってるって、さっき自分で思ったばかりじゃねえか。
(こんなんじゃ、そのうち愛想尽かされるな)
 多少のワガママも気まぐれも、許されてたのは昔のオレがかわいかったからだ。オレは自分の見た目を揶揄されるの好きじゃないとか言いながら、存分に利用してたもんな。だって、損するだけじゃ損だし。
(二十年かぁ)
 長いな。オレたちが初めて出会った年齢より、もっと経ってるんだ。あんまりにも長すぎる。その間、もしオレと一緒にいなかったらあいつはなにしてただろう。子供は作ってただろうな。牧の実家みたいな優しくて賑やかな家庭を築くんだろうって、簡単に想像できる。……いや、別に今からだって遅くはないだろ。牧ならイケる。若い女つかまえてさ。うん、やっぱワガママ許すにも若いかわいい子のほうがいいよな。元の地点に戻った。
 悩んだことなんて、昔のほうがずっと多かった。だけど昔は時間が限られすぎてて、立ち止まってなんていられない気がしたし、みんなのためって義務感もあって突っ走るしかなかった。一応、あのころのオレなりに考えてはいたつもりだけどさ。
 今は昔よりずっと時間があって、オレはたぶんオレだけのためにいて、正解を示してくれる成績や勝ち負けもなくて、だから不安になるのかもしれない。勝手なもんだ。
 ──コン、コン。
「藤真、入っていいか?」
 牧だ。まあ牧しかいないんだけど、そういや今日はオレが朝ごはん当番だから呼びに来たのかもしれない。
「ダメ」
「怒ってるのか?」
「なんでオレが怒る必要があるって思うんだよ、お前、なんかオレに悪いことしたのか?」
「え、いや、うーん……」
 ドアの向こうから、いかにも弱ったような声がする。本当にオレに悪いことをしたって思ってるみたいだ。ドアを開けてやる。
「おお、藤真」
 牧は家で過ごすときの服装に着替えていた。
「別にさ、ズボン汚したのは、あれは牧の持ちもんだからオレが怒る筋合いじゃねえだろ」
 牧はきまり悪そうに首の後ろあたりを掻く。
「そう……だな」
 オレは目を逆三角にして牧を見た。
「なに、ほかに悪いことしたのかよ? 昨日の飲み会でとか?」
「いや、それはないぞ。……だがお前、なんか怒ってるだろう?」
「……」
 オレは思わず唇を尖らせていた。昔はかわいいと思ってワザとやってたのが、いつの間にか癖になっちまったやつだ。姉に指摘されて気づいたんだが、もうそうそう直らない。
 その唇に牧は軽くキスをして、オレをぎゅっと抱きしめてきた。よくやるやつなんだが、なんかこれもお互いおっさんなの思うときついな。オレは牧の胸を思いきり押し返してドアを閉めた。
「おい、藤真っ!」
「なにが悪いのかもわかんねーのに謝ってんじゃねえよ!」
 ドアに背中をくっつけてその場に座り込む。別に牧は悪くない。オレが勝手にむかついてるだけだ。牧の態度は『理由はわからんが藤真が機嫌悪いからとりあえず謝っとこう』ってことなんだろう。それが気に食わない。なんか心広いみたいな態度取られてるのが、よくわかんないけどすげーしんどい。
(オレはもう、牧とは釣り合わないんだ)
 昔のことまでは否定しない。バスケでいい感じにやりあってた時代だってあったし、牧はオレがイイんだ、好きなんだって言ったし──昔はな。だけど今は違う。もうバスケはしてないし、牧は精悍に年をとっていくのに、オレはどんどんかわいくなくなって、確実に価値を失っていく。今はまだセクシーだとか言ってられても、もっと、もっと年食ったらさ?
『今の俺には今のお前がいい』
 それは今ここに昔のオレがいないからだ。今と昔のオレが同時にいたらお前だってきっと。
(夢の中で昔のオレに会ったって、嬉しそうにしてたじゃんか)
 昔の自分に嫉妬するなんて、あまりにも下らないのはわかってる。で、だから、別にオレじゃなくたって、ほかの若くてかわいい子でいいんじゃないかって話だ。牧はもう惰性でオレと付き合ってるだけだろう。
「藤真。そうだな、ズボンのことじゃないんなら、俺が昔のお前の夢を見て夢精したことが単純に気持ち悪かったとか……」
「ブフッ!」
 真面目に鬱々と考えてたのに、すごく申し訳なさそうにそんなこと言うもんだから、思わず吹き出してしまった。
 オレが勝手に拗らせてるだけだから、牧にわかるわけもない。ドアを開けてやる。
「オレだって男なんだから、男の生理現象をきもいなんて思わねえよ」
「じゃあなんでだ? あ、そういえばお前アルバム持っていっただろう。大事なアルバムを汚しそうだったから怒ってるのか?」
「大事なのはお前にとってだろ。オレには関係ねえし」
 オレは牧を部屋の入り口に置きっぱなしにして、ベッドに潜って壁のほうを向く。怒ってる理由は言いたくないし、朝ごはん作るのもめんどくさい──牧に対してなにしたっていいと思ってるわけじゃない。そのうち心広いふりもできなくなって、呆れるなり怒るなりするだろうって、それを待ってるのかもしれなかった。
「……もしかして、やっぱり俺が夢で十七のお前とやっちまったことを怒ってるのか?」
 無視しようかと思ってたんだが、いかにも言いづらそうに、申し訳なさそうに告げられたことがしょうもなすぎて、思わず声を上げてしまった。
「夢ん中のできごとなんて知らねーしっ!」
 言われなきゃ知るわけないし、夢精ってくらいだからある程度想像もできるし。そんで結局、オレのイライラの原因が割とそこだったりするのが一番しょうもない。
「……夢に見るほど若い子が好きなんだ」
「若い子ったって、お前だぞ?」
 牧が覗き込んでこようとするから、頭からタオルケットを被ってガードする。
「アルバムなんて毎日見るもんじゃないんだ。久々に見て懐かしいなって思ったまま眠ったから夢に出てきた、そんなにおかしいことか?」
 たぶんオレのほうがおかしいんだろうって、薄々感づいてたりはする。だけど。
「別に、夢を見たのが悪いって話じゃない」
 布越しに、大きな手が頭を撫でる。懐かしいような、落ち着く感覚って思ってしまうのがちょっと腹立つ。
「藤真、俺は昔も今も、お前のことが好きだ」
 オレはその言葉を拒否するみたいに、語尾に被せて言った。
「よくわかんない理由で勝手に機嫌悪くなってるおっさんにさ、お前いつまで付き合ってるつもりなんだよ」
「今初めてのことでもない。いつまでだって付き合う」
 昔はオレだってかわいかったから許せたはずだ。だけど今は違うだろ。
「オレもうお前が思ってるほどかわいくも綺麗でもないよ。お前老眼入ってきてんだよ」
「俺がそう思ってるんだからいいじゃないか。それに、お前がおっさんなら俺だっておっさんだろう」
「お前は昔からおっさんなんだから関係ねえだろ」
 たぶん、牧にはいまいち伝わってないと思う。オレは若いときから自分の見てくれがいいこと自覚してたし、だから牧がオレを好きって言うのにもある程度納得してた。それが年とって劣化していくって事実になにも感じないほど呑気じゃない。
「お前がなんにそんなに意地になってるのか、俺にはよくわからん」
 お前はあくまで『俺が好きなんだからいいじゃないか』って言うんだろう。それも想像はできるんだけど。
「……そんなの、昔からそうだろ」
 オレの気持ちはお前にはわからない。昔から。高校のときから、ずっとそうだった。
「だが俺は、それも含めてお前のことが好きだ。全部思い通りになる相手なんて退屈だって、お前だって思ってるんじゃないか?」
「それは……」
 ちょっと感覚ズレてるとか、ワケわかんないとか思うときは確かにあって、でもそれでケンカするよりは、面白い、楽しいって感じることのほうがたぶんずっと多くて、だからオレたちは長いこと一緒にいるんだろう。少なくとも、飽きたとか退屈だとか感じたことはオレはなくて。だから。だからこそ、老けてかわいくなくなって、このままじゃいられなくなるかもって、不安になったわけで──
(ああ、結局オレは不安なのか)
 しょーもねえな。自分に対して萎えきった気分で目を閉じたが、タオルケットを剥ぎ取られて無理やり仰向けにさせられたら、目を閉じてるのも逆に恥ずかしくてすぐに開けた。牧は真面目な顔をしてたが、口もとには笑みの気配もある。
「なあ藤真、いいじゃないか。俺たちはこれからも、ふたりで一緒に年をとっていくんだ」
 なにが『いいじゃないか』なんだろう。あと、勝手に決めやがって問いかけですらねえ。紳士なようでいて、ポイントポイントで傲慢なんだよな。
「じゃあさ、今すぐオレのこと抱ける?」
 なにが『じゃあ』なんだろう。自分で言っときながらもうよくわかんなかった。
「もちろん」

 俺の部屋にはダブルベッドを置いてるが、藤真の部屋はセミダブルだ。昔、ふたり暮らしをはじめたときからそうで、特に不便がなかったんで引越しに合わせてベッドを買い換えたときにもそのままのサイズにした。当然、ベッドの広い俺の部屋でやることが多かったから、朝っぱらから藤真の部屋でなんて、ものすごくレアなことだ。
 だが、単純に喜べる状況じゃない。誘ってるのは言葉だけで、藤真が乗り気なようには全然見えなかった。しかし抱けって言われたら抱くしかないわけで──そんな頭の底とは裏腹に、キスして抱きしめて、ベッドの中で藤真のにおいと体温に包まれると、すぐに下半身は元気になった。
「朝っぱらなのに」
 藤真が呆れたように呟いたんで、俺も思わず笑っちまった。
「さっき出したのにな」
 もはや条件反射みたいなもんなんだろう。ふたりして、ふざけて縺れるみたいにしながら服を脱がせ合ってさっさと裸になる。お互い慣れたもんだ。
 ほっそりとした頬に、憂えるような微笑が浮かぶ。昔から、ときたまそんな顔をすることはあったが、今のほうがきっとずっとさまになってる。
 藤真は昔より痩せた。体重が減った自体は聞いてたが、意外なくらい鮮明に残ってる夢の中の姿と比べると、目に見えて納得してしまう。
「ぁ……」
 筋の浮き出した白い首を甘噛みすると、天を仰いだ顎のラインも昔よりシャープになったかもしれない。日々見てて気づかなかったことを、あの夢のおかげで発見するって感覚は新鮮だが、だからって若いほうがよかったと思うわけじゃない。藤真はどうして妙な誤解に囚われてるんだ。
「んっ!」
 首回りが敏感なのは昔から変わらなくて、いや、昔より感じやすいかもしれない。震えながら背けた横顔に、長い前髪が掛かってすごく艶っぽい。
 いつだったか、前髪全部あるのと分けてるのとどっちがいいって聞かれて、どっちでもいいって言ったら怒られたことを覚えてる。本当にどっちもいいと思ったからそう言ったんだが。
 白くて平らな胸に、昔より色濃くなった乳首が目を引く。淡いピンクもかわいいもんだったが、今の色は生々しくてエロくて、率直に言って非常にそそる。待ちわびるようにぷっくり屹立するそこに、俺は遠慮なく吸いついた。
「あぁっ、んっ…!」
 肉のついた乳房がなくたって、乳首を吸いたくなるのはたぶん本能なんだと思う。舌に当たるかわいい感触を転がしたり、弱く歯を立てるたび、藤真は敏感に反応して高い声を上げる。俺がやたらいじったせいで目覚めたんだって、恨み言みたいに言われたこともあるが、俺はそれを聞いてから藤真の乳首のことがますます好きになった。
「あんっ、んっ…」
 手繰るように、急かすように、藤真の手が俺の背中から腰へと移動する。それ以上は、俺が藤真の胸に顔をくっつけてる位置関係のせいで届かないだろう。戯れるような仕草に確実に誘われながら、俺は顔を上げて藤真を見返す。
「んん?」
 どうした? って言ったつもりの俺に応えるように、藤真は膝を使って俺の股間を撫で上げて、目を細めて色っぽく笑った。妖艶って、まさにこういうことだろう。ぐりぐりといじめられる箇所から頭のてっぺんに、ビリビリ電撃が走る。
(お前だって朝っぱらから、ずいぶんやる気じゃないか……?)
 機嫌がいい日だって朝からすることなんてまずないのに、と呑気な考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。むしろ今は機嫌悪くした直後だから、尋常じゃないってことだろう。
 お望みどおり先に進むかと、両の膝を立てさせ、M字に開かせてその中心に顔を埋める。乳首と同じく、昔より色を濃くしたそれを愛しく感じながら、口に含んでしゃぶり、舐め回す。
「んんっ、はぁっ……」
 これが真っ当に使われてないとは、世の女性にとって損害なんじゃないかとも思うが、俺は藤真が思うほど心の広い人間じゃないから、誰かに譲り渡してやる気は毛頭ない。
 昔より筋肉が落ちてほっそりとした脚を抱え上げる。形のいい亀頭も、俺の唾液でぬらぬら光る竿も、そこからぶら下がった玉も、その奥に控える、性器になった肛門も、全部むしゃぶりつきたいくらいに魅力的だ。そそられるのもあるし、愛着もある。もちろん賛辞のつもりだが、ストレートに口にすると藤真が明らかに引くんで、あまり言わないようにはしてる。
「っん…」
 少しだけ縦に伸びた窄まりに、たっぷりと唾液を落として指をねじ込むと、ふたりの体液の湿度だけでじっとりと密着する感触が卑猥で愛しい。指にまとわりつく強い抵抗感が、否応なしに俺を期待させる。
「はーっ……はぁっ……」
 ローションを含ませてほぐしていくと、打って変わって内に引き込むようなうねりが生まれる。ごくりと、自分の大きな嚥下の音がよそよそしく聞こえた。行為に慣れきったそこは、準備が整うまでにそう長い時間を要さない。ああ、本当にエロい体だ。
「挿れるぞ」
 頷くのを確認してコンドームに右手を伸ばすと、同じことを考えたらしい藤真の左手とぶつかった。俺はなんだか妙に堪らない気分になって、その手をぎゅっと捕まえる。
 そのまま、思いだしたように藤真の右手を見遣ると、俺の贈ったリングが二つ重ねて嵌められていた。本気で怒ってたわけじゃない、やっぱりちょっと拗ねてただけだって安心しながら、揃いのリングをつけた自分の左手でその手を握る。色の違う指を絡めるとリングが寄り添うって光景が、特別な感じがして大好きだった。食事のとき、対面に座ると鏡の向こうみたいに同じほうの手で箸を動かしてる、そんな些細なことにも昔は感動したもんだって不意に思いだす。愛おしさの遣り場に困って、唇に深くキスをした。
「ん、ぅん……牧?」
「ああ、すまん」
 疑問の声は、挿れるっていったきりキスしてたせいだろう。それか、ゴムつけないのかってことかもしれない。どっちにしてもかわいい。
 あらためてコンドームの個装をひとつ取り、手早く装着して藤真の陰部になすりつける。ごく薄いゴム越しに、藤真の熱とうねりがほとんどストレートに伝わる。昔のは厚くて、いかにもつけてる感があって嫌いだったとか、妙に昔のことばかり思いだすのもあの夢のせいなんだろう。
「いくぞ」
「うぅっ、あぁぁっ……!」
 体を進めると、そこはすっかり俺の形を覚えてるみたいに馴染んで食らいついて、ずっぽりと呑み込んでしまう。まだ一応藤真の様子を気にしてた、頭の奥までずぶずぶと欲望に侵されていくみたいだった。
「ああ……藤真、好きだ、ずっと……」
 慰めじゃない。ただ実感があるだけだ。即物的だとか、やりたいだけかと冷やかされたこともあるが、堪らなく好きだって感じたら抱きたくなるし、そうして抱いたらまた際限なく好きだって実感がこみ上げてくる。少なくとも、俺の心と体はそういう風にできてる。
「本当に?」
「ああ……」
 少し伏し目がち、なにか心配してるんだろうか。だが俺はそんな表情だって大好きなんだ。だって、誰にでも見せるもんじゃないだろう?
 馴染む体。互いの望む通りに進む、よく知ったセックス。そこから生まれる飽くことのない快感と満足感。それは昔か今かじゃなくて、ずっと一緒にいる俺たちの間だからこそあるもんじゃないか──そう藤真に言ってやればよかったのかもしれない。しかし頭は働かなくて、舌先は戯れることに夢中になっていた。

 箱ティッシュを毟り、てきぱきと各々の体の後始末をする、ふたりとも無言なことに事前のやり取りは関係ない。いつものことだ。
「俺だって、おっさんになったんだ」
「お前は昔からじゃんか」
「昔は賢者タイムなんて感じなかった。はじめて気づいたときはショックだったな。お前に嫌われるかと思った」
「んなの、昔が異常だっただけだ」
 藤真は丸めたティッシュをゴミ箱に放ると、足のほうに溜まっていたタオルケットを引っぱって体に掛け、俺に背中を向けて裸のままの体を丸めた。
 俺は体と腕を伸ばして藤真の机からアルバムを取り、枕の位置に広げる。ベッドに肘をつくようにうつぶせになって、タオルケットの中に体を入れると、藤真の背中に俺の二の腕がくっついて愛しい。
「まだいる気なのかよ」
「一緒にアルバム見よう」
「なんだよ一緒にって、部屋でひとりで見ろよ」
「藤真はアルバム嫌いか?」
「嫌いってわけじゃないけど、そんなに興味ない」
「まあ、俺だって昨日久々に見たくらいだが」
 藤真の後頭部を視界の端に入れながら、続きのページをめくっていく。高校時代が終わって、大学生だ。ツーショットじゃなくて、それぞれの大学の友人らと写ってる写真が多いページだった。昔はなんとも思わなかったが、今見るとずいぶんむさ苦しい深体大と、いかにも賑やかな若者らしい空気が伝わってくる青学と、全然雰囲気が違うもんだな。藤真なんてすぐ有名になって周りが騒がしくなるんじゃないかって心配したら、『ああいうとこ入るとオレはそこまで目立たないから大丈夫』だの言われたのを覚えてる。試合のときはしっかり黄色い声援が上がってたが。
 次のページに現れた大判の写真に、俺は思わず声を漏らした。
「親父もお袋も、若えなあ……」
 はじめて藤真を連れて実家に行ったとき、帰りぎわに撮った家族とペットの集合写真だ。
 藤真が寝返りを打ってアルバムを覗く。
「本当。牧の弟も妹も子どもだし、ヒマも金太もカメ吉もいるし」
「な、アルバムっていいもんだろう」
「この写真はいい写真だからな。当時は『なんで?』って思ったけど」
「家族写真、か」
 後日郵送されてきた写真に同封されてた一筆だけの手紙には、親父の字で『新しい家族写真ができたので送ります』とあって、それを見た藤真は『部外者が混ざってるじゃねーか!』って笑ってたっけな。
「……牧、今からならまだ、子供つくってもいいんじゃない」
「あぁ?」
 俺は思いきり怪訝な顔と声を出してしまった。子供が欲しいと思わないのかと聞かれたことは前にもあって、俺の答えはいつも同じだったが、今日はまた強引にきたな。
「三十七。子供がハタチになって五十七。まだオッケーだろ」
「俺は子供が欲しいなんて思ったことは今まで一度もないぞ」
「嫌いではないだろ? 人生一度きりなんだから、試してみたら」
「……子供が嫌いだって言えば納得するのか?」
 藤真はまた寝返って、少し前みたいに壁のほうを向いてしまった。
 俺が惚れた相手が女性だったなら、好きになったその先のこととして、子供を考えることもあったかもしれない。だが実際俺が好きなのは藤真だ。それだけで終わる話だと俺は思ってる。
 動物の交尾は生殖行動だろうが、人間は違う。だから避妊具ってものが存在してる。俺は別に子孫を残したくてセックスするわけじゃない。藤真だってそうなんじゃないのか。
 昔より骨の線の見える、白い背中を包むように腕を回し、少し伸びた襟足に額をすり寄せる。
「一度きりならなおさら、俺はずっとお前と恋人同士でいたい。それでこれからも一緒に思い出を増やしていくんだ」
「……一緒に」
「ああ。俺と、お前と一緒に」
「……ちゃんと考えた?」
「もちろん。ちゃんと考えて答えてるぞ」
「……オレって、ちょくちょくめんどくさい感じになるよな」
「飽きなくていい」
 全部俺の確かな本心だ。だがきっと、心だけじゃ不安になることもあるんだろう。理解しないわけじゃない。指輪や生半可なもので繋ぎ止められるとも思ってない。
 そう考えて、賃貸住宅じゃなくてふたりで暮らすマンションを買おうって提案したことがある。名案だと思ったし、俺の心はすっかり〝ふたりのための家〟に旅立ってたんだが、あっさり拒否されてしまった。ショックだった。ものすごく落ち込んだ。藤真が言うには、近くに変なやつが住んでたときに、買っちまってたら引っ越して終わりってわけにはいかないだろ、とのことだ。売るなり貸し出すなりどうにでもできるとは思ったが、それを提案してなお拒否されたら立ちなおれないような気がしたんでその場は大人しく引き下がった。
 じゃあほかに、どうすればいいだろう。ずっと一緒にいる。追いかけてる夢なんてない。ふらっといなくなったりなんてしない。そう藤真が信じられる方法だ。
 男女なら結婚なんだろう。同性同士では養子縁組をするって方法があるのは知ってる。公的に家族になれるわけだが、当然、ふたりの戸籍上の関係は親子になってしまう。法的な保護や経済的なメリットはあるようだが、俺の目的はそういうことじゃなくて藤真を納得させることで、その視点で考えると、望みは薄いように感じる。先入観なんだろうが、親子って関係が俺の気持ちと乖離してるのもあって、具体的に切りだしたことはなかった。
 なんか、いい方法はないもんだろうか──腕の中で、藤真が低く唸った。
「う〜……ハラ減ったな」
「朝まだ食ってないからな」
 朝っぱらからがんばったせいで忘れてたが、寝起きの失態のあと、シャワーから上がってしばらくしても藤真がリビングに出てこなかったから、こりゃ機嫌損ねたなって部屋に様子を見に来たんだった。
「! そうだった。しかもオレが朝当番」
「俺が作るか?」
「なんでだよ、いいからそういうの。でもシャワー浴びてからな」

「これからも一緒に思い出を増やしていくんだ」
 牧の言動って、やっぱりどうも夢見がちだ。なんだけど、無謀とか身のほど知らずとかそういうんじゃなくて、例えばバスケやってたころなら、試合の中でものすごくストイックだなとか、引きぎわをわきまえてんなって感心したことは少なくない。まあ、それとこれとは別の領域なんだろうけど、不思議な男だなってのは長く一緒にいても未だに思うことだ。
(あー……)
 オレだって昔の牧のこと、たまに思いだしてんな。別に昔のほうがよかったとかじゃないけど。牧は昔から変わってないからな。

 思い出はなんのためにあるんだろう。

 この先どのくらい牧と一緒の景色があるのかな。たとえば死ぬ前に見る走馬灯のスライドはどんな風になってるだろう。
 大丈夫、別に病んでない。余命宣告も受けてない。ただ、誰かに残す思い出じゃなくて自分のための思い出ってのは、突き詰めればそういうことなんじゃないかって思いついちまっただけだ。

 牧を信じないわけじゃない。だけど絶対なんてないとも思ってる。置いてかれるかもしれない。いつか消えるかもしれない。可能性はなくはない。これは悲観じゃなくて、オレが昔から抱いてる保身だ。信じきって裏切られるよりなら、どっかに疑念を残しとこうっていう。
 オレも見た目が年食っただけで、中身は昔とそんなに変わってないんだろうな。牧のこと夢見がちって冷やかしながら、それが潰えるのをおそれてる。

それからずっと、おれたちは 1

1.

 鼻を撫でる潮のにおいを、頬にまとわりつくそよ風を、即座に懐かしいと認識していた。二色の青の境界には白い光線がキラキラ揺れて輝いて、波の音が穏やかで単調な反復を繰り返している。高校時代を過ごした、神奈川の海だ。
 夏の真っ昼間だが、ジャケットを着込んだスーツ姿にも暑さは感じない。履き慣れた黒い革靴が白い砂に不似合いで、少し居心地が悪かった。海水浴場からは離れてるんだろう、ほかに人はいない──と思ったところであまりに鮮烈に目に飛び込んだ少年の姿を、俺は思いきり凝視した。
(藤真……!?)
 俺は魚みたいに目を丸くして口をパクパクさせた。喉の奥が張りついて閉じたような感じで、咄嗟に声が出なかったんだ。
 あいつのことはずっと見てきてる、背格好や髪型が似てるなんて話じゃない。まだこっちに気づいてない、考え込むような、少し寂しげな横顔だってそうだ。格好は私服といえば私服だが、シンプルなTシャツとハーフパンツ姿はバスケの練習のときの感じだな。
 視線を感じたのか、藤真は俺に気づくと大袈裟に首をこっちに向けて目をまんまるにした。
「牧!?」
 近くまで駆け寄ってくると俺の顔をじいっと見て、頭のてっぺんから靴の爪先まで、舐めるように観察する。舐めるって思ったら一瞬ふしだらな気分になっちまった。俺と藤真はもう長くそういう関係だから別に大丈夫なんだが、しかしこの藤真は──
「……じゃないよなぁ。でもホクロまであるなんて、こんなにそっくりなことって」
 目の前の〝少年の藤真〟は、スーツを着て眼鏡を掛けた三十七歳の俺を見つめて、腕を組んで唸っている。いかにも理解できないって様子だが、俺だって同じだ。神奈川の海で藤真と出くわすことのなにがそんなにおかしいって、俺が今のままなのに藤真が高校生だってことだ。今は二〇十二年のはずだぞ!?
 高校生だって断定するのは、俺たちが出会ったのは高校のときで、それ以前のことは知らないんだから、見覚えがあるってことはそういうことだろう。それにしても、昔の藤真は……言ったら怒られるんだろうが、女の子みたいだ。
 額全体を覆うように下ろしたサラサラの前髪の下から、長い睫毛に飾られた大きな目が様子を窺うようにこっちを見てる。これがまた、陽の光を浴びると金色に透けるみたいですごく綺麗で、まあそれは今も一緒なんだが、かわいいって形容になるのは輪郭のせいだろうな。ほっぺたのラインに丸みがあって、今の俺が見慣れてるよりずっと子供って感じだ。藤真の〝作ってない〟豊かな表情と相まって幼く見えて、身長差は大袈裟には変わってないはずだが、なんだかずいぶん小柄に感じる。俺たちは高校のときから付き合ってたが、藤真は本当にこんなだったか? なんとなく罪悪感が湧いてきた。
「えと、牧紳一の親戚の方ですか?」
「いいや? そんなやつは知らないな、他人のそら似だろう」
 親戚じゃあないんでなにも考えずに否定しちまったが、親戚にしといたほうがよかったろうか。しかし昔から老け顔と言われてた俺だが、高校生のころは今よりはちゃんと若かったんだな。だから藤真は俺本人ではないと思って首傾げてるんだ。
「そら似……」
 熱心に視線を注いでくる藤真にキスしたくなったが、俺はこの藤真の恋人ではないはずだから一応我慢した。つうか、この藤真はもう俺と付き合ってるのか? これはいつの夏だ?
「世の中には、同じ顔の人間が三人いるっていうだろう」
「聞いたことはあるけど……」
「きみはこんなところでひとりで、なにしてるんだい」
 一瞬、左のこめかみを気にするように手を挙げかけた動作を俺は見逃さなかった。怪我したすぐあとのタイミングか。
「行くとこないんだ」
「部活は」
「休み」
「本当に?」
 藤真の表情が一瞬曇ったように見えたが、吹き抜けた風が長い前髪を乱して目もとを隠した。再びこっちに向いた瞳は悪戯する子猫みたいに、いや、小悪魔みたいに愉しげに笑んでいた。
「おじさんこそ、なんでスーツ着てこんなとこにいるんだよ。仕事サボってんじゃないの?」
 藤真は知らないおじさんにこんな顔をして妖しげなことを言うような高校生だったんだろうか。それとも俺が牧に似てると思ってなんだろうか。
「なんでって? そりゃあ……」
 俺にもわからなかった。なんでだ? 答えに詰まる俺を認めて、藤真は目を細めて笑う。
「おじさん暇なんだったらさ、オレと援交しない?」
「っは!? な、なんだと!?」
 エンコーと。援助交際と、聞こえた気がするんだが、きっと聞き間違いだと思う。本当はなんだろう。なんかそういう言葉あるか? 〝公園〟の若者言葉か?
「怒んないでよ、嫌ならいいよ」
 いかにもつまらなそうな顔をして、ふいとそっぽを向いて離れていこうとする藤真の手首を、咄嗟に掴まえて引いていた。
「待てっ! ふ、きみっ! 今一体なんてっ……!」
 藤真は掴まれた手首を見て、それから俺の顔を見て、愛らしく首を傾げる。わかるぞ、たぶんわざとだ。
「え、もしかして知らない? エンコー、援助交際。お小遣い貰う代わりにおじさんと遊んであげるっていう」
 探るような、大人びた視線が絡みつく。藤真はさすがに中学時代からモテてたらしく、高校時代にはませてたというか、すれてたというか、そういう感じだった記憶がある。顔の造形は幼くても表情は確かに俺の知る彼のものでもあって、そして藤真は俺の恋人で、だが今目の前にいる藤真は高校生で、俺は分別ある大人だ。俺は葛藤に打ち勝ってきっぱりと言い放った!
「それは立派な売春だし、きみは未成年じゃないか。そんなこと絶対に駄目だ!」
 藤真は不満げに眉を跳ね上げ唇を尖らせる。
「だから、嫌ならいいよって言ったじゃん」
 離れていこうとする体を、その腕を、俺はやっぱり捕まえてしまう。
「あ……」
 反射的なものだったから、思わず間の抜けた声が出てしまった。
「なんだよ、放せよ」
「ほかのおじさんと援助交際なんてするんじゃないぞ」
 素直にうんと頷く相手じゃないことは俺だってよく知ってる。なにしろ藤真だからな。
「関係ねえだろ」
 ただの強がりだ、実際は援助交際なんてしないだろう。……本当に、しないだろうか? 怪我で部活に出られなくて、自棄になってるかもしれない。もしくはなんか、金が必要な事情があるかもしれない。どっちにしろ、俺が今藤真を解放すれば、悪いおっさんと援助交際してしまう可能性はゼロではない。そして藤真は痴態を撮影されて脅され、闇のAV堕ち──
「いくら欲しい?」
 顔を寄せて低く囁くと、藤真の顔がパッと輝いた。
「おっ、話早いじゃん。いいね」
 天使みたいだ。つるんとした髪の毛に光の輪っかが見えてる。これからおっさんに春を売るつもりには到底見えない。涙が出そうだ。
「とりあえずなんか食い行こうよ」
「なにがいい? 寿司か?」
「肉!」
 太陽の下に咲く満面の笑みが、大輪のひまわりみたいだった。綺麗だな。くらくらする。空も青くて、明るくて──

 場面は変わって、俺の行きつけの焼肉屋だ。そのうち藤真の行きつけにもなるだろう。藤真はトングをカチカチ鳴らしながら、爽やかに高校生らしく笑った。
「焼いてあげる!」
「焼きかたわかるのか?」
「わかんねーけど、焼くだけだろ?」
 そう言って網の真ん中に、同じ部位の肉を二枚並べる。
「確かに。楽しく食べればそれでいい」
 前にもこんな会話をしたような気がするが、この藤真はまだ知らないかもしれない。なんにせよ藤真が俺のために肉を焼いてくれるなんて、かわいげがあっていいもんだ。……いや、援助交際ってことを気にして振る舞ってるんだろうか。そう思っちまったら嫌な疑念が湧いてきた。聞いてみたいような、知らないほうがいいような。
「そうだ、おじさんのこと、なんて呼んだらいい?」
 上目で覗いてにこりと笑う。うん、かわいいな。だが作り笑いだな。……こういうの、慣れてるんだろうか。ああ、嫌だ、いやだ!!
「おじさーん?」
「ん、ああ、『おじさん』でいい」
 昔、十代のころ、ふたりとも同い年なのに焼肉や寿司でよく〝パパ〟と間違えられたな。懐かしいことだ。実際にそうなっちまうとは思いもよらなかったが。
「きみのことはなんて呼べば?」
「え? あ、うーん、じゃあ『藤真』で」
「なっ!?」
 おい、こういうのって、身元は隠すもんなんじゃないのか? いや知らんが、なんとなくそういうイメージがある。藤真がなにも考えてないとも思えないんだが……。
「なに? なんかヘンだった?」
「いや、別に。そうか、きみは藤真くんか……」
 そうだな、目の前にいるのは確かに藤真だ。だが、しかし、なぁ。
「呼び捨てでいいよ。お、焼けたっぽい。はい」
「ああ、ありがとう……藤真」
 舌にも唇にも、もうものすごく馴染みのある響きだ。藤真は照れくさそうに笑う。
「すごい、やっぱり声まで似てる」
「見た目が似てたら声帯も似てるから、声も似てるんじゃないか?」
 俺はものすごく適当なことを言った。

 浴室から漏れるシャワーの音を聞きながら、俺はベッドの中で藤真を待っている。当然、裸だ。ホテルまでの道中は覚えてない。酒は飲んでないんだが、おかしいな。
「ふーっ……」
 細く長いため息は憂鬱のアピールだったが、それでも俺はこの場を離れることができずに待っている。
(だって、相手は藤真だぞ? 俺は藤真とずっと付き合ってるんだ、なにも悪いことなんてないだろう。いくら俺がおっさんで、藤真が未成年だとしたって。……いや、やっぱりそれはいかんような気がするな……ううむ……)
 相手が見ず知らずの高校生ならこんなのは絶対ありえないんだが、藤真だってことが事態をややこしくしてる。
 浴室のドアが開く音がした。ドキッとしながらも平静を装って待ってると、バスローブ姿の藤真が俺の隣に潜り込んでくる。裸の腕に触れるバスローブの感触と、馴染みのない石鹸のにおいがものすごくよそよそしい。
 俺が体を横に転がしてぴたりと藤真に寄り添うと、藤真は仰向けのまま、視線だけを逃がすように逸らした。照れてるんだろうか。不慣れっぽい……つまり、やっぱりこんなことは日常的にはしてないってことじゃないか? 俺は俄然元気になってくる。
「藤真、本当にいいのか?」
 ああ、最低だな。本当なら『こんなことはいけない!』って突き放さなきゃいけないだろうに、俺は悪い大人だ。
「そんな、ここまできてそんなこと言う?」
 藤真は言うと、ためらうような動作で俺のほうに頭を寄り添わせた。頬に触れる柔らかな髪の感触を、彼の甘える仕草を俺はよく知ってる。なにを迷うことがある?
「そうか、そうだな……」
 顎を掴まえ、顔を上向かせると長い睫毛がゆっくり降りる。
「っ……ん、むぅっ…」
 反応こそ初々しいものの、薄い皮膚の感触も、漏れる声もまるで藤真だ。俺のわずかばかりの罪悪感と自制心は簡単に崩れ去って、藤真の体からバスローブを剥ぎ取り、力一杯抱きしめていた。肉付きがいいってわけじゃないが、肌と筋肉には若々しい弾力があって、若い子をピチピチって表現するのはこういうことなんだろうなって変に感心してしまった。
 恥ずかしがらせるようにちゅっ、ちゅと音を立てて唇を吸って、白い首筋に舌を這わせる。若い体がぎこちなく波打って、大きく震えた。
「はっんっ」
「気持ちいい?」
「っ、くすぐったい…」
 はにかんだ笑みが、新鮮ながら懐かしい感触で胸の奥をぎゅっと摘む。肩口、鎖骨、平らな胸へと、唇を落として軽いキスを繰り返すたび、ごく弱い反応を示すのがいじらしくて堪らない。キスは好きだ。だが、体中にキスをしても痕はつけない。藤真の周囲を騒がせたくはなかった。……ああ、そうだな。俺たちの逢瀬はいつだって背徳的で刺激的だったが、ふたりしていつも互いの予定を気にしてた。ささやかな反逆を繰り返しながら、決して破滅は望んでなくて、優等生でいられるぎりぎりを探ってたんだ。
 下唇に、ツンと尖った愛らしい感触が触れる。
「あっ…」
 照明は少し落としてはいるが、白い肌にほんのり浮かぶ淡い色素は確認できる。初々しい、ピンク色の乳首だ。昔はこんなだったんだな。
「っ、んくっ…あっ…」
 ふたつの小さな突起を摘んだり、爪の先でかすったり、甘噛みしたり。好き勝手に弄り回すと、ときおり恥ずかしそうな声が漏れる。思いきり感じてくれるのもいいが、こういうのもかわいいもんだ。
 脇腹から腹へと、色黒の手が白い肌を味わうように撫でる。自分の手なんだが、こういうときはなんだかすごく他人ごとというか、卑猥な映像を見てるような気分で興奮してしまう。もちろん感触だってやらしいんだが、きっとふたりの肌のコントラストが、俺とお前は違うものなんだって、だがこうして触れることを許してるんだって、思い知らせるからなんだと思う。
 股間には、若々しい猛りが元気よく天を仰いでいた。
「興奮してるんだな」
「あ、当たり前だろっ、こんな状況なんだから」
 長年一緒に居続けて全然意識してなかったが、乳首と同じくこっちもそれなりに様変わりしたんだな。たぶん俺のほうもそうなんだろうが。
 ピンクのかわいい先っぽに音を立ててキスしながら、濡らした指を藤真の会陰部から尻の穴へと滑らせる。
「ひっ!」
 怯えたような困ったような顔で身を硬らせる藤真の様子はもうずいぶん見たことがないもんで、俺の中のよからぬ衝動がどんどこうるさく胸を叩いた。
「こっちも? 本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫、覚悟はできてる……」
 もちろん乱暴にする気はない。実際最初のときから割と円満というか、うまくできたんじゃないかと俺は思ってるんだが、藤真がどう感じてたのかはわからない。あいつはわがままなようでいて根っこの部分では結構気を遣うほうだからな。だが、今の俺なら昔よりうまくできるはずだ。というか、できないと困る。
 体を下にずらして藤真の股間と向き合い、たっぷり唾液を垂らして手の中で竿を遊ばせる。扱くたびに脈打つ感触も、元気がよくて若々しいって感じだ。
「あぁっ、んんっ…♡」
 藤真がいかにも気持ちよさそうに目を細めるんで、このままいかせてやりたいような気もしたが──空いているほうの手で太腿を持ち上げると、きゅっと閉じたかわいい蕾が怯えるように震えていた。いや、藤真の覚悟を無駄にしてはいけないな。そこにキスするように唇を合わせ、べろりと表面を舐める。
「ふぁっ…!」
 初めてだろうに、誘うように収縮してる。きっと素質があるんだろう。望み通りと、細く尖らせた舌を差し込んだ。
「っんっ!」
 唾液を送り、にゅぐにゅぐ舌をうねらせながら前を扱くと、ぎゅうと舌が締めつけられる。さすがにきついな。じっくりほぐしてやらないといけない。
 舌を抜いて視線を上げると、顔を真っ赤にした藤真と一瞬目が合って、即座に逸らされた。
「っふ……」
 なんとなく笑ってしまった。感情としてはなんなんだろうな、とりあえず罪悪感はない。ただ藤真のことがかわいくて、気持ちよくしてやりたいと思ってる。
 ローションをたっぷり指に絡め、唾液で少しだけ潤んだ入り口に突き立て、ゆっくり呑み込ませていく。
「っあ、あぁっ…」
 細い悲鳴みたいな声が上がる。慣れない感触のせいだろうが、指一本なら物理的には問題ないはずだ。藤真の意志じゃなくて体の反射なんだろうが、指への強い締めつけと押し返す弾力が、なんだか素直じゃないときの藤真みたいだと思った。
「あぅ、んっ、あぁっんっ…」
 じっくりと後ろを濡らしほぐしながら、イかない程度に前を扱いたり、しゃぶったりして、これは気持ちいいことなんだって感覚を植えつけていく。
「気持ちいいのか?」
「あんっ、んっ…」
 腰を浮かせて、顔を背けながらも、明確な拒絶は示さない。思う通りの反応を示す藤真がかわいくて堪らない。しばらくそうしていると、短く問うような声が上がった。
「っ、ねっ…」
「どうした?」
「ずっと、そうしてるね?」
「ん? ああ……」
 なんのことか一瞬わからなかったが、指より先に進めってことなんだろう。興味なのか意地なのか……うん、藤真はそういうとこあったな。
「そうだな」
 そろそろいいだろう。ヘッドボードに手を伸ばしてコンドームの個装を引っ張り出す。
「ゴムつけるんだ? 男同士なのに?」
「避妊具っていうが、避妊だけが目的じゃないんだぞ」
「そうなんだ」
 藤真はなんだか残念そうだ。まあ、若いころは性欲自体も強かったが〝できるだけエロいこと〟をしたいってのもあったもんな。俺は大人の矜恃を保ったってところか。
「うつぶせになって、腰を上げて」
「バックってこと?」
「ああ、それが一番楽なはずだからな」
「……」
 少し戸惑ったようだったが、それでも藤真は素直にうつぶせになって尻を掲げた。小ぶりで引き締まった尻に、きゅっと窄まったアナルに、ぷりっとした玉袋がぶら下がってる。いい眺めだ。
 白い小山の間に黒く猛る息子を擦りつける。つるんとしたこのかわいい尻にこれを突っ込むのかと思うと、異様な興奮でどうにかなっちまいそうだった。
「力抜いて」
 落ち着いていけ、と自分に唱えながら、小さな窄まりに先っぽを押しつけて押し込む。
「っく、ぅ……っ!」
 狭い肉の門を、じりじりと、ゆっくりと開きながら、体を貫いていく。慣らしたつもりだが、さすがにきつい。漏れ聞こえる声が辛そうなんで、前を扱いてやると、驚いたように震えた体と一緒にそこも収縮して、俺のモノをずるりと呑み込んでしまった。
「う、あぁあっ…!」
 藤真は枕の上に置いた腕にすっかり顔を埋めてしまっている。女のような極端な起伏はないが、背中から腰、尻へのなだらかなラインはやっぱり色っぽい。男の欲望を受け入れるには頼りないような、肉の薄い腰と細い太腿に堪らなく興奮するようになったのは、藤真のせいだったと思う。
「藤真、入ったぞ」
 下腹部を撫でると、俺のものを含んだそこがぼこんと腫れているような気がした。
「あ、うぅっ…」
「気持ちいいか?」
「ぅ、ん……」
 自己満足みたいに問いかけて、ゆっくりと体を引いて、また奥まで収めて。様子を窺うように動作していたが、そう長いことは耐えられずに、明確にピストン運動をはじめる。
「はっ、あぅっ、あぁっ……!」
 体をぶつける音と、歓喜とも苦悶ともつかない呻き声の中に、確かな響きをもってそれは鼓膜を揺らした。
「あっんっ……き……まきっ……」
「っ!! 藤真……!」
 お前、俺のことを考えてるんだな! 援助交際なんて言いだしたのも、俺が牧に似すぎてるからだったってことだ。止めるなんてとうにできない状態だったが、いよいよ歯止めが効かなくなる。
「うぐっ!」
 思いきり深くまで穿ってのし掛かり、いじらしい体を縛るように抱きしめ、伏せられた藤真の顔に頬をすり寄せる。
「こっち向いて」
 いかにもためらうように、重々しく顔が上がると、強引にその顎を掴まえて唇を奪った。
「んっ、むぅ…」
 それからはもう、夢中だった。俺は自分の恋人を抱くつもりで高校生の藤真を抱いて、藤真はおそらく彼の世界の高校生の俺を想って鳴いた。
 窮屈で刺激的な感触に連れて行かれるように、俺は自分の終わりを察して、藤真の前をしきりに扱く。
「ひぁっ、ァっ…!」
「藤真、いくぞッ…」
「あ、んっ、まきっ…! あ、あァぁぁッ……!!」

「彼のこと、好きなのか?」
「えっ? 彼って?」
「牧ってやつのこと」
「んなっ、そんなんじゃないしっ!」
 幸せそうに紅潮していた藤真の頬から、一気に血の気が引いて蒼白になる。
「おじさん、やっぱり牧の知り合いなんじゃ……」
「さあ、どうかな」
「このこと、牧には言わないで」
「なら、もう援助交際なんて絶対にするんじゃない。そして、彼に気持ちを伝えてやるといい。そしたらきっと彼は、一生きみのこと離したくないって思うはずだから」

ひと夏の経験

 初めてのセックスは中学生のときだった。
 問われればそう答えてるが、本当は違う。
 いや、厳密にはそうなんだが、もっと前に本番まではいかなかったくらいのことがあって、オレの中では初めてはそっちの印象のほうが強かったりする。

 あれは小学五年の夏休み、家族でどこだかの高原の避暑地に行ったときのことだ。
 オレは一人でバスケのゴールに向かってボールを放ってた。どうしてその状況になったのかは覚えてない。そもそも旅行の理由も理解してなかったし、反抗期っていうのか、とりあえず首を横に振ってたような時期だった記憶はある。
 他に誰もいないからゲームはできないものの、ひんやりした風と周りを囲む緑と鳥の声が気持ちよくて、子供ながらになんとなく贅沢な気分になってたのを覚えてる。きっと、海じゃなくて山っていうのが珍しかったんだろう。
 シュート練習っていう意識はまだなかったと思う。地面はボコボコで、ゴールには軽くツタが巻きついてる。そんなんでも最初は不安定だったシュートが安定していくのが単純に楽しくて。声援を送られるのは好きだったけど、こういう静かなのも意外といいもんだなとか、そんなことを思ってたときだった。
「面白いシュートだな。それに、サウスポーか」
 後ろのほうからのんびりした男の声がした。家族の誰かじゃない。振り返ると、体の大きい、色黒の上級生がいた。オレもクラスじゃまあまあ背はあるほうだったが、それより全然高くて、肩幅なんて大人みたいにでかくて。制服じゃないからわかんないけど、中学生か、もしかしたら高校生かもしれない。髪が茶色くて、鼻が高くて、顔立ちはなんとなく外国人とかハーフに見えるような感じ。オレもよく言われることだったから、そこにどうこうはなかったけど。
 せっかく独り占めできるゴールを見つけたのに、ここでも目上のやつに譲らないといけないのか。近所での出来事なら譲ったろうけど、でもこいつはでかいけどあんまり怖くなさそうだなって思った。口調もあるし、こっちを見てる目も邪魔ってよりただ物珍しそうで。ああ、そうだ。オレは直前に言われたことを思い出す。左利きだったらなんだって?
「……悪い?」
「やりづらい相手だ。敵チームにいるなら嬉しかないな」
 やりづらい。つまりバスケをやりたくない相手って言われたんだって、オレはむかついてそいつに思い切りボールを投げつけた。左利きだからやりづらい、ずるい、とかはお遊びの球技や体育のときには言われがちなことで、相手は笑いながらだったりするが、こっちとしたらずるなんてしてないんだから腹立たしいもんだった。
「怒るなよ。てこずる相手、強敵だって意味じゃないか」
 そいつはでかい手のひらでボールを受け止めると、いかにも余裕って感じに笑って白い歯を見せた。年下だと思って完全にナメてるな。オレは近所でも学校でもすげーバスケうまいんだぞ。周りが下手なだけかもしれないけど。
「ほら、ボール取ってみろ」
 なんだか偉そうにそう言ってガバガバなドリブルをしだしたから、オレは颯爽とボールを奪ってやった。ちょろいもんだ。
「……ほう?」
 そのままシュート! ……はできずに、長い腕が伸びてきてカットされてしまった。そのボールを拾ったのはまたオレ。でもどうする? ドキドキする、こんなの初めてだ。一瞬で血が沸騰したような高揚感の底で、不思議と頭は冴えていた。でかいし反応もいい相手で、上は多分無理──って、ゴールを見上げながら相手の脚の間の地面にボールを弾ませくぐらせ、オレは回り込んでボールを拾ってジャンプシュート!
 バシッ!
「うわぁあっ!?」
 オレのジャンプより全然高い位置で、背後から伸びた腕にボールははたき落とされ、後ろから伸し掛かる体と縺れるようにオレの体もゴール下に崩れ落ちた。
「すまん、大丈夫か?」
 意外とオレは潰されないで済んでたが、それは相手が思っきし地面に手を突っ張ってたからだった。胸に抱えられる格好で、耳に掛かった息に驚いて体を縮めながら、顧みて睨みつける。
「なに謝ってんだよ、ただのファウルだろ」
 実際こんなの、大人の試合の映像でしか見たことないようなもんだったけど、だけど試合だったら多分ありえることで、それで謝られるっていうのが気に食わなかった。
 何歳なんだかわかんない顔が、じっとオレを見つめてる。
「な、なに……?」
 先に動いたら負けみたいな気がして、オレは対抗するように見つめ返した。いかにも男っぽい頬と顎の形をしてるけど、左目の下に泣きボクロがあるからきっと泣き虫って冷やかされてたと思う。そんなことを考えてるうち高い鼻先が擦り寄って、両の肩を大きな手で捕まえられて
「……」
「……!?」
 オレはそいつにキスをされていた。体がでかいから顔も口もでかくて、厚い唇がオレの唇を包むみたいに覆ってる。驚きすぎて固まってしまって、声も出なければ体を押し返すこともできなかった。ただ、むにむにとした柔らかい感触が、でかくて強そうな相手のイメージとは違って、なんかヘンな感じだなって思った。
 顔が離れて、恐いくらい真剣な目がこっちを見たとき、オレの口から出たのは拒絶でも怒りでもなかった。
「誰か来る」
 人の気配っていうか足音っていうか、そんなのを感じて口走ってた。相手も気づいたんだろう、慌てた様子でオレの手を引いてすぐ近くの林に走った。ためらいもせずについて行ったのは、どうしてだったろう。
 知らないおじさんについて行ったら危ないのは知ってるけど、こいつは年上だけどおじさんではないから、誘拐とかははないと思ったし。ちょっとだけバスケしただけだけど、どっちかといえば嫌いじゃないっていうか、その逆っていうか。
 小五にもなってキスの意味を知らないわけはなかった。『誰か来る』って言ったのは見られちゃ困ることをしてるって思ったからだし、だけどオレは、この先なにがあるのか、このあと自分がどうなってしまうのか、知りたくて仕方がなかったんだろう。
 好奇心とか、子供だったからとか、今だったらそう処理するんだろうけど、〝はじめて〟のドキドキはもうここから始まってて、中学時代の普通の男女交際では覆せなかったのも納得で。

 少し歩くとコテージに着いた。うちが借りてるとことは様子の違う、孤立してて、明らかに立派な感じの建物だ。
「ここに泊まってるんだ」
 鍵を開けてる、広い背中に続いて中に入る。やっぱり中も広いな、金持ちなのかなってきょろきょろしてると、「手を洗おう」ってお父さんみたいなことを言われた。確かに地面に手をついたりしたから、オレも手を洗うことにする。
 それから細かいことは忘れたけど、奥の部屋、ベッドがある部屋で背中から抱きしめられて、二人でベッドの上に崩れるように倒れ込んだ。
「わっ……!?」
 熱い。ゴール下で倒れたときとは違う、完全に密着した体がすごく熱くて、どくん、どくん、相手の鼓動が伝わってくる。
 体に回された腕も手首もがっしりと太くて、力強さは感じるけど乱暴な感じはしなかった。無理やり落ち着かせようとしてるみたいな、不自然な息が後ろから耳をくすぐってる。
「なに……?」
 そう言っただけで、抵抗はしなかった。嫌じゃなかったんだ。細かいこと知らなくても、全く想像できないわけでもなくて──待ってたんだと思う。
 大きな手がシャツの裾から入り込んで、腹を撫でながら胸まで登ってくる。シャツがめくれ上がったところから見える、自分の腹の色に対してそいつの手は随分色黒で、未知のものに触られてる感じにぞわぞわドキドキして、体じゅうからジワッと汗が噴き出した。相手のほうも、ごく珍しいものの形を確かめるみたいにオレの腹を撫でてる。後ろで溜め息が聞こえた。少し硬い指先が乳首を掠めて、思わず声が出た。
「ぁっ…」
 最初のそれは反射的なものだったと思う。だけど指先が調子に乗ったみたいに乳首を摘んで弄り回すうち、オレも(これは気持ちいいってことなんだ)ってわかりはじめて……自分が勃起してることに気づいたのと、どっちが先だったか忘れたけど、とにかく気持ちよくなって、されるままになってた。
「あっ、んっ…」
 太腿の後ろに硬いものが当たってて、相手の勃起なんだろうかって思ったらちょっとこわくなって、でもそれ以上にものすごく興奮した。触ったら怒られるかな、なんて思ってたらハーフパンツと下着を一緒に下ろされて尻を直接撫でられた。
「はっ…ぅ、んんっ…」
 太腿から尻に、指先を肌に埋めながら何度も行き来させて撫でたり、尻の肉を揉んだり。自分じゃなんともないのに、そいつに触られるとすごく感じて、オレは堪らずもぞもぞ身をよじった。尻を触ってないほうの腕はオレの胸をがっしり抱いてて、それ以上の抵抗はできない。
「柔らかい……」
 うっとりしてる感じで囁かれて、全身が総毛立った。あぁ、オレこれからこの人とセックスするのかなって、空気に晒されたちんちんが反応してピクピクしていた。
「はっ…」
 見越したみたいに、ていうか多分後ろから見えてると思うけど、大きな手がオレの股間に伸びて、覆い包むみたいにゆるく握った。それだけで思い切り体がビクッてなって、恥ずかしくて一気に顔が熱くなった。感じたってより驚いたんだと思う。
 胸に回ってる腕の力が強くなって、後ろから頬を摺り寄せられて、体を縛るみたいに抱き締められる。そう強いもんじゃないが相手の体臭っていうか、自分じゃないもののニオイと熱に包まれて頭がくらくらした。酔っ払ったらこんな感じなのかな。
 大胆っぽいくせに手の中のモノには弱く、軽くしか触ってこないのがもどかしくて、オレは腕の中で思い切り体をよじった。腕の力が緩んで、オレは相手と向き合う格好になる。大人びた顔が驚いたみたいに目を丸くして、それから優しそうに、やらしそうに目を細めて近づいてきた。キスするんだ、って思ってオレも目を閉じた。
 外でしたのとは違って、ちゅって音を立てて吸われたり、舌を入れられたりして、それ自体が気持ちいいのかどうかはよくわかんなかったけど、オレはきっと特別なことをしてるって思って興奮しながら、にゅるにゅる動く舌を夢中で舐めてた。
 そうして抱き合いながら、自分がされたみたいに、相手のシャツの下から手を突っ込んで腹に触ってみる。
「すご……」
 硬い腹に筋肉のでこぼこを感じて、思わず声に出てしまった。多分線を描いたらマンガみたいな形になるんだろう。
「ん?」
「筋肉、すごい」
「そうか?」
 相手は嬉しそうにして、体を起こすとシャツを脱ぎ捨てた。筋肉を見せるためだろうけど、オレの目は裸の上半身より、下半身にできてる小山に釘付けになってしまった。オレが勃ってるんだから相手も同じなんだろうけど、だけどそれは異様にでかく見えた。体がでかいんだからそのぶんなんだろうけど、それにしてもだ。
 視線に気づいたのか、褐色の手がハーフパンツをずり下ろすと、その下に隠されていたものがボロンとこぼれるように顔を出した。
「ひっ」
 重そうに首をもたげる勃起ちんぽはでっかくて大人みたいで、っていうかオレはちゃんと大人の勃起を見たことなかったと思うけど、毛も濃かったし、とにかくオレとは違ってて圧倒されてしまった。地黒らしく、ソレも色黒なのが余計にものものしさを増してる。
「嫌になったか?」
 オレは咄嗟に首を横に振っていた。驚いたし、全く戸惑いがないわけじゃないけど、そいつの手がそれをさする動きがすごくエロくて、興味と期待は俄然高まってた。
「ならよかった」
 相手は安心したように笑うとオレの口にキスをして、起こしてた体をもう一度二人してベッドに沈める。首筋をべろべろ舐められると、気持ちいいのかくすぐったいのかよくわかんなくて、笑いの混じった高い声が出た。
「ふぁっ、あぁんっ…♡」
 シャツをたくし上げられ、正面から乳首をしゃぶられる。顔がそこにあるのも、舌がチロチロ動いてるのも恥ずかしくて堪んなくて思い切り顔を背けた。もう片方は、おっぱいないのに手の全体を使って胸を揉まれてる。
「あんっ、あっ、あぁっ…」
 ぴちゃぴちゃ、ちゅぱちゅぱやらしい音を立ててねぶられ、手指で押し潰され捏ね回されて、乳首で感じながら、ちんぽも熱くてジンジンしてる。オレってヘンタイなんだろうか。
「気持ちいい?」
 問われて顔を見ると、赤らんで丸く、大きくなった気がする乳首が視界に入ってものすごく恥ずかしい。
「わ、わかんにゃい……」
「じゃあこっちか?」
 相手は言って、オレのちんぽを握った。
「ひゃっ」
「すごい、トロトロだ」
「あっ、ぅ、だってっ、あんっ!」
 指先に、先走りの汁が糸を引いたのが見えた。それに、濡れてるせいでめちゃくちゃ感じてしまう。
「おいしそうだな」
「なにっ…ぁんっ、あっ、やぁっ…んっ!」
 厚い唇が楽しげに歪んでオレのちんぽを咥え込んだ。そんなの気持ちいいに決まってる。吸ったり、横に舌を絡めたり、先っぽをべろべろ舐めたり。
「ぅあっ、んんっ、あっあぁっ…!」
 脚を開かされた恥ずかしい格好でやりたい放題されながら、でも自分の思い通りってわけでもないもどかしさもあって、オレは思わず浮かせた腰を揺らしていた。
 派手な音を立てて、不意に唇が離れる。先っぽと厚い唇の間にぬろっと粘液が糸を引いてものすごくやらしい。
「気持ちいい? わかんない?」
 わかってるくせに、意地悪するつもりなんだろうか。でも、この状況で恥ずかしがることなんてもうないだろう。
「きもちい、もっとして…」
「ああ……」
 相手は溜め息混じりに呟いて、少し間を置いて続けた。
「舐めっこしようか」
 シックスナインってことだろう、エロい漫画で見たことあるから知ってる。本当にあるんだ、クラスでしたことあるやついるかな。
 ハーフパンツと下着を脱ぎ捨て、促される通り相手の顔を跨いで、その腰にそびえ立つものに向き合った。上も下も恥ずかしいなんて、大人ってド変態だな。
「ぅあっ…!」
 待ち構えてたみたいにしゃぶりつかれて、思わず声が出た。義務感に駆られるように目の前のものを口に押し込むと、汗っていうか体臭っていうかそれなりのにおいがしたけど、いかにもって感じでむしろ興奮した。でっかくて全然口に入りきらないそれの根っこを支えて、口の中で舌を使って先っぽを撫で回すと、股の下で低い呻き声が聞こえた。相手も感じてるってことが嬉しくて、オレは夢中でそれを舐め回した。
「んむっ、んぅ…んんっ……あぁっ!?」
 ちんぽだけで気持ちいいのに、相手は太腿とか尻を揉んでくるのがずるい。そのうち玉とか尻の穴まで触られて、それがまた気持ちよくて、オレは途中からただ相手のモノに唇を寄せるだけになって喘いでた。
「ぁはっ、ぅ、あんっ、あぁっ、だめっ…!」
 いきそうになって、オレは思い切り腰を引いて相手の上から体をどけた。
「なにがだめだった?」
「だって……」
 舐めっこなのに、オレだけ先にいったらだめだと思ったんだけど。でもオレのほうが子供だから、向こうは対等に思ってないかもしれない。そう考えたらなんも言えなくなってしまった。優しい顔が、オレを覗き込んで笑う。
「やっぱり、顔が見えてるほうがいいよな」
「……うん」
 なんか、なんだかすごく、なんだろう。よくわかんないけど、体を起こしてた相手の逞しい首に思い切り抱きついてしまった。
「ねえ」
「なに?」
「……なんでもない」
 唇に、体じゅうにキスをしながら、肌を合わせて、二人の体温を同じにするみたいに撫で合った。
「あのね」
「うん?」
「……」
 肉の色の透けてる、感じるところを摺り寄せて、互いの体液を混ぜ合わせ、泡立てて。いけない遊びに没頭しながら、あいつもオレと同じだったかな。
「ね。一緒にいこ」
「ああ……」

(ねえ、あのね、……好きだよ。)

「おい、起きろ」
 体を揺すられて、コソコソ声で起こされた。ことが済んだあと、ベッドの上でだらだらしてるうちに眠ってたみたいだ。相手は慌てた様子で服を着込んでて、ドアの外、多分コテージの玄関のほうで話し声が聞こえてる。少しして、大人の女の人の張り上げた声がした。
「紳一? 誰か来てるの?」
 家の人が戻ってきたんだろう。オレも急いで服を着る。そうしてるうちに、着替えを終えた相手は部屋から出て行ったみたいだ。シャツを被ってる間に、部屋のドアが開いて閉まる音がしてた。
 着替えたオレは働かない頭のまま、白いカーテンの揺れる大きな窓から外に逃げ出した。靴は玄関だから、裸足っていうか靴下のままだ。今思えば、服を着たんなら別に普通に友達のフリしてあの部屋にいればよかったんだ。だけどあのときは大人がいない間に上がりこんで、知られちゃいけないことをしてたっていう意識が強かったから、姿を見られちゃいけないって思った。
 帰ったら当然怒られたし呆れられたし、連れ去りに遭ってたのかとか、変態に靴だけ盗まれたのかとか変な心配までされてしまった。
 次の日の午後、一人であのコテージに行ったらオレの靴が玄関先に出してあって、中にはもう誰もいないみたいだった。帰ってしまったんだろう。
 旅先で、どこの誰かも知らない上級生とセックスしてしまった──もう少しして男同士でもその先もできるって知るまでそう思ってたから、それがオレの実感の中での初体験だ。

 透明な日差しの下、緑の狭間に淡い人影が見えた。忘れ去られたようなゴールの下に誰かいるなんて思わなかったから、幻かと疑ったくらいだ。
 近づいてみるともちろん幻なんかじゃなかったし、人がシュート練習してる風景なんて珍しくもなかったが、彼の纏う淡い色のせいか、いつもと違う環境のせいか、漠然と(綺麗だな)って思ってしばらく眺めていた。珍しい鳥でも見つけたような気分だったと思う。
 だがそれは鳥じゃない。男の子だ。光にふちどられて金色にも見える髪と、眩しいくらいに白い肌をしてる。顔は見えない。
 バスケをしてるってのと身長から、同い年くらいかもしれないと思ったのは単なる願望だったかもしれない。珍しい左利きと正確なシュートもあって俄然興味が湧いて、じき見てるだけじゃいられなくなった。

 綺麗な顔に浮かんだ強気な表情と言葉に、初めから好感は持ってたと思う。それは友達に向けるものでしかなくて、仕掛けたときには不埒な思いなんて全くなかったはずだったんだが──ゴール下でバランスを崩したとき、つかまえた体から甘い香りが漂った。そこからだ。
 胸にすっぽりおさまっちまうくらいの肩幅と、振り返ったときの噛みつくような表情、それから至近距離で改めて観察した造形。色素の薄い、長いまつ毛は華やかなのに清楚で、それに飾られた大きな瞳には力があった。引き結んだ唇はそこはかとない意志の強さを感じさせた。こんなにかわいい子がこの世にいるのか、妖精かなんかじゃないのかって思った。しかもバスケが好きだなんて、なんて運命的だ!
 恋に落ちるのは簡単だった。好きだと感じた、その衝動のままキスをした。拒絶はなかった。生々しい期待が膨らんでいく。
「誰か来る」
 俺は細い手首を掴んで、二人で森に身を隠すように駆け込んだ。誰かに見られたら奪われてしまうような気がした。明日には東京に帰る、もう二度と会えないかもしれない、まだ一緒にいたいんだ──思考ってより、それも衝動だったと思う。
 自分の泊まってるコテージに連れてったのは、そこに今誰もいないと知ってたからだが、下心があったからじゃないと思う。多分。おやつでも食べながら話をしようと思ってたはずだ。
 だが無理だった。
 柔らかな髪が、ミルク色の肌が、なにも知らないふりをした、見透かすような視線が。全部が俺を誘ってた。触れたい。頭で知るより体で感じたい。
 きれいだ、かわいい、好きだ。勝気なところも、甘える声も拗ねた顔もきっと全部。言葉だけじゃ足りなかった。純粋な感情に生臭い欲求を孕んだ、あれはおとなになって初めての恋だった。

 あのとき確かに二人は通じ合ったはずなのに。
 夢か幻か、それこそ妖精の仕業だったかもしれない、そう思い込んで忘れたはずだった邂逅は、しかし五年後にもう一度訪れた。

 東京から神奈川の海南大附属高校に進んだ理由には、バスケと海と、親元を離れてみたかったことと、まあいろいろあった。だがまさか、こんな巡り合わせがあっていいんだろうか。
 深緑のブレザーに、チームのカラーも緑。その時点で胸騒ぎはしてた。そして体育館で一目見て気づいた。彼も同じだったみたいだ。さらさらとした前髪の下で、長いまつ毛にふちどられた、大きな瞳がこぼれ落ちそうに見開かれてこっちを見てる。左手にはバスケットボールが抱えられていた。
「藤真、なんだ、知り合いか?」
「知るわけねーだろっ、あんなやつ!」
 藤真と呼ばれた彼は、顔を真っ赤にして体育倉庫に引っ込んで行ってしまった。忘れたわけでも、まして人違いでもないだろう。
 だが俺は後を追えなかった。他校だから遠慮したってわけじゃない。俺にとって儚く美しい出来事だったそれは、彼にとっては忘れたいあやまちだったのかもしれない。無理矢理に掘り返すことなんてできなかった。

 恋も運命も終わった。
 大きく開かれた窓に白いカーテンが揺れて、ベッドに注ぐ透明な日差しがミルク色の肌と栗色の髪を明るく際立たせる。よく眠れるもんだなと、俺は扇型に閉じたままの長いまつ毛を飽きもせずに眺めていた。
 この避暑地の別荘で、藤真と一緒に過ごすのはもう何度目になるだろう。

きみがいて誰もいない

 玄関のドアを開けると夕食のにおいがしていた。体力には未だに自信があって、一週間にも及ぶ出張帰りでも疲れは感じていなかったが、うちのにおいだ、帰ってきた、と実感すれば多少の気怠さも生まれ、そこに滲み入るように甘やかな幸福感が湧いてくる。
 部屋に入ると、ダイニングテーブルの側を向いた調理台の前に立って、藤真が鍋を掻き回していた。対面の形になるカウンターキッチンは、牧が昔から熱望していたものだ。
「ただいま」
「おかえり」
 顔を見て短い挨拶を交わすと、牧はカウンターの向こう──藤真の背後に回り、細い腰に腕を回す。そして襟足に鼻先を埋め、すうはあと深く呼吸した。
「……なに」
「久しぶりだから、藤真を吸ってる」
「そう」
 藤真は素っ気なく返しただけで牧に構わず料理を続け、牧もまた気が済むと黙って離れて自室へ行く。久しぶりではあるが、いつも通りのやり取りだった。

 背広とネクタイから解放されて食卓につくと、牧は長く息を吐き、ゆっくりと首を横に振った。
「一週間ぶりだ。考えられない」
 仕事関係で家を空けること自体はそう珍しくはなかったが、今回は少し長かった。藤真の顔を見たのも、当然こうして食事をともにするのも一週間ぶりだ。藤真が向かいの席に座るのを見届け、律儀に手を合わせる。
「いただきます。……ああ、本当に久しぶりだ」
 黙々と食べ、しみじみと呟く。藤真の作る料理に特別な特徴があるわけではないと思うが、それでも食べ慣れた〝うちの味〟というものがあるのだなと、不思議な感覚に陥っていた。
 藤真は大袈裟だと言わんばかりに、怪訝そうに牧を見る。少しだけ顔を俯けた上目遣いは、昔から変わらない癖だ。
「別に、高校のときなんて一ヶ月近く会わないとかあっただろ」
 牧は意外そうに目を瞬いて頷き、喉仏を大きく上下させて口の中のものを飲み下す。
「──ほんとだな。今思うとすごい忍耐力だ。あのころなんて今と比べものにならんくらいサカってて、毎日のようにお前のこと考えて抜いてたぞ」
 藤真はもの言いたげにちらりと牧を見たが、小さく肩を竦めるだけにした。食べてるときにそういう話するのやめれば、と前にも何度か言ったはずだが、直す様子を微塵も見せないまま、あれからもう何年が経ったのだろう。
「まあ、昔はバスケが一番だったしな」
「そうだな。それはある」
 バスケットが全てだったから、目下の目標である互いの存在が大きくなっていったのは自然なことだったと思う。それが性的な欲求を孕んだ好意になったのは──もしくは友情として処理してしまわなかった、その一歩目は若さゆえの過ちだったのかもしれない。しかし、それだけでは終わらなかった。
 大人に近づくにつれ、世の中にはバスケット以外のことのほうがずっと多いのだと思い知った。好きなことをするばかりでは生きていけないと、少なくとも藤真は高校生のときからわかっていたつもりでいたが、実感が伴ったのはそれよりしばらくあとのことだ。
 そしてじきにふたりともバスケットから離れ、しかしこうして一緒に暮らしている。
「オレたちって、なんでいつまでも一緒にいるんだろうな」
 牧は激しく音を立てて食器を置き、藤真は思わず眉を顰める。
「乱暴にすんなよ、割れるだろ」
「すまん。いや、お前が不吉なこと言うからだろう」
「不吉? なんでっていう、ただの疑問じゃんか」
「なんでそんな疑問を抱いたんだって、気になるだろう。ほっといたから機嫌悪いのかとか」
「ほっといたのは仕事なんだから仕方ねえだろ。いい加減そのくらいわかってる。……オレたちはバスケで知り合って、でももうガチじゃやってなくて、でも一緒にいるよなーって、なんでだろって思わないか?」
「そりゃあだって、バスケは知り合ったきっかけってだけで、付き合いが続くこととは別の話じゃないか。俺のタイプの条件に『バスケットプレイヤーであること』なんてないぞ」
「そうなんだ?」
 昔の交友関係の条件にはあったように見えたけど、と全国的に顔の広かった男に対して思うが、昔のことなので置いておく。
「まあ、純粋な高校生だったから、おセックスしたいためにお付き合いしだしたんだよな」
 でもセフレとかじゃなくてちゃんと告って付き合ってたの、今思うと真面目だよな、と藤真がひとりごちるのに牧の声が被る。
「それは語弊がある。やりたくなったのは好きだったからだ。それで、だから、今だって一緒にいるんじゃないか。確かに俺は、バスケをしてるお前のことが好きだと思ってた。だが、違ったってことだ」
 卵焼きを一切れ口に含んだきり、黙り込んでしまった牧の言葉が中途半端に思えて、藤真は眉を顰めて牧を見る。
「……うまい」
「そんなに卵焼き好きだっけ?」
「好きだ」
「あっちでうまいもんいろいろ食ってきただろ」
 接待されてさ、とまでは言わないでおく。
「そりゃそうだが、うちのメシはうまいんだ。落ち着くっていうか。……だが、お前も連れて行きたかったな」
「オレだって仕事があるっつうの」
 もしそうでないにしても、仕事での出張に同居人を連れて行くことなどあるのだろうか。
(……あるか。社長が愛人を秘書にして連れてるみたいな)
 牧は今は親族の経営する企業の役員についている。真面目な男だ、身内の会社だからといって怠けているようなことはないだろうが、特別な立場であることは確かだった。
「じゃあ、今度長めの休みが取れたらだな」
「うん」
 普通の旅行ならばともかく、仕事の場について行きたいとはやはり思えない。しかし出張帰りの牧と余計な議論をする気もなかったので、ごく軽く頷いた。牧もまた、満足げに頷く。
(しかし、藤真の長めの休みっていつだ……?)
 実のところ、休みというよりは、ずっと藤真に家にいてほしいと思わなくもない。働きに出る父親と、それをいつも家で迎える母親という、自分が子供のころに当たり前に見てきた家族像のせいだと思う。今回は自分だったが、藤真だとて仕事が忙しければ帰りが遅くなることもあるし、互いに疲れていれば穏やかに接する時間も短くなってしまう。
 ふたりで暮らすには、牧の収入だけでも不便はなかった。しかし牧が藤真に直接「家にいてほしい」と言ったことはない。一方的に養われるという関係性を、彼はよしとしないだろう。無論、藤真自身が働きたくないと言うなら、喜んで受け容れるつもりだが──
「仕事は楽しいか?」
「うん」
 藤真が好きなことをしているのが好きだ。
 バスケットでなくても構わないのだと気づいたのは、大人になってからのことだった。だから仕事が楽しくないと耳に挟めば転職を勧めたし、協力も惜しまなかった。順調だと聞けば、自分のことのように喜んだ。
「……牧はさ、昔から決めてたって言ってたろ、今みたいになるの」
 藤真は大学を出て初めに就職した会社にしばらく勤めたのち、何度か転職をしている。基本的に器用なほうではあるのだが、それゆえになのか『退屈だ』『しっくりこない』と感じてしまい、牧の勧めもあって、というところだ。
 一方の牧は、バスケットから離れると、迷わず親類関係の企業に就職した。当時は『就活いらなくてラクでいいな!』などと冷やかしていたが、しがらみなく職場を転々とする自分を思えば、果たして本当に簡単な選択だったのかは疑問だ。
「そうだな」
「ほかの仕事したかったとか、思ったことないのか?」
「ないな。最初からそういうつもりで若いころわがまま言ってたからな」
 主にバスケットのことだろう。東京出身でありながら神奈川の高校に通い、かと思えば付属の大学を捨てて東京の深体大に進み、その後は選手としてしばらく活動し──牧の周囲も、その期間が限られていることを理解したうえでそれらを許していたとのことだ。
「それに、俺は今だって自由だぞ」
 牧の黒い瞳の光がまっすぐ藤真に注ぐ。それは撫でるように優しく、しかし彼の逞しい腕のような強硬さも感じさせた。
 大学のときからずっと、いい年になった今でも、結婚するそぶりも見せずにふたりで一緒に暮らしている。その意味するところは、牧の親族もとうに察しているはずだった。
「……理解のある親御さんでよかったな」
「本当だ。感謝してる。お前のとこだってそうだろう」
「うちは別に普通の家だから、お前んとことは事情が違う」
「それにしてもだ」
「まあ、そうだなぁ」
 社会に出て、世界の構成要素がバスケットだけではなくなり、様々なものと繋がり絡み合って今の自分があるのだと思い知って、それでも結局自分の世界の中心にあるのがこの男なのが、やはりどうにも不思議なのだが、牧はきっとごく当然のような顔をするのだろう。
「……オレ、昔、お前のこと嫌いだったと思うんだけど」
 ほぼ初対面のときから強く意識していたことは確かだが、ある段階までは決して好意ではなかったはずだ。牧は目を見開いたが、案の定、至極嬉しそうな顔をした。
「嫌いも好きも全部俺だったってことか? すごいじゃないか」
「はぁ〜? どんだけポジティブなんだよ」
 とはいえ、あながち間違ってもいないのが悔しいところだ。高校のころ、少なくとも自分がただの選手でいられた一年半はずっと牧の背中ばかり見ていたし、そのあとだとて意識から消えることはなかった。
 若くて多感なころに触れたものの影響は年を経てもずっと残っていて、未だにそのころの歌や作品が好きだとか、むしろそこで人生の方向が決まったとか、どこかで聞いた覚えのある話を思いだす。つまり自分にとってそれは──
「藤真はちょっと考えるとこがあるから、俺とでちょうどバランスがいいんじゃないか?」
 本当にポジティブだなと呆れながら、食べ終わった二人分の食器をトレーの上に集めると、牧のほうが先に席を立ってそれを持って行ってしまった。
「お利口さん」
 藤真は椅子に座り直してそれを見送る。あとのことは食洗機がやってくれるので心配はしない。背後から肩に、甘えるように腕が回された。
「久しぶりに、一緒に風呂に入らないか?」
「出張から帰って今日で、疲れてんじゃねえの」
「疲れてるから癒されたいんじゃないか」
「まあ、お前が平気なんなら別にいいけど」
 仰ぐように見上げた、意味ありげな瞳に撃ち落とされるようにキスをしていた。この腕に抱えるものは、まごうことなき自由だ。

家族写真

(うーんどうしよ、やっぱジャケット……)
 自室のクローゼットの前でうんうん唸っていると、ノックの音ののち、ドア越しに牧の声が聞こえた。
「藤真? なにしてるんだ?」
「んー? 用あるなら入っていいぜ」
 藤真はドアを振り返り横柄に声を張り上げただけで、再びクローゼットに向き直る。後方でドアの開く音がして、牧が近づいてくる気配があった。
「藤真」
「なに?」
「いや……」
 用があるのかと問われると、特には無いのだ。夕食後、いつもは居間でテレビを見ながらのんびりしている時間に、藤真がソファから離れたきり戻らないので様子を見にきただけだった。
「服の整理中か?」
 クローゼットの扉が大きく開いて、ベッドの上にも服が散らか──並べられている。
「明日着るもん考えてんだよ」
「なんだ、俺の親に会うのに緊張してるのか?」
 愛いやつめ、と牧は思いきり表情を緩めた。明日は藤真を連れて、東京都内にある牧の実家に行く予定になっている。
「緊張っつーか、だって今までは制服があったしさ。一応監督だったんで、大人のひとに与える印象は結構気にしてんだぜ、オレ」
「だとしても、うちの親にとってはお前は〝子供の友達〟だ。堅苦しく考えるこたない。俺がこういう格好でうろうろしてた家なんだから」
 牧は自分の着ているラフな部屋着を引っ張って見せる。
「それにうちの親はお前のこと知ってて、印象はいいはずだぞ」
「はぁ? お前、一体オレのことなんて話してんだよ?」
 怪訝な顔で返してしまったが、直接会ったことのない状態でも同居の許しは貰っているのだ。牧が高校のときから一人暮らしをしていたことは大きいだろうが、少なくともそう悪いようには思われていないのかもしれない。
「バスケのために家を出て神奈川に行ってたわけだから、そりゃバスケ関係の報告はする。翔陽に同じポジのライバルがいて楽しくやってるってくらいの話だが、新聞記事とか雑誌とか送ってたから顔は知ってる」
「ふーん……」
 直感的に、それだけとは思えなかったが、追求しても仕方がないので気にしないことにする。それより明日の服装だ。
「猫がいるんだ、爪は切ってるだろうが、引っ掛かって困る服はやめといたほうがいいぞ」
「あー」
「レースとかな」
「そんなん持ってねえ」
「あとそうだな、ヒマはここに紐がついてる服好きだぞ」
 おとなしいが遊び好きな飼い猫のことを思い浮かべながら、牧は両の人差し指で鎖骨を指した。パーカーなどのフードから出ている紐のことだ。
(猫の好みじゃなくて親御さんの好みを教えてほしいんだが)
 とは思うが、口に出すのはなんとなく癪な気がする。妙な風に拡大解釈されても面倒だ。
「下は薄いのじゃなくて、ジーンズとかがいいだろうな」
「……」
 猫と遊ぶのに適した服装を、穏やかかつ満足げな表情で提案する牧をじっと眺め、ふと時計の指す時間に目を止めた。
「あれもう始まってるんじゃね」
「ん?」
「お前の好きなドラマ」
「!! すまん戻る、今回いいとこなんだ。服は別になんでもいいと思うぞ!」
「へーい」
 テレビのある居間に慌てて戻っていく牧を一瞥し、ベッドの上に散乱した衣服を眺める。
(……ジャケパーにしとくか)
 牧が去ってからさほど掛からずに、薄手のプルオーバーのパーカーにジャケット、そして綺麗めのジーンズをチョイスした。

 牧の実家の所在地は東京都内の高級住宅街だった。日ごろ通う渋谷のように雑然としておらず、緑が多く、都会的でありながらものんびりとした空気が漂い、牧がこの街で育ったのだと言われればなるほどと納得できる風情だ。数えていたわけではないが、先ほどから外車ばかり見かける気がする。
(牧の家、普通の家とか言ってたけど、ここの中での普通って意味だろうな……)
 高校のとき、牧が学生寮に入ることを親が渋ったという話もなんとなく理解できるような気がした。だからといって一人暮らしならば安心なのかという疑問はあるが。
 藤真がキョロキョロと周辺を見回しながら歩いていると、かたわらで牧が苦笑した。
「家しかないようなとこだが」
「え、ああ、うん、住宅地だもんな」
 公園のように見える広々とした敷地も、きっとどこかの庭なのだろう。恐ろしい限りだが、牧にとってはよく見慣れた、退屈な風景なのかもしれない。
「お父さん、次男だからってこの前言ってたけど、長男と次男ってそんな違うもんか?」
 牧の実家に行くことを決めた日の会話だ。そのときには追求しなかったが、ふと思いだすと気になった。藤真の認知では、長男は家で最初に生まれた男子、ただそれだけだ。
「長男の伯父はじいさまの家を継ぐ。親父は実家を出てここに自分の家を建てた」
「なるほど……? 自分の家のほうがよくねえ? つまり次男のほうってこと」
「そこは人それぞれなんじゃないか? なんつうか、財産とかは圧倒的にあっちなんだし」
「あー……でもオレは気ままなほうがいいかな」
 言いつつ、ごく普通の家に生まれて財産のことなど考えたこともなかったような自分とは、いろいろと違う世界なのだろうとも思う。
「……牧のお父さんて、なにやってるひと?」
「グループの会社のうちの一つを見てる」
「社長ってこと?」
「まあ、そうだな」
 牧は簡単に答えただけで、それ以上説明しようとはしなかった。自分を積極的に実家に連れて行こうとするくらいだから、親子仲が悪いことはないだろうが──単純に、あまり好きな話題ではないのかもしれない。
(見た目イジリみたいに、金持ちイジリみたいなのもあるんだろうか。……ってもこの辺に住んでる人間ってみんな金持ちだよな)
 そのグループというのもきっと牧の〝じいさま〟のものなのだろう、などと想像しているうち、牧が立ち止まった。
「ここだ」
「おお……」
 予想通りだった。
(やっぱり! この辺基準では普通なのかもしれないけど、オレ基準では豪邸な家!!)
 広い庭があり、門から玄関まで少し距離があるのが、いかにもといった感じだ。
 牧は門柱のインターホンを押し、「俺だ。藤真を連れてきた」と告げて中へ進んでいく。
(俺だ、だって!)
 自分の家の門のインターホンなど押した記憶がない。牧の容姿とも相まって、ドラマででも見たような光景に、少し緊張してしまう。
(こりゃうちはシルバニアファミリーだな)
 奥に見える家は、立派ではあるが屋敷と呼ぶほどものものしくはなく、藤真のごく主観的な感想としては〝イマ風の豪邸〟だった。
(東京だからな。芸能人のお宅訪問〜みたいな、土地とかも合わせてクソ高いみたいな……)
 何気なく見ていたテレビ番組のことを思いだしながら、目指す家のドアを見ていると、玄関先に女性が出てきた。
「母親だ」
 着物が似合いそうな、日本人然とした華奢で上品な雰囲気だが、優しげな目もとが牧に似ていると思う。
「ただいま」
「こんにちはー」
「藤真くんね。はじめまして」
「は、はじめまして……すみません、ご挨拶が遅くなって」
 牧の母親は穏やかに微笑した。
「いいのよ、うちも都合つけにくい時期だったし、全然気にしなくて」
「そうだぞ藤真」
(お前が言うのかよ)
 思わず牧を見遣ったがいったん口をつぐみ、手土産の紙袋を差し出す。
「これ、お菓子なんですけどよかったら」
「あらあら、ありがとうね。どうぞ、お上がりになって」
 玄関に入り、靴を脱いで上がると、右手側の部屋のドアからガタガタと音がした。
「にゃー! にゃー!」
 ドアに嵌められた磨りガラスの向こうに、黒い前足の裏をぺたりと付けて、外に出せといわんばかりに立ち上がっている、猫のシルエットが見える。もちろん猫よりも牧の親への挨拶がメインのつもりでいるが、思わず笑ってしまった。
「猫いるっ、外出たいのかな?」
 牧がドアを開けると、薄いミルクティー色の長い被毛をして、体の先端と顔の中心に焦げ茶のポイントをつけたずんぐりとした猫が、青い瞳をまんまるに見開いて藤真を凝視する。猫はいかにも驚いたように口をあんぐり開けて牙を覗かせると、部屋の奥にドタドタと走り去ってしまった。
「っはは! 猫ってあんな顔するんだな!」
 マンガみたい、とさも愉快そうに声を上げた藤真に、室内から近づいてきた人物が言った。
「人見知りしたんだろうな。すぐ慣れると思うが」
「!!」
 これは見るからに牧の──
「親父だ」
 牧の目もとは母親だと思ったが、全体の印象としては父親の遺伝子が強いように見える。色黒のせいが大きいだろう。特に大柄ではないが姿勢はよく、立ち姿が堂々としている。髪は後ろに撫でつけ、スクエア形の眼鏡を掛けていた。
「藤真です。はじめまして」
 爽やかに微笑した完璧な美少年に、父親は目を瞬き口もとを緩める。女だろうが男だろうが、外見はよいに越したことはないというのが彼の感覚だ。知ってはいたが、自分の息子と同級生にはとても見えず、ふたりが並んで立っているとそこはかとなく面白い。
「これは失礼、はじめまして。紳一がお世話になってるようだね」
「いえそんな、全然……」
 家事は分担しているので、日常生活でどちらかに特に負担が掛かっていることはないはずだが、デートとなればもっぱら牧の奢りだった。彼のポリシーによるものだが、〝同居している友人〟として挨拶に来た立場で口にできるはずもない。
「まあ座ってくれ」
 父親がソファを示すと、母親が口を開いた。
「こっちでお話するの? 応接間じゃなくて?」
 藤真は小さく肩をすくめる。
(ヒエ、応接間とかあるんだ……)
「あっ、そうだった。紳一がいきなり居間に入ってくるからだぞ」
「自分ちなんだから当たり前だろう。別にこっちでいいんじゃないか? テレビもあるし」
「そうだな、お客様はお客様だが、楽にしてほしいしこっちでやろう」
「それじゃ、こちらにコーヒーお出ししますね」
 母親が立ち去ると、父親はあらためてソファを勧めた。
「すまんね、どうぞ座ってくれ」
 テレビのほうを向くように、長いソファと一人掛けのソファがL字に置かれている。長いソファの奥側に牧、その隣に藤真が座り、それを見届けてから一人掛けのソファに父親が腰を下ろした。
「いやあ、全然初めての気がしないんだけどねえ」
「そうなんですか?」
「紳一からよく聞いてたし、雑誌も見てたからね。双璧とかいってさあ、モデルさんかアイドルかみたいな子と一緒に写ってるから、紳一のやつ、ドラマのエキストラにでも応募したのかと思ったよ」
(想像力豊かだな)
 父親は機嫌よさそうに、饒舌に続ける。
「神奈川いいよねえ、湘南は昔から大好きなんだけど、最近特にトレンディだよね!」
「海がお好きとか?」
 色黒の男に対するイメージもあるが、県外の人間が特に湘南と言うならやはり海だろう。
「ああ、船持ってるんだ」
「ひぇ〜」
 金持ち〜、とは喉の奥に呑み込んだ。
「今度乗せてあげようか」
「やめてくれ、親父」
「え、なんで? いいじゃん船乗りたい」
「な、船乗りたいよな。ほら、藤真くんだってこう言ってるじゃないか」
「なんとなくいやらしいんだ、親父は」
「久しぶりに帰ってきたと思ったら、親に向かってやらしいとはなんだ」
 直後、牧は何かに気づいた様子で立ち上がり、どこかへ行ってしまった。都合が悪くなったのだろうか。
「家はどっちのほうなんだっけ?」
「横浜のほうです」
「横浜か! シュウマイおいしいよねえ!」
 さほども置かずに牧が戻ってきた。腕には先ほど逃げて行った猫を、赤ん坊のように背中を下にして抱えている。
「藤真、ほら」
(今めちゃ話し中じゃんかっ)
 そうは思いつつも、渡される猫をそのままの格好で腕に受け取った。もこもことしてまるでぬいぐるみのようだが、ずっしりと重く存在感がある。猫はおとなしいもので、胸の前でこげ茶色の手を折り曲げ、不思議そうな丸い目で、じっと藤真を見上げている。
「なにこれ、かっわ……」
 女子のように何でも『カワイイ』と言う性質ではないつもりだが、思わず声が漏れた。
「ヒマだぞ」
「ぬいぐるみみたい」
「生きてるぞ」
 それを主張するかのように、太い尻尾がぱた、ぱた、と左右に動く。ヒマラヤンの姿は本かテレビか何かで知っていたが、実際に見て触れてみると、愛らしさを追求したぬいぐるみのような外見に、しっかりと生命が宿っているという事実が、至極不思議に感じられた。
「うん。あったかい」
 思えば、小動物をこうして抱いたことはなかったかもしれない。厚い被毛越しにもじわりと猫の体温が伝わってきて、無性に幸せな気分になる。
「藤真くんは猫が好きなんだって?」
「ええ、まあ人並みに……」
(ほらー、親父さんに変に勘違いされてるじゃねーかっ!)
 もちろん嫌いではないのだが、にこやかな父親の顔を見るのがなんとなくやるせない。ちらりと牧に目を遣るが、牧は「ん?」と不思議そうに藤真を見返すだけだった。
 母親がソファの前のテーブルに三人分のコーヒーを並べると、藤真の腕の中で猫がもぞもぞと身じろぎをした。腕を緩めて膝の上に乗せると、くるんと体を裏返して藤真に向きなおり、パーカーのフードから出ている紐に不思議そうに手を伸ばす。獲物など到底捕まえられないような、のんびりとした動作に笑ってしまう。
「っふ、おとなしい猫だな〜」
 藤真と猫との接点など、たまに野良猫に遭遇するくらいのものだったから、猫といえば警戒心が強く、人間の姿を見れば逃げ出すようなイメージだったのだ。
「おとなしい種類だって聞くし、ヒマは人間より偉いつもりだからな」
「なんだ、偉いのか、おまえ」
「ン?」
 ヒマはまるで会話をするかのように短く唸り、藤真を見上げた。
「意外とな。本名はキャメロット・なんとか〜っていうんだぞ」
「なんだよ、本名って」
「血統書に書いてる名前だ」
(ウッ、どんどん金持ち要素が出てくる……!)
「そ、そうなんだ、どうりでかわいいとおもった……」
 牧が得意げに頷く。
「ああ、赤ちゃんのときに俺が選んだからな。こいつが一番かわいいって」
「同じ種類でそんなに違うもん?」
「全然違うぞ」
 きっぱりと言い放った息子に続いて、父親が口を開く。
「ヒマラヤンはペルシャの仲間だから、スタンダードもペルシャと同じ。わかるかな、ちょっと潰れた感じで、鼻が短くてブルドッグみたいな顔」
 藤真はこくこくと首を縦に振った。確かにペルシャ猫と言われると、ふかふかの白い毛に覆われた、むっつりとした不機嫌そうな顔立ちが思い浮かぶ。しかしヒマはそれとは違って、丸くはあるが目尻の上がった目に、スッと伸びた鼻筋をしている。ブルドッグ系統の〝ぶさかわ〟ではなく、素直に愛らしい顔立ちだ。
(てかペルシャねこって金持ちキャラの膝の上にいるやつじゃねえか……たぬきみたいな色してるから油断したぜ……)
「スタンダードっていうのは」
「キャットショーでの評価の基準っていうのかな。いいヒマラヤンの基準みたいなもんだ。ヒマはペルシャよりシャムの顔立ちが強いから、ショーに出すタイプじゃない、ペットタイプのヒマラヤンだね」
「キャットショー……!」
 ヒマはいたって無邪気にパーカーの紐を引っ張っている。にわかに緊張しながら慎重に背中を撫でると、手触りが高貴な気がしたが、完全に気のせいである。
 牧は父親を見遣り、いささかムッとした様子で口を開く。
「そんなのどうでもいいだろう。ショーで優勝してるヒマラヤンより絶対ヒマのほうがかわいい」
 贔屓目というよりは、好みの問題だった。父親はヒマとそれを抱く藤真と牧を見比べ、含みのある笑みを浮かべる。
「お前は昔から面食いだものな〜……」
「へえ?」
 藤真はヒマを落とさないように抱えながら、思わず身を乗り出す。非常に興味深い話題だ。
「こいつの昔の彼女の話とか、聞いたことあるかい?」
「彼女いたってくらいしか」
「おい、いいだろうそんな話は」
 藤真は意地の悪い顔で牧を見遣る。
「なんだよ、聞かれたら困るのかよ?」
「そういうわけじゃないが……」
 やましいことはないつもりだが、親が何を言いだすかはわからないし、藤真の地雷だってどこにあるか未だに把握しきれていないのだから、積極的にしたいとは思わない話題だ。
「お話聞きたいでーす!」
 弾むように言った藤真の見事な笑顔が、さらに牧に追い打ちをかける。
(藤真、なんなんだそれは、猫かぶってるのか? お前、なんで……)
 父親は機嫌よく頷く。
「いや、そう面白い話じゃないんだがね。幼稚園のころから、かわいい子しか家に連れてきたことがないんだ」
「幼稚園!」
「最初はたまたまだと思ったが、まあそのうち気づくよね。ガキのくせにしっかり顔で選んでやがるなって。タイプまであるんだ」
 ふー、と牧がわざとらしく大きく長いため息を吐いたが、藤真は気にも留めない。
「どんなタイプなんですか?」
「元気でちょっと気が強そうな子かな。おとなしい子のほうが家に連れてきやすそうなのにね」
「誘拐犯みたいなことを言わないでくれ。一緒に遊んで楽しいタイプだったってだけだ」
 藤真が笑いながら口を開く。
「かわいい子と遊んだほうが楽しいもんな!」
「それは……なくはない」
「認めるのかよ」
「絶対じゃないだろうが、かわいい子って気が強いっつうか、ちょっとワガママなこと多くないか? それがな、見た目のかわいさと奔放さが合わさって、すごくかわいく感じるっつうか……あ、いや、すまん」
「なんだよ、なんで今謝ったんだよ、おい!?」
「気にするな」
 しみじみと語った牧に対し、暗にわがままと言われた形の藤真は頬を膨らませて不貞腐れる。ふたりの様子を観察するように眺め、父親は目を細めてコーヒーをひとくち飲んだ。
「……藤真くんは、めちゃくちゃモテただろう!」
「いえ、普通くらいです、たぶん」
 藤真にしてはずいぶんと曖昧な返答だった。中学時代は周りより飛び抜けて浮いていたとは思わない。翔陽バスケ部のレギュラーに定着すると、他校の女子からも騒がれるようになったが、暇と興味のなさから女子とは付き合わなかったので、なんとも言いがたい気がしたのだ。
「そうだ、藤真はどうなんだ?」
「なにが?」
「好きな女子のタイプ」
 牧は意趣返しのつもりなのか、にやりと笑う。しかし藤真は全く動じず、目を細め唇の端を吊り上げる。
「なに、そんなこと聞きたいのかよ?」
「いや……せっかくだからと思って……」
 意味ありげな藤真の表情を見ていると、聞かないほうがいい内容なのだろうかと思えてきて、牧は口調を弱くした。
「あんまり考えたことないな。たぶん、自分からいったことないから、告られてからOKかどうか考える感じ」
 父親は低く笑った。苦笑に近かったかもしれない。
「藤真くん、それは普通じゃないね。立派にモテモテだよ」
「そうですか? でも二股とかしたことないですよ」
「それは素晴らしいことだね!」
 牧が困惑したようにふたりを見る。
「いや、別に普通なんじゃないのか……?」
「まあ、部活も忙しかったろうしね」
「そうなんですよ〜!」
 それはその通りなのだろうが、やはり愛想のよい藤真にはなんともいえず落ち着かない気分になる。日ごろ自分に対してそんな態度はしないし、自分の親ではあるが、藤真と中年男という絵面はなんとなく嫌だ。
「なんかヒマがおっぱい揉んでくるんだけど。お前に似たんじゃね」
 牧の内心など知らず、藤真は小声で問うた。ヒマはごろごろと喉を鳴らしながら、二本の前足を交互に動かして藤真の胸を押している。
「ふみふみじゃないか、藤真だって前やってきただろう」
「は? 知らねえよ」
 以前、部活の歓迎会で酔っ払って帰宅した藤真が似たようなことをしてきたのだが、酔っていて覚えていないようだ。
「甘えてるんだよ。すっかり藤真くんのことが気に入ったみたいだ」
「え〜! おまえ、オレに甘えてるのか〜!」
 ヒマは今にも眠ってしまいそうに目を細めながら、ゆっくりとした動作を繰り返している。見た目にも愛らしい動作だが、理由を知ると俄然愛しくなってしまった。
「オレ、この子と結婚しようかなっ」
「おっいいね、そしたら藤真くんうちの子だな!」
「あら、うちの子になる? 今お部屋ひとつ空いてるのよ」
 いつの間にか居間に来ていた母親もにこやかに同意する。牧はとんでもないと首を振った。
「やめてくれ! それは俺の部屋だし、藤真は俺と住んでるし、ヒマはもうおっさんじゃないか」
「ヒマってオスなんだ。かわいいおっさん!」
 キラキラと少女漫画の効果の見えるような笑顔を浮かべてヒマの耳の間に鼻先を寄せる、藤真を一同凝視する。作り笑いなどではない、彼の本物の笑顔はやはり強力だ。
「うーん、いいな、美少年と猫。保険のCMができそうだ」
(ペット保険とか……?)
 藤真が首を傾げて見遣ると、父親はにこりと笑う。
「大切なひとのために、とか言ってな」
「ああ、そんなの、保険の一つや二つ契約しちまうな」
 牧は感じ入ったようにしみじみと、ゆっくり首を横に振る。自分に何かあったときに、藤真に何かを残せるように、もう少し年をとったら本気で考えてみようか。
「……」
 そうしてぼうっと藤真を見つめる息子の姿をさらに見つめる父親の視線に、牧が気づくまでにそうは掛からなかった。
「そうだ藤真、俺の部屋に行こう。ヒマ持ったままでいいから」
「え、なんで?」
「そうだぞ紳一、なんで?」
「いいじゃないか、藤真を案内したいんだ。ほら」
 牧に腕を引いて急かされ、藤真は立ち上がったが、ためらうように父親を顧みる。
「いいよ、行ってきなさい」
 そうしておとなしい猫を抱いたまま、牧のあとに続いて二階の一室に足を踏み入れた。
「あったか!」
「日当たりいいからな、この部屋」
 日当たりのいい子供部屋で、両親にからかわれるかのような先ほどのやり取りを思いだすと、いかにも牧が愛されていたのだと感じられて、微笑ましい気分になる。藤真は口もとを優しげに緩めながら、片付いた、片付きすぎた部屋の中をぐるりと見回した。
「……でも、なんにもないな」
 机と椅子とベッド、本棚などの大型の家具はあるが、生活感のある小物は置かれていない。ベッドの布団とシーツが白く真新しく見えるのが印象的だった。
「高校に行くときでだいたい持ってっちまったからな。漫画本は残ってるぞ」
「いや、」
 牧は藤真の返事を聞く前に部屋の奥にある本棚へと歩く。藤真は拒否しかけたものの、牧がどんな本を読むのか気になって、ヒマをベッドの上に置いてそちらへ歩み寄った。
「ううーむ、なるほど……」
 藤真は笑いを押し殺した不自然な真顔をして、本棚に向かって腕組みをする。実家を出る前ならば中学生までに買ったもののはずだが、少年らしいといえそうな本はなく、青年誌系というのか、歴史ものやサラリーマンもののような硬派なタイトルが多く見える。
「一応聞くけど、お前の趣味?」
「伯父から貰ったのもあるし、自分で買ったのもあるぞ」
(らしいっちゃらしいけど、牧はもうちょいメルヘン路線かと思ったんだけどな)
「エロ漫画とかねえのかよ」
「そこにある課長シリーズはなかなかエロいと思うが……まあエロ本は実写派だな」
「そうだったな」
 そして、さすがに無人にする部屋に置きっ放しというわけにもいかず、処分するなり持って行くなりしたのだろう。藤真はしゃがみこんで一番下の段を物色していたが、じき興味を失ったように立ち上がる。
「なんだ、読まないのか?」
「だって長そうなのしかないし」
 巻数順にずらりと並んだコミックスは壮観だが、よほど時間を余していない限り、初めから読んでみる気にはなれないものだった。
「……はっ、ヒマが超寝てる」
 ベッドのほうを見ると、ヒマは腹を天井に向けて背筋を伸ばし、前足を体の横に下ろして、綺麗な仰向けの姿勢で寝ていた。
「人間みたいな寝かたするんだな。オレも寝よーっと」
 藤真はベッドの奥側に寝ているヒマの隣に、添い寝するように横になる。
「よくそんな格好で寝てる。猫背っていうが、猫も背骨まっすぐのほうが気持ちいいんだろうな」
「猫って動物臭くないんだな。洗ってるからか? いいにおいする」
 ふんふんと、ヒマの額に鼻を近づけてにおいを嗅ぐ、それだけの動作がなぜだか無性に愛おしく、温かなものが込み上げる。
「ほとんど洗ってないと思うが。なんのにおいだ?」
「わたあめみたい」
「わたあめのにおいってなんだ、知らないぞそんなの」
 牧はベッドの上に片膝を乗せ、一人と一匹に体を覆い被せるように向こうに手をついて、藤真の髪に鼻先を突っ込んだ。
「おい、オレを嗅いでどうすんだよ、ヒマを」
「紳一、」
「うおおーっ!?」
 突然背後から聞こえた女の──母親の声に、牧は反射的にベッドから飛びのいて藤真から体を離していた。
「大きな声出さないでよ、体育館じゃないんだから。おやつとお茶を持ってきたわよ」
「そんなの頼んでないだろうっ、つうか、勝手に入らないでくれっ!」
「ノックしたじゃない」
「返事してからにしてくれって、昔から言ってるだろうっ……!」
「ここに置いておくわね」
 母親は全く動じる様子を見せず、昔の牧の勉強机の上に飲みものとお菓子をトレーごと置いた。
「食べたら金(きん)ちゃんのお散歩に行ってきてちょうだい」
 牧家に飼われている、ゴールデン・レトリバーの金太郎のことだ。
「藤真がいるのにか?」
「だって、リビングにいたくなくてここでゴロゴロしてるんでしょう?」
「……まあ、そうだな、天気もいいしな」
 犬の散歩は好きだが、藤真と一緒となればなお楽しいことだろう。犬を放していい広い公園があるから、フリスビーを持って──など考えていると、藤真の押し殺した笑い声が聞こえた。
「なんだ、なにがおかしいんだ」
「ううん? とりあえずおやつ食べようぜ」

 犬の散歩に行こうと庭に出ると、牧が思いだしたように言った。
「そうだ、カメ吉も見ていくか」
「ネーミングセンスが一貫してんな」
「わかりやすくて覚えやすいのがいいじゃないか」
 庭に水槽を置いているのだろうかと牧について歩くと、低木や丈の高い草の陰に、丸い石で囲まれ、上にネットの張られた小さな池が見えた。
「あれだ」
 池の中には赤と白の模様の大きな金魚が泳いでおり、点々と置かれた石の上に、三十センチほどありそうな亀が甲羅を干すようにくつろいでいる。
「でかっ! これお祭りのカメかよ?」
「ああ、ちゃんと飼えば長生きするって話だぞ」
「……カメ吉はミドリガメの勝ち組だな。金持ちの家でちゃんと飼われて、専用の池まであって長生きして……」
 途端に元気のなくなった声でつぶやいた、藤真の表情は深い憂いを帯びている。
「どうしたんだ藤真、急に」
「なんでもない。犬の散歩に行こうぜ」
 風に乗ってにおいが流れていくのか、声が聞こえているのか、犬小屋が見えないうちから犬の鳴き声が聞こえていた。じき、イメージ通りの淡いゴールドの被毛をした金太郎の姿が見える。
「ワン、ワン!」
「おう、久しぶりだな」
「ワン!」
 金太郎は高く短く吠えると、尻尾を振り回しながら後ろ足で立ち、牧に抱きつくかのように凭れ掛かった。
「こっちもでっか!」
 体は大きいが目は優しく、口角が上がっていかにも嬉しそうな表情に見えるため、恐怖感は湧かない。
「ゴールデンの平均くらいだと思うぞ。たぶん」
 牧は金太郎の前足を地面に下ろし、軽く周囲を見回すと、唐突に藤真に抱きついた。
「っ!? おいっ、なにすんだっ!」
 藤真は慌てて牧の胸を押し返すが、牧はなおも藤真の体に手のひらを擦りつけるように触った。
「俺のにおいを藤真にうつしておけば、金太だってすぐ慣れるだろう」
「んな単純な」
「金太、おすわり。……ほら、試しに頭撫でてみろ。たぶん噛まないから」
「たぶんてっ」
 おずおずと金太郎の頭を撫でていると、低く軽快な歌声が聞こえてくる。
「あーる日金太が歩いているとっ♪ 美しいお姫様が逃げてきたっ♪」
 声から想像はできたものの、牧の父親だった。曲調はカントリー調というのだろうか。藤真たちのかたわらに来て、陽気に歌いながら体を揺らす。
「金太守〜って♪ きんたまも〜って♪」
「ぶはっ!」
 どうしても男性器の一部の俗称を思い浮かべてしまう文字列に、藤真は思わず吹き出した。
「おっ、藤真くんもやっぱりこういうの好きだよな! 男の子だもんな!」
「親父っ! 変な歌を歌わないでくれっ!」
「変な歌とはなにごとだ、つボイ先生は天才だぞ」
「藤真、早く行くぞ」
「うん……それじゃ」
「ああ、気をつけてね」
 藤真は父親に軽く会釈をして、金太郎に引っ張られるように先を行く牧を追う。家の門を出ると、冗談めかしてではあるが、牧を非難するような口調で言った。
「牧のお父さん、かわいそ〜」
「なにがだ?」
「久しぶりに帰ってきた子供に絡みたくて仕方ないのに、邪険にされてさ」
「なに言ってるんだ、絡まれてるのはお前じゃないか。しかも下品なことばっかり、あんなのセクハラだ」
 けしからんと言わんばかりに口をへの字にした横顔に対し、牧のほうがよほど過激なことをしてきたではないか、とは言わないでおいた。どちらにせよ、嫌ではないのでセクハラではない。
「別にオレ、お上品じゃないから気にしないけど?」
 父親が客人である自分に話しかけるのはある程度当然のことだ。そして、それを介して息子ともコミュニケーションを取りたがっていると藤真は感じたのだが──親の心子知らず、ということなのだろう。

 近所の〝犬の散歩ネットワーク〟の顔見知りと挨拶を交わす牧を(さすが社交的)と眺めつつ、きちんと信号待ちをする金太郎に感心しつつ歩くうち、大きな公園に着いた。金太郎もわかっているようで、敷地に入った途端に走り出す。それに引っ張られてふたりも走り出した。
「中学のときは、いつも俺が散歩してたんだっ」
「そりゃ体力もつくわっ!」
 ふたりにとってきついペースではなかったが、のんびりとおしゃべりをするのに適した状況とはいえない。人気も少ないので声を張ってぽつぽつ話しているうち、目的地である〝犬の広場〟に到着した。
 金太郎はパタパタ尻尾を振りながら、藤真の持つ手提げの紙袋の中に鼻先を突っ込み、フリスビーを咥えて引っ張り出す。牧を見上げる黒い瞳が、期待にきらきらと輝いていた。豊かな表情に、藤真も自然と笑顔になる。
「すげー嬉しそう」
「親父のやつ、あんまり遊んでやってないのか?」
「いやこれは親父さんはきついだろ」
 眉間に皺を寄せた牧に、呆れたようにつぶやいた。犬も人のことをよく見ているようなので、日ごろはこれほど走らないのかもしれないが。
 牧は受け取ったフリスビーを、金太郎の目の前に見せつけるようにゆっくりと振った。
「よーし、行くぞ、それっ!」
 掛け声とともに円盤が斜め上空へ飛び、金太郎もダッシュする。青い空を背景に綺麗に弧を描いたフリスビーを、大きな体躯の重さを感じさせない跳躍で見事にキャッチし、喜び勇んでこちらに駆け戻ってくる。
「おおーっ!」
「よーし、よしよし。藤真も褒めてやって、おやつをあげてくれ」
「ワン!」
「よーし、よしよし……」
 覚束ない手つきではあるが、牧がしていたように金太郎の頭や首回りを撫で、持参していた犬用のジャーキーを差し出す。金太郎は喜んでそれを頬張った。顔を合わせてからさほど経ってはいないが、褒めてくれておやつをくれる人間はともだちだ。
「今度は藤真が投げてみろ」
「えっ、シカトされたらショックだな……」
「大丈夫、俺のにおいがついてるじゃないか」
「なんかすげー、全然安心感ねえわ。……よしほら、いくぞ、それっ!」
 思いきってフリスビーを投げてみる。金太郎が一瞬躊躇したのは、投げる人間が違うせいか、左手で投げたせいだろうか。それでも駆け出してジャンプしたものの、高さが足りずにキャッチし損ねてしまった。
「惜しいな」
「……オレがフリスビー練習しなきゃだめかも」

 ひとしきり遊び、満足げにため息をつく金太郎を挟むようにして、ふたりも芝生に腰を下ろす。陽の光はまだ充分に明るいが、少し西に傾いていた。
「いやー、ほんといい子だな金太郎!」
「ワン!」
 初めはおそるおそるの雰囲気が見て取れた藤真もすっかり慣れたようで、太い首に抱きつくように腕を回す。ふたりの輪郭を、光の金色が淡く縁取っている。
「なんだよ?」
「カメラ持ってくればよかった」
「お前、普通に写真撮る趣味なんてねーじゃん」
「それは、そうなんだが……」
 藤真の言う通り、ポラロイドカメラで遊んだことがある程度で、日ごろコンパクトカメラを持ち歩く習慣はない。しかし、ヒマと一緒のときにも思ったのだ。単に〝藤真がかわいい犬猫と一緒にいる〟というだけではなく、高校時代は離れていたとはいえ、家族同然に暮らしてきたペットだ。彼らと藤真が仲睦まじくするさまに、藤真がいっそう近い存在になったと感じた。尊い光景だ。目に焼きつけるだけで終えるのは、あまりにもったいないような気がする。
 バスケットボールの試合や行事では誰かしらが写真を撮ってくれていたから、今まで自ら意識することはなかった。しかし、ふたりで過ごすときのために、カメラを持ち歩く癖をつけるのもいいかもしれない。
「そうだ、うちでもなんか飼うか? あのマンション、ペットOKだろう」
「うーん、いや……」
 藤真は一変して表情を曇らせる。魅力的な話ではあるのだが、重々しく首を横に振った。
「オレ、動物飼うの向いてないんだ」
「そうは思えんが」
「子供のとき、ハムスター飼ってたんだけど、いつもカゴの中にいてかわいそうだからって出してやったら、窓の隙間から外に逃げちまって……きっとネコかカラスにでも食われて……」
 あまり見たことがないくらいに、藤真は深く暗く沈み込んでしまった。無論、日ごろから気にしているようなことではないが、牧のペットたちと楽しく遊んだせいで、いたく思いだされてしまうのだ。牧は慌てる。
「こ、子供のころなら仕方ないんじゃないか? ハムスターだってきっと、最後に広い世界を見ることができて嬉しかっただろう」
「最期ね。やっぱ死んだよなーっ!」
 藤真はやけになったような口調で天を仰いだ。
「あ、いや、そういう意味じゃないぞ!? そもそも寿命が短いだろう、ハムスターって」
「いいよ、わかってる。もうほんと凹んでんのにさらに姉にブチギレられるしさー。……つうわけで、オレにはペットは飼えないんだ」
「ハムスターみたいなすごく小さい動物は、かえって飼うの難しいんじゃないか?」
 体力もなさそうだし、と続ける牧に、藤真は考える様子もなく首を横に振った。
「あと今そんなにペットに構ってる暇あるか? ふたり揃って家にいない日とかかわいそうだろ」
「まあ、それもそうか」
『家で暇してたら藤真に構ってるしな』『オレはペットなのかよ!』と頭の中でひとり漫才をして、牧は満足げに笑った。

 散歩を終えて牧の家に戻ると、玄関の土間に、脱がれた靴が増えていた。
「誰か来てる?」
「弟と妹だ」
「いやっ初めて聞いた!」
「そうだったか?」
 今まで付き合ってきて一度も聞いたことがなかったはずだし、なんとなく牧のことを〝お金持ちのひとりっ子〟と思い込んでいたために、明確に驚いた声が出てしまった。
(そういやひとりっ子ってあんまりキャプテン気質ではないか……な)
 海南を率いていた牧の頼もしい姿を思いだす。ふたりでいるときとは、またずいぶんと違った印象だった。
「休みの日だから、遊びに行ってたんだろうな」
 土間に立ったまま「じゃあそろそろ帰るか」などと話していると、母親が出てきて、牧と藤真も含めた人数分の夕食を作っているからと勧められてしまった。断るわけにもいかず、中学生の弟と小学生の妹にも軽く挨拶をして、少し早めの夕食をご馳走になった。
 その後なぜか牧の父親が写真を撮ろうと言いだしたので、玄関ホールにペットを含む牧家一同と藤真とで集合して記念写真を撮った。弟や妹はさぞかし不思議だったことだろう。
「藤真くん、写真できたら送るからね!」
 藤真に向かって親指を立てる父親と、それに応えるように親指を立てる、大人に対しては存外に愛想のいい藤真とを見比べ、牧はため息をついた。
「普通に俺に送ってくれ……」

 その後、泊まっていけと言われるのを主に牧が強く拒否して、今はふたりで帰路についている。藤真の手には、持っていったものとは違う土産ものの紙袋があった。
「なんかすまんな、鬱陶しい親で」
「全然?」
 文化の違いを感じてしまう面もあったが、さすがは牧が育った環境というか、穏やかで和やかな家族だった。牧はなおもぼやく。
「晩飯な、絶対断れなくするつもりで早めに用意してたぞ。普段あんな時間に食ったことない」
「いいじゃんか、美味しかったし、賑やかで子供のとき思いだした」
「子供のとき?」
「よその家で、友達何人かで晩御飯ご馳走になったりみたいな。……あと、嫌われてなさそうで安心した」
 挨拶が遅れ、ふたりで住みだしてから少し経ったタイミングでの対面になってしまったこともあり、気後れしていたのだ。
「そうだぞ、うちの親、お前のこと気に入ってるんだ」
「船乗せてくれるっていうの、本当かな? 社交辞令?」
 子供相手に社交辞令など言っても意味がないだろうし、特に車や船は進んで見せたがる性分のため、きっと父親は本気だと思う。牧としては気が重いことだ。
「……そんなに船乗りたいのか?」
「なんかお前、毎度極端じゃねえ? そんなにっていうか、迷惑じゃなくて乗せてくれるっていうなら乗りたいだろ」
 牧の感覚が理解できないというように、藤真は微かにだけ唇を尖らせる。見慣れた表情だが、やはり愛らしいものだ。
 今も昔も変わらない。
 体を交えても、一緒に住んでみても、未だ終わりなど見えない。平穏な日々の連なりに何度も線を描き重ね、少しずつはっきりとした輪郭を捉えていく、その営みを堪らなく愛おしく感じる。
(時間ができたら、船舶免許取るか……!)
 可愛いひとの多少のわがままに付き合うことが愉しいのもまた、昔から変わらないのだった。

その表情カオの理由を教えて 5

5.

 幕切れは呆気ないものだった。
「公園でシュート練習してるうちに思いだしたんだ。今のは違う、もうちょっとこう……とかやってるうちに、あれ? 思い出してるじゃん! って」
 高校に入ってからはバスケットボール漬けの生活を送っていた。それが彼らの日常だったし、藤真も含む一部の部員にとっては勉強以上のウェイトを占めるものになっていた。
 藤真が記憶を取り戻すために必要なのはバスケットボールなのではないかと、誰もが想像しただろうし、自身でも察しはついていた。だから逃げた。そして花形も牧も、おそらく仙道もそれを許した。優しく閉じた世界での、ひとときの休息だった。
 部員たちが練習に出て行き二人だけが残った部室の中で、花形は躊躇しつつも切り出した。
「事故の日、なんであんなところにいたんだ?」
「あんなとこって?」
「事故に遭ったところ。お前の家から遠くはないが、まっすぐ帰ったら通らない道だ」
 冬休みに入り、部活動の時間が長くなると、藤真はときおりひどく疲れた様子を見せた。監督とはいうものの自らもきっちりとトレーニングメニューをこなしていたし、空き時間には指導関係の本を読んでいた。気丈な風にしていても、心労もあったと思う。
 あの日も藤真は調子がよくない様子だった。練習が終わったあと、後片付けや日誌の記入を請け負って藤真を一人先に帰らせたのは花形の提案だった。そして藤真は事故に遭った。花形は自らの判断を呪った。藤真が戻るまでずっと、自責の念に駆られていた。
「内緒の話」
 藤真は唇の前に人差し指を立てる。愛らしい仕草だが、花形にとっては見慣れたものでもある。
「ああ」
「あそこの近くの公園って、バスケのゴールがあって、よく小学生の、低学年くらいの子供たちが遊んでるんだ。ルールとかめちゃくちゃなんだけど、楽しそうにさ。それ見てると、あーバスケって楽しいんだよなって、思い出すっていうか、元気が出るっていうか」
 花形は続きを促すように、黙って頷いた。
「たまにしんどいときとか、眺めに行ってて。家が近いんだろうけど、結構夜まで遊んでるんだよな。……ま、あの日はちょっとだけ早めだったけど」
 寒かろうが暗かろうが遊びに夢中の子供たちには関係ないようで、その日も地面にボールをつく音と、賑やかな声が聞こえていた。
「多分さ、好きなもんでも毎日全部の料理に入ってたら嫌いになるみたいな、そのくらいのことだったと思うんだ」
 疲れていた。一生徒の分際でベストを尽くせたとして、果たして報われるのかと疑問が湧いた。そも報いとはなにか、自分はどこへ行きたいのか、よくわからなくなっていた。
「で公園の近くまできたら、いきなり車が出てきて。避けようとしたのは覚えてるんだけど、多分それで電柱か塀かなんかに頭ぶつけたんだろうな」
「そこはお前に過失はないわけだな」
「ない! もうさ、今度まじでお祓い行こうぜ、夏からちょっとおかしいから」
「俺もか?」
「だって、お前が帰れって言わなかったらオレは事故に遭わなかった」
 堂々とそう言い放たれると、花形には返す言葉がなかった。うなだれたところで思い切り背中を叩かれ、思わず噎せる。
「ウソウソ、お前には感謝してるって! んじゃ行くか」
 少し長くなった冬休みを終えて、新学期とともに翔陽バスケ部にもようやく日常が戻る。「打倒・海南!!」ランニングの列に、次期部長兼監督の掛け声が加わった。

 夜の街の人工の光が、あどけなさの残る頬のなだらかな曲線をなぞる。大人びた鼻先は暖を求めるように擦り寄って、乾いた二つの唇の間に湿度を生んだ。
 些細な物音に弾かれたように顔を離したが、寒さを理由にして再び寄り添い指を絡めた。
 密やかな逢瀬に青い衝動をひそめて、新しい二人の日常がはじまる。

〈了〉

その表情カオの理由を教えて 4

4.

 冬晴れの昼下がり。陽射しは明るく藍色の海も穏やかな、のどかな景色が続く。しかし、その堤防沿いを歩く藤真は自らの判断を激しく後悔していた。
(くっそ寒い! 家の近くより明らかに寒い!!)
 制服のジャケットの代わりにニットのカーディガンを着てコートを羽織り、肩には部活用のバッグという格好で、歩いているうちに暖かくなるだろうと思っていたのだが──天気がよくとも海沿いは風があって冷えるのだと、身に沁みて覚えなおしながら、胸の前で腕を抱えた。
 昨日の夜、牧のマンションから自宅に帰ったあと、花形から電話があって少し話をした。体が痛いわけではないが部活には行かない、明日(今日のことだ)の朝は迎えに来るなと伝えると、花形は『待ってる』とだけ言って電話を切った。
(素直なもんだな、優等生くんは。さて、どこ行こう……)
 今日は昼過ぎまで寝て、昼食をとると半ば追い出されるように家を出た。服装こそ部活に行く風にしたものの、もちろんそんな気はない。このまま近所をうろついていれば家族に見つかるかもしれないし、知らないご近所さんに出会ってしまうのも面倒だ。翔陽の近辺も危険。かといって、土地勘を失っているのに何も考えずに歩き回るわけにもいかない。
(迷子とか、一番最悪だからな)
 幸い、花形から貰った手帳サイズの地図帳がある。目印がなくわかりづらいような場所に入り込まなければ、帰れなくなることはないだろう。賑やかなところに行きたい気分ではなかったので、大型商業施設以外でわかりやすい場所、と考えて海が頭に浮かんだのは、牧がサーファーだと昨日聞いたせいだと思う。冬の海に面白いものがあるとも思えなかったが、夜まで時間が潰せればいいだけだ、散歩をしているうちに興味を引く店も見つかるだろう──そうしてこの堤防沿いの道をひとり歩いているのだが、運がいいのか悪いのか、藤真は再び自らの判断を疑う事象に遭遇する。
「……!」
 向かいから、髪を逆立てた長身の男が歩いてくる。髪型や顔というよりは、体つきからそれとなく察してしまった。
(なんか、やな予感が……)
 男はこちらに気づくと一瞬驚いた顔をしたあと、のんびりした調子で軽く手を上げて笑った。
「あれー? 藤真さんじゃないですか」
(や、やっぱり? なんでこんなとこで知り合いに会うんだよ……)
 なぜならここはこの男の散歩と釣りのルートのひとつだからだ。大股で小走りに近寄ってきた男の全身を、藤真は視線だけ上下させて観察する。身長は一九〇センチほどだろうが、髪型のせいでより大きく見える。眉も目も垂れていて、温和そうには見えるが、腹に一物ありそうにも思える。一度は忘れたものの、人の顔と名前を一致させるのは得意なようで、名前はすぐに出てきた。
「せんどう……」
 陵南高校の一年で、花形曰く『よくわからんが藤真になついている』とのことだ。
「珍しいですね、サボりなんて」
「この格好のどこがサボりだっていうんだよ」
「いや、この時間にその格好でこんなとこにいるのがサボりかと……」
 部活の最中に用事で抜け出してきたのなら制服姿は不自然だし、練習試合などのための移動ならば藤真ひとりきりということはあり得ない。
「いろいろあんだよ、オレだって」
 道もわからないし、時間を潰すためにひとりではないほうがいいのだが、本当に色々ある真っ最中で、この男が信用するに足るものなのかはわからない。一年ならば雑に扱うくらいが自然だろうと考え、仙道の横を無愛想に素通りして歩を進めた。仙道は慌てる様子もなくあとに続く。
「怪我、もう大丈夫なんですか?」
「ケガ?」
「交通事故の怪我」
「んなもんほとんどねえよ。ってか、他校にまで知れ渡ってるのか? 事故のこと」
 牧にいたっては部活に出ている情報まで得ていた。一体自分のプライバシーはどうなっているのだろう。
「知れ渡ってるってわけじゃないです。翔陽の一年に友達がいるって、前言いませんでしたっけ」
「そうだっけ」
 覚えていなくても不自然ではない程度の情報だろう。藤真は軽く返し、仙道のほうを振り返りもせずに歩き続ける。
(んーむ……)
 仙道は眉を八の字にして、口もとに形ばかりの笑みを浮かべた。実は事故の怪我を引きずっていて部活に出られる状態ではない──という可能性は簡単に想像できるが、まっすぐそこに突っ込むほど無神経ではないつもりだ。しかし、この珍しい邂逅を見す見すふいにするほどストイックでもない。ステップを踏むように何歩か大股で行くと、簡単に藤真に追いついて顔を覗き込む。
「どこ行くんですか? 藤真さん」
「内緒」
 言おうにも言えない。夜は牧と待ち合わせをしているが、それまでどうするか、どこに行くかなど決めてはいないのだ。
「……ついてくんなよ」
「たまたま俺もこっちに用事あるんですよ」
「ウソつけ! 今こっちからきたじゃねえか!」
「ぼうっとしながら歩いてたから、通り過ぎちゃったんです」
(なんだろうなーこいつ、うさんくせえ……)
 たまたま行き先が同じだけならば相手をする必要はあるまい。藤真は無言で歩き続ける。
「……藤真さんて結構、俺と似てるタイプだと思うんですよね。やってみたら割と飄々となんとかできちゃうってタイプ」
「そうかな」
「あ、別にがんばってないって意味じゃないですよ?」
「うん」
(まあ、少なくとも今のオレは特にがんばってはないわけだが)
「俺が比較的気楽なのはまあ、学校の違いですよね。あ、別に翔陽が悪いって話じゃないですよ」
「なんかお前、さっきからなにその言い回し」
「藤真さんのツッコミが厳しいんで、あらかじめ自分で突っ込んでおくクセがつきました」
「ふーん……」
(他校の割に接点あったってのは、結構仲よかったってことなんだろうか……)
 その考えの根拠となるのは牧の存在だったが、それだけでもない。自分の周囲には不届きなモブも跋扈していると花形から聞いたが、ならば人付き合いの相手は選んでいたと思う。花形が知らないうちに親しくなっていたというのならなおさらだ──と考えていると、不意に生理的な反射に襲われた。
「っくしゅん!」
 予期せぬ登場人物の追加に意識を逸らされていたものの、海沿いの寒さが失せたわけではないのだ。ぶるっと体を震わせて身をすくめるかたわらで、仙道は声を殺して笑っていた。
「……あんだよ」
「いや、かわいいくしゃみするなあって。男のくしゃみって、怒鳴ってるみたいなやついるじゃないですか? たまに」
「あー……」
 藤真は面白くなさそうに仙道を見たが、すぐに興味を失ったように正面を向いて鼻を啜った。そのあまりに素っ気ない態度に、仙道は目を瞬く。
「なんか今日の藤真さん、やっぱりヘンな感じ」
「そうかな?」
「うん。なんか、フワフワしてます」
「うーん……」
 藤真は短く唸ったのち、呆気なく決断を下した。
「内緒の話があるんだけど、聞きたい?」
「聞きたいですっ! なになに?」
 日ごろの先輩然とした振る舞いとは違った、幼い印象の提案に、仙道は嬉々として頭を横に傾ける。藤真は口の横に手を添え、子供のような仕草で耳打ちした。
「あのね、オレ、記憶喪失なんだ。事故でアタマ打って」
「……!? またまた、そんなぁ〜」
 冗談だろうと言わんばかりに手をひらひらさせると、藤真は不愉快そうに正面に向きなおり、歩いて行こうとする。慌てて二の腕を掴んだ。
「ほ、本当に?」
「そんなウソついてどうするっていうんだよ」
「だって俺のこと」
「界隈の人間のことは花形からなんとなく聞いてる」
(こいつには言わないほうがよかったのかな……)
 藤真は顔を曇らせる。仙道の目に、気丈に振る舞うイメージの強かった藤真のこの態度は、明確に異変として映っていた。
「そうだ! そんな状態の藤真さんをほっぽって、花形さんはなにしてるんですか」
「あいつはオレより部活のほうが大事だからな」
「……いや、そんなことないと思いますけどね?」
 愚問だったと思う。正式な監督を欠いている翔陽で、次期部長と副部長が揃って不在となってはさすがにほかの部員に示しがつかないだろう。かたわらで、藤真が大きく体を震わせた。
「っくしゅッ!! ……おい、いちいち笑うな」
「フフッ、すいません。どっか入ってお茶でもしていきませんか? 寒いですよね」
「うん。クソ寒い……」
 ガチガチと歯を鳴らして体を縮める藤真に妙に庇護欲を掻き立てられる、自分自身に困惑する。
(なんとなく危なっかしいのも、記憶がないせいなのか?)
 記憶喪失などにわかには信じがたいことだったが、今日の藤真に対して感じるそこはかとない違和感の正体は何かと考えると、腑に落ちるような気もした。

 今の藤真は知らない道だが、仙道にとってはよく知った道だ。道路を横断して少し行くと、小さな喫茶店に入った。そう混んではおらず、二人で四人掛けのテーブル席に座ることができた。
「おっ、藤真さん、今の時間はケーキセットが頼めますよ」
「いらねえよ。オレはコーヒーだな」
「でもおトクですよ? ほら見てくださいよ、コーヒー紅茶単品でこの値段なのに、ケーキをつけてもこう」
(オレ、ケーキが好きだったから勧められてるとか?)
 テーブルに置かれた別紙のメニューをしきりにアピールされるうち、そんな気分になってきた。
「ほんとだ。じゃあケーキセットにしよ」
 仙道は頷くと、ちょうど近くに来た店員に軽く手を挙げる。
「ケーキとコーヒーのセットを一つと、コーヒー単品で一つ」
 にこやかに店員を見送った仙道とは対象的に、藤真は不満げに目を据わらせた。
「お前はケーキ頼まねえのかよ」
 同じものを頼むのかと思っていたから、なんとなく騙されたような気がして面白くない。
「怒んないでくださいよ。久々のデートなのに」
「は?」
 仙道はため息をつき、悲しげな視線をテーブルの上に落とした。
「やっぱり、それも覚えてないんですよね。俺たちって実は……いや、ここではやめとこうかな」
 自嘲気味に笑った男に対し、藤真は鼻で笑い返す。
「人づてに交通事故って聞いて、偶然会うまで放置って? そんなん絶対付き合ってねーし、億が一付き合ってても冷めきってるだろ」
 迷いもせずに言い返してきた藤真に、仙道は目を瞬く。
「なんだ、意外としっかりしてるんですね。知らないおじさんについて行ったりしなそうで安心しました」
 日ごろとは異なる可愛らしい反応を示すことに、多少の期待はあったのだが、根は藤真ということだろうか。
「自分と周りのこと覚えてないってだけで、あとは別にマトモだし」
「いや記憶失っててマトモなわけないですから! ほんと気をつけてくださいよ、なんか今日藤真さんかわいいんで!」
「えー?」
 そうかな、自分だとよくわかんないけど、など言いつつ首を傾げているところにケーキが運ばれてくると、反射的なものなのか愛想よく微笑する。そこらの女子よりよほど美少女に見える、目の前の光景に男子高校生の概念を崩されて、仙道は額に指を当てた。
「……いつまで外ぶらついてる気なんです? 夜はちゃんとおウチ帰るんですよね?」
 ケーキをひとくち、口に運んだフォークを咥えたままで、桜色の唇が綻ぶように愛らしい曲線を描く。
「夜は牧と会うんだ」
「はい???」
 理解を阻害するのは視覚だ。藤真は愛想笑いなどではなく、本当に嬉しそうに、そして照れたように目を伏せて微笑している。長い睫毛が影を落とす、秘密を孕んだ可憐な表情は、まるで恋する乙女だった。
「海南の牧、知らない?」
「そりゃあ知ってますけど。……てか神奈川の高校で真面目にバスケやってたらだいたい知ってると思いますし、ついでに藤真さんとソコソコ仲いいんだなってのもわかりますけど〜……」
 そこそことは言ったが、ふたりの間にあるものは執着だと思っている。ライバルなのか戦友なのか仲間なのか、最適な言葉の形までは考えたことがなかったが、少なくとも今藤真が浮かべた表情と合致するものではなかったと思う。
「なんだ、やっぱ仲よかったのか!」
「いやっ、」
(知ってるおじさんならいいって話じゃないんですよ!?)
 そう言いたいところを堪えた、仙道の口からはただ戸惑いだけが漏れる。
「ええっと、聞いちゃっていいのかな……」
 仙道が狼狽を表に出すことは非常に珍しいのだが、今の藤真がそれを知る由はない。
「夜に牧さんと会って、一体ナニを……」
「そんなこと、聞くなよう」
 藤真は白い頬をみるみる上気させ、困ったように、しかし思わせぶりに笑った。
(うっそ牧さん、記憶喪失のひと相手になんてことしちゃってるんだ……男のひとって、ケダモノなのね……)
 コートの上の姿のみではなく、日ごろの牧の穏やかな人となりを知っているからこそ、困惑してしまう。しかし、あくまで冗談のつもりではあったが、自分がデートだのと口にしたときは藤真は即座に否定していた。
(んー、俺が知らなかっただけで、ふたりはもともとそうだったってこと……?)

 嬉しかったんだ。
 昨日牧に体を触られながら『なにも覚えてないから初めてと同じだよ』って言ったら、牧は驚いたみたいに、照れたみたいに、でもすごく嬉しそうに笑った。こうなってから初めて誰かに褒められたような気分だった。
 バスケはしない、昔話を聞いてもなにも思いだせない、そう言ったとき、優しげな表情の下で筋肉が強張るのがわかった。牧の明らかな落胆を感じてた。ベッドの上で縺れてるうち、今のオレにも牧を喜ばせることができるってわかったら嬉しくて、なにされたっていいって思った。……結局昨日はセックスまではいかなくて、オレはなんだか拍子抜けしたような、安心したような気分で家に帰ったんだけど。
 今日は昼間は仙道と時間潰して、夜になって牧と駅で待ち合わせてメシ食って、牧の家に来たってところだ。
 玄関に上がると、だだっ広いダイニングキッチンの片隅に放置されてる黒いレジ袋の存在が妙に気になった。牧がトイレに入ってる隙に中を覗いて、オレは固まってしまった。
「藤真、どうした? ……!!」
 袋の中にはコンドームの箱とローションとイチジク浣腸が入ってて、オレの行動に気づいた牧はあからさまに動揺していた。
「そ、それはだな! 違うんだ!」
「なにが違うっていうんだよ」
 どうなってもいいって思ったのは本当だし、それがどういうことかってのもぼんやり知ってたけど、こうもあからさまなものを見てしまうとやっぱり戸惑う。
「備えあれば憂いなしっていうか……」
 つまり昨日しなかったのは備えがなかったからか、と納得してしまった。昨日の今日で明らかにやる気で買ってきたくせに、今否定しちゃってるのはなんなんだろう。やっぱりオレへの遠慮なんだろうか。牧の目が泳いでる。オレは少しだけ嘘をついた。
「いいよ、大丈夫。……そういうのも、興味あったし」

 本当は少しこわかった。痛いのが嫌ってことじゃなくて、誰にも知られちゃいけない犯罪をするみたいな……牧が昨日言ってた女顔コンプは覚えてないけど、元のオレが持ってた常識ってのは今も残ってるから、本能が拒否ってるのかもしれない。
 でもいいんだ。そんなのよりも、オレは牧と先に進みたい。牧の中で、昔のオレと比べられないようなものになんなきゃいけない。
 牧は鷹みたいな目でオレを見て、噛みつくようにキスをした。
(こわい……)
 オレは優しい牧しか知らない。それとも牧のこんな顔、お前(オレ)は見たことあった……?

 広い手のひらが、硬い指の皮膚が、厚い唇と舌が、しるしをつけるみたいにオレの体のいたるところに触れていく。湿った息が肌を撫でるだけで感じて、恥ずかしいくらい体が波打った。視界に入るふたりの肌の色の違いに、堪らなく興奮する。
 体温が高いのか、牧の体は熱くて、筋肉質な胸と腕に潰されるように抱かれると、熱をうつされたみたいにオレの体も一気に熱くなった。落ち着いてるようでいて働いてない頭で、牧はどういう気持ちで力を込めてるんだろうとか考えていた。
 太腿には勃起した牧のモノがしきりに押しつけられてて、威圧されてるような、急かされてるような気分でオレは、だけどそれを嬉しいって感じてた。昨日からずっとそうだ。牧がオレを求めてるっていう、それがカタチでわかるのが嬉しい。

 ベッドの上にうつぶせになって、膝をついて尻を掲げた、無様な格好を晒すことそのものに感じてるみたいに、体じゅうの敏感なところが疼いてる。
「あっ…!」
 冷たくて、ぬるりとした感触が尻の穴に触れた。少し硬い皮膚をした、牧の指だ。穴をほじくるようにして、じりじりと中に入ってくる。
「ぁ、んっ……」
 恥ずかしいのを気持ちいいって感じる性癖なのか、よくわかんないけどそこを触られるのは思いのほか気持ちよくて、普通にヘンな声が出てしまった。
「痛くないか?」
「うん。平気」
 意外と大丈夫だなって思ってたら「そうか。まだ小指だからな」って言われてちょっと気が遠くなった。

 牧は丁寧にそこを慣らしていった。
 尻の穴を剥き出しにして触られて、指を突っ込んで中を探られる。記憶がなくてもまともな行為じゃないのはわかってて、でも今は恐怖心よりひたすら〝いけないことをされてる〟実感に盛り上がってる。なんか絶対的なものに反抗してるって感じで……体に受ける感触とは別のところでイイ気分になってた。
「あぅっ、あ、んんっ……あっぁぁっ…!」
 ぐちゅぐちゅ音を立てて掻き回されながら前に触られると堪らなく気持ちよくて、中で感じてる気分になって頭の中までぐるぐる掻き混ぜられるみたいで──本来の目的を忘れてそれだけでイきそうになるのを、まるで見越してたみたいに寸止めされてしまった。
 牧はオレの背中に覆い被さって耳もとに囁いた。
「挿れていいか?」
 優しい風に聞いてきながら、すっかりでかくなったモノが尻に当たってる。ここまできてわざわざ聞くのかって思いながら、オレは声を絞り出した。
「いいよ、いれて……」
 後ろのほうで包装を破る音とゴムをつけてる音が聞こえて、忘れかけてた緊張とこわさが戻ってくる。尻の谷間にゴム越しのそれを擦りつけられてる時点で、もう圧倒されていた。
「っく、あ、あぁっ…!」
 棒なんかじゃなくて塊だった。ゴムを被った肉の塊。それをローションの滑りを使って押し込まれて、オレは快感とは呼べない感触に腕を噛んで声を殺した。
「うぐっ、うっ…」
 苦しくて、牧が腰を押しつけてくるたびに声が漏れた。喘ぎじゃなくて、潰したら鳴る子供のおもちゃみたいに、体の中の空気が押し出されるついでに声帯が揺れてるって感じだ。
「入ったぞ、藤真……」
 牧は静かな声で呟いて、大きな手で、ここに入ってるよってオレの腹を撫でた。灼けるみたいな腹の中とは全然違う、優しい感触だった。だからたぶん、これでいいんだと思う。

 後ろから抱えられて胸とか前とか弄られるうち、オレも苦しいばっかりじゃなくなっていた。痛みに慣れただけかもしれないけど、それよりもただ、牧のことが好きだって感じてた。
「ふじま…」
 ほとんど息だけで何度もオレを呼んで、ときどき耳とか肩とか弱く噛んできて、かわいいライオンの子供みたいって、よくわかんない妄想が頭に浮かんだ。
「好きだ、藤真……」
 言葉、感触、息遣い。苦痛のために快楽に浸りきれなかった意識も、牧のリズムに絡め取られ呑まれていく。

(結ばれてしまった……)
 体が痛い。脚の間もまだジンジン疼いてる。だけどすごく満たされた気分だ。幸せって言っていいと思う。隣でまったり横になってる牧の肩に頭を寄せる。
「まき」
「どうした?」
「……なんでもない」
 めちゃ鍛えてるなとか、肌は地黒なんだなとか、たぶんそれはいまさら藤真が言うべきことじゃないんだろうって、不意に気づいて言うのをやめた。幸せになったはずなのに、少し苦しい。
「好きだよ」
 だから事実がほしかった。セックスすればオレはお前の特別になって、昔のオレを上書きできるんじゃないかって、そんな気がしてた。
「ああ、俺もだ……」
 そう言って牧がキスをした、左のこめかみにはオレの知らない傷がある。夏の大会でやったってくらいは聞いてるけど、たぶん今のオレよりは牧のほうが詳しいと思う。
(別にさ、覚えなおせばいいだけじゃんか)
「牧。双璧の話をしてよ」
「双璧の話って?」
「うん。バスケの細かいこと言われてもわかんないけどさ、ふたりのできごとみたいなやつ。なんかあるんだろ」
 昔のオレについて話すとき、牧はすごく優しい顔してた。性的な意味かどうかはわかんなかったけど、オレのこと好きなんだってすぐわかるくらいに。オレも全然嫌な気がしなくて、それで仲よかったんだろうなって自然に思った。だけど他校のふたりが仲よくなるまでに、きっといろんなことがあったはずだ。
「……と言われても、そう特別なことはなかったと思うぞ。バスケに向き合えば自然とお前を意識することになったし、たぶんお前も同じだったと思う」
 はぐらかされた。
(どうして教えてくれないんだ)
 牧の中にあるオレの思い出をオレが全部呑み込めば、牧に寂しい顔させなくて済むと思うのに、牧はどうしてもそれを許してくれないみたいだ。

 翌朝、牧はアラームが鳴るより先に起きてたようだった。習慣ってやつか。あくびをしながら牧のベッドの中でもぞもぞしてると、笑われてしまった。
「すまん、起こしちまったな。まだ寝てていいぞ」
 オレは意地で起き上がった。昨日あれから帰るのがダルかったのと、牧もいいよって言ったからお泊まりしたものの、牧は今日も部活だ。
「パン食うか?」
「……いい。腹減ってない」
 なんも考えてなかったけど、迷惑だったかもしれない。実際腹は空いてなかったけど、ちょっとは遠慮もあって、オレは首を横に振った。
「じゃあ、腹減ったら冷蔵庫にあるもん勝手に食っていいからな。カップ麺もあるし……まあ、出前でも外食でもいいが」
 お父さんみたいだなって思ったけど言わなかった。オレは配慮するってことを覚えたんだ。
「そうだ、これ」
 牧の手から、鍵を一つ渡された。
「なに?」
「うちのスペアキーだ。外に出るときは鍵掛けてってくれ」
「ああ、うん……」
 当たり前のことで、必要だから渡されただけなんだろうけど、合鍵のイメージがあって照れくさい。さっさと身支度をして玄関に行ってしまう牧に、オレものそのそと続いて歩いた。
「あと一応ここに金置いてくから、適当に使ってくれ」
「いいってそんなの、オレだって一応あるし」
 聞こえてるくせに、牧は財布から札を何枚か取り出して靴入れの上に置いた。まあ、使わなきゃいいだけだ。
「じゃあ、いってくるな」
「はーい、いってら」
 靴を履いてこっちを見た牧に、ぎゅうと抱きついてキスをした。いってらっしゃいのキスだ。
「!! ……」
 牧は応えるみたいにオレを抱き返して、抱き返して──
「おい、はやく行け!」
 いつまでもそうしてるから、オレのほうから体を剥がして、家から追い出すみたいに背中を押して送り出してやった。

 二度寝して昼過ぎに起きて、キッチンにあったパンを齧りながらテレビをつけた。
(なんもやってねー。近くにレンタル屋があるらしいから、なんか借りてくるか)
 特別なものになったつもりでいても、牧はオレを置いて部活に行ってしまう。それを当然だって感じるのは、染み付いた記憶なのか、ここ数日で学習しなおしただけなのか。
(オレにだって、たぶんバスケしかなかったんだ)
 昨日も今日も、こうして無駄に時間を潰してるのがその証拠だと思う。
 ていうか、バスケに向き合ったらオレに向き合うって牧が言ってたの、適当にごまかされたんだと思ってたけど、ほとんどバスケ部ばっかりの生活してたら、ライバル校のやつとかそりゃ意識するようになるか……な? いまいち実感が湧かない。
 記憶が戻らないままでも、意外と困らないかもしれないとは未だに思ってる。今朝だって、いい感じに恋人みたいにできたと思うし──そうやって新しいものは積み上がっていくだろうけど、でも、昔のことは埋まらない。双璧は宝物って意味だって牧は言ってた。牧の宝物のことを、オレはずっと覚えてないままなんだ。

 夜、玄関で鍵の音がしてるのに気づいて、オレはドア前で待機していた。
「牧、おつかれ! おかえり!」
「藤真……! ただいま」
 牧は面食らって笑うと、抱きしめてキスをしてくれた。別にこれだけで充分なんじゃないかって揺らぎそうになるけど、でも決めたから、オレは俯いて牧の肩に顔を寄せた。
「牧。オレ、バスケの練習をしようと思うんだけど……付き合ってくれる?」
「!! ああ、もちろんだとも!」
 牧はオレの両肩をがっしり掴むと、いかにも体育会系な感じで揺らした。たぶん牧はすごく嬉しそうな顔してるんだろうって思ったから、体が離れるまでオレは顔を上げることができなかった。