にゃんにゃん日和

 ──ピンポーン、ピンポピンポン、ピンポーン♪
 ときは深夜、日付が変わったころだ。こんな時間にインターホンを連打する者など、大学のバスケ部の新歓から未だ帰ってきていない同居人のほか思いつかなかった。
 慌てて玄関に走ってドアを開けた牧の胸に、ひと回り小さな体がなだれ込んで凭れる。ぐりぐりと頭を押しつけられるたび、茶色の髪がさらさら流れた。予想通りのかわいい恋人だったが、牧の意識はその背後に立つ長身の男に注がれる。
「! 花が…」
「牧! たらいま!」
 空気を読まない酔っぱらいが能天気な声を上げ、それを送り届けてくれたらしい花形はそそくさと立ち去ってしまった。牧は腕を伸ばしてドアの鍵を閉める。
「おかえり。藤真、やっぱり酔ってるな……」
 こちらを見上げる顔は赤く、丸く愛くるしい瞳は笑みを含んで楽しげだ。具合が悪いよりはましなのかもしれないが、一切の警戒心を失っているかのような様子に、ひどく落ち着かない気分にさせられる。
「飲みすぎるなって言ったのに」
「しょーがねーらろ新歓なんらから。オレはうまく回避したほうらぜ。素直に飲まされたやつは外でゲロ吐いてしんでた」
 大学一年はまだ未成年ではあるが、慣習として歓送迎会の類では当然のように飲酒が行われている。そして運動部のノリといえば牧にも想像がつくことで、酒に酔った藤真が悪いとは到底言えるものではなく、溜め息を吐くことしかできなかった。
 牧は体質的に酒に強いようで、気分はよくなるものの、ひどく泥酔して明らかに常時と違う様子になるほどのことはない。しかし藤真は違う。色素の薄い肌はすぐにうっすらと染まり、日頃のような言葉での武装を失い、箸が転んでもおかしいようなありさまで──非常に愛らしいのだ。いろいろな意味で心配でしかなかった。
「んっ、おい藤真っ、なんだ!?」
 藤真は牧の厚い胸に顔を埋めていたかと思うと、鷲掴んで揉み始めた。
「牧ってけっこーおっぱいでかいよな。Cくらいあるんじゃね?」
「カップサイズのことはわからんが、多分ないと思うぞ……ていうかなんでそんな話に……」
 そうは言ったが、酔っているために話に脈略がないのだろうとも思っていた。素面の状態で酔っぱらいに接することには慣れているつもりだ。
 藤真のように乳首の性感が発達しているわけではないとはいえ、胸を揉まれているとやはり妙な気分になってくる。牧は感触から極力意識を逸らすように、頭の隅にあった疑問を口にした。
「そうだ、なんで花形が?」
「それ! オレもふしぎなんらぁ。センパイに送ってもらってたら、いつのまにか花形とすりかわってた!」
 藤真はさも不思議だと言わんばかりに目を丸くしている。思春期どころではない、五歳児くらいの反応ではないだろうか。
 見事東大への受験に合格し、駒場キャンパスに通う花形の行動範囲は藤真とも近いようだった。偶然か必然かはわからないが、意識の定かでない状態で知らない人間と一緒にいる藤真を見つけ、保護してくれたのだろう。
「電話くれたら迎えに行くって言ったろう」
「え〜いいよ、そんな子供みたいな」
 一体どの口が言うのかと思うが、藤真は素知らぬ顔でなおも牧の胸を──胸筋を押している。
「藤真、なんなんださっきから。まさか他のやつにもこんなことしてないだろうな?」
「するわけねーじゃん! オレはフンベツある人間らぞ、牧らからしてんのに、牧はオレのこと信用してねーんらな! もういいっ!」
 回らない呂律でつらつら棒読みして、牧の体を両手で突き放そうとする。が、牧はびくともせずに、自分の方がふらついて後ろに仰け反ってしまった。
「わわっ」
 牧はそれを想像していたかのように藤真の背中を支え、抱き寄せて胸に閉じ込める。
「信用してないわけじゃなくて心配してるんだ。とりあえずベッドに行くか」
 眠そうにする藤真の肩を抱え、2LDKのうちの自分の部屋に連れていくと、二人で体を縺れ合わせながらベッドになだれ込んだ。藤真は目を細め、やはり牧の胸をこぶしでぎゅうぎゅうと押す。不意に、目の前が開けたような気がした。
(これは、猫のふみふみ……!)
 牧の実家には犬と猫と亀がいる。猫がクッションや人の体の柔らかい部分を前足でしきりに踏む行動は通称〝ふみふみ〟と呼ばれていた。今の藤真の仕草とよく似たそれは、子猫に返って甘えているものだといわれている。
「ふ、ふじま、なんだ、甘えてるのか? はっ、もしかして〝にゃんにゃん〟か!?」
 若者にとってはとうに死語である同衾の隠語を引っ張り出した、牧の声に自然と熱がこもる。ならばと手早く藤真のズボンの前を寛げ、緩んだウエストから手を突っ込んで下着越しに尻を掴んだ。胸を揉まれた仕返しとばかりに、機嫌よく揉みしだく。
「ふぁあっ!? 牧っ、ぁんっ! なにっ!?」
「なにじゃないだろう、お前から甘えてきたんだぞ」
「っん、てかここ牧の部屋じゃねーかっ! 連れ込みやがって!」
「俺はお前を寝かせてやろうとしてたんだぞ」
 今は状況が状況になってしまったが、勝手に藤真の部屋に入るのは悪いかと思って自分の部屋に連れてきただけで、もともとは不純な動機など一切なかったのだ。
「まあいいじゃないか藤真、にゃんにゃんしよう!」
「しねえし言葉が古いしっ!」
 藤真は全否定するように声を上げたかと思うと、牧の胸に顔を埋めてしまった。
「お前、言ってることとやってることが合ってないぞ……」
「すぴ〜」
(ね、寝た……なんだ、ただの酔っぱらいか……)
 本格的に眠ったのだろう。寝息のようなものとともに、ぐっと藤真の体が重くなった。朝までこのままではどこか痺れてしまいそうなので、のしかかっている体をそっと抱え、自分の隣に仰向けに寝かせる。
「ん……」
 小さく声がしたものの、起きたわけではないようだ。
「ふー、さて……」
 牧は藤真の穏やかな寝顔を見つめ、すっかりその気になっていた自分の股間を一瞥して部屋着のズボンと下着を下ろし、唾液で濡らした手の中でそれを慰め始める。一人での行為で特段声を出すわけでもなし、酔って寝ているのならばそうそう起きないだろうと踏んでのことだ。
(本物の藤真を眺めながらっていうのもなかなか乙なもんじゃないか……特権だな……)
 シコ、シコ──
(同棲したらオナニーなんてしないかと思ったが、意外とそうでもなかったな)
 高校時代はデートのたびにまぐわっていたが、会える機会が限られすぎていたせいだったと思う。日々一緒にいる今は、求める頻度が上がったせいもあり、拒否されることもそれなりにあった。行為によって藤真に掛かる負担が大きいことはわかるので、納得はしている。
 シコ、シコ、シコ、シコ──
 始めたときには多少やましい気持ちもあったのだが、それもすぐに興奮を助長するものになっていった。
(はぁ、はぁっ……藤真、俺は今、お前の寝顔を見ながらセンズリこいてるぞ……!)
 コートの上では帝王と呼ばれ、以外の場所ではのんびりとした大物感を醸す牧だが、ひとたび逸物を握ればそれに振り回されてしまう、いたいけな十八歳だった。天使のような寝顔で穏やかに眠る藤真を目前にしながら自慰に耽る背徳感に、無我夢中で手指を動かす。中性的な輪郭に、舐めれば甘そうな白い肌。桜色の愛らしい唇に、長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳──
「め……!?」
 目が、ばっちりと合っていた。寝ているはずの藤真とだ。つまり藤真は今起きているし、秘めやかなはずの行為も思い切り見られている。
「ふ、ふじまっ、違うんだっ!!」
 藤真は呆れた様子で顰め面をつくる。
「なにが違うんだよ、でっけーちんぽおっ勃てて。どうせお前はオレとやりたいために一緒に住んでんだもんな」
「そんなっ、それだけじゃないぞっ!」
 動揺のあまり、うまく言葉が出てこない。手の中に絶頂寸前のものを掴まえながら、何を言ったところで格好はつかないだろうが、それにしても無様だ。
「いいよ別に。オレもそうだし」
 藤真は静かな口調で言うと、気怠げに肘をついて体を持ち上げ、大きく口を開けて牧のものを頬張った。
「あ゛ぁっ……ふじま……!」
 もやもやとしたものを胸の内に抱えつつも快楽には抗えず、牧は気持ちよく藤真の口の中でフィニッシュを迎えてしまった。
「んぐっ……はぁっ……」
 ねっとりとした精液を飲み下し、苦しげに息を吐くと、藤真はぱたりと仰向けにベッドに倒れる。しばしばと、眠そうに目を瞬いた。
 牧は長く息を吐き、さらに何度か深呼吸をすると、横になって藤真の体に腕を回す。
「藤真。その、やりたいことは否定しないが、俺はお前とたくさん一緒にいたいと思ったから、一緒に住もうって言ったんだぞ」
「そうなんだ?」
 藤真は天井を眺めたまま、遠くを見るように目を細め、くすぐったそうに微笑した。たとえ「やりたいため」だとしても、そう悪いこととは思わない。互いに、他の相手を探すこともさほど難しくはないはずで、それでも敢えて男同士で求め合っている。執着のきっかけが何だったにせよ、紛うことなき恋愛だと思う。
 しかし肉欲とは別のところで求められているのならそれはそれで嬉しい。情熱的に抱き合う熱さとは違う、暖かで心地よいものに満たされていくようだった。
「そうだぞ、知らなかったのか?」
「う〜ん……」
 半端に寝て起きたせいか、大きなあくびが出てしまった。
 新歓の主な話題は初めのうちこそ新入りのバスケ歴などだったが、じきに趣旨を忘れた単なる飲み会となり、彼女(こいびと)の話題が中心になっていった。部活に勉強にと忙しすぎた高校時代の反動で、今の二年は皆大学に入ってこぞって彼女を作ったのだという。内容はバストのサイズやら、週に致す回数やら、その他諸々。
 馬鹿正直に話題に混ざるわけにもいかず、相手がいるものとして話を振られても『高校のときは忙しすぎたので』と濁すしかないことを、賑やかな宴会の場で寂しく感じていた。酔って思考回路が極端になっていたせいもあるが、お互いにもっと〝普通の相手〟を見つけたほうがよいのではと思ってしまったほどだ。
 しかし帰ってきてしばらく戯れていたら、やはり牧が好きだと思った。人の寝ている横で自涜に耽る姿さえ今思い出せばかわいらしい気がするのだから、なかなか重症だと思う。
「藤真、眠いのか? 寝てもいいぞ、もうなにもしない」
 厚い唇がこめかみに触れる。優しい感触だ。
「……牧、明日土曜だ。夜どっか食いに行こ」
「なにがいい? 肉?」
「にく!」
 元気よく即答し、ゆるく握りこぶしを作って牧の胸を撫でる。
「そしたらさぁ、そのあとにゃんにゃんしよっか」
「にゃんにゃん……! しよう……!」
 目を爛々と輝かせ、静かに、しかし力強く言った牧に、藤真は機嫌よく笑った。
(こいつのこんなの知ってんの、オレだけなんだろうな)
 わいわいと恋人の話題をするのも楽しそうではあったが、二人はまだまだ秘密の関係で──牧は自分だけのものでいい。
 くらくらする。甘く、生暖かく、穏やかな官能がさざ波のように身体じゅうに広がる。陶酔感、というのだと思う。なかなか酒が抜けないようだ。

MASK

 牧と藤真の三年の夏は、数々の波乱とともに過ぎた。
 九月には彼らが〝冬の選抜〟と呼んだウインターカップの神奈川県予選が行われ、この年も海南が勝ち進んだ。その本戦を目前にした、十一月のことだ。
『すまん藤真、風邪ひいちまった。明日のデートは無しだ』
「風邪!? だっっせぇ! 自己管理がなってねえな!」
『……そうだな。体は丈夫だと思ってたんだが……』
 反射的に軽口の調子で言った藤真だったが、返る声の弱々しさに眉根を寄せた。これまでに聞いたことがないくらい、非常に消沈した様子だ。体調も悪いのだろうが、ウインターカップまでそう遠くない時期のせいもあるかもしれない。大会が迫るなか体調を崩したとなれば、少なくとも自分なら自己嫌悪に陥ると思う。
「なに、いつから?」
『周りで風邪が流行ってて、少し前からうつったり治ったりと引きずってる』
「無理して練習出てるせいだろ。ちょっと完全に休んで治したほうがいい」
 大会を意識しながら練習に出ないのは牧にとって辛いことだろうが、充分な休息がなければ体力も回復せず、治ってもまたすぐに風邪に罹ってしまうだろう。
『なんか、医者みたいだな』
「ダテに監督やってねえよ。熱は?」
『今日は調子悪くて、三十八度あった。薬は飲んだし寝れば治るだろうが、さすがに明日は』
 落ち着いて話しているようだが、やはり落ち込んでいる様子が窺える。
「よし、仕方ねえから明日お見舞いに行ってやるよ」
『いい、うつると困るだろう』
「大丈夫、オレ風邪の抗体持ってるし」
『なんだそりゃ。そんなもん』
「いいから気にすんなって!」
 牧の言葉に被せるように言いきって、電話の受話器を置いた。
 第一声を聞いた後には、オレらを負かして勝ち進んだくせに風邪なんてひきやがって、だらしねえ、たるんでるんじゃねーのか、と軽口を続けるつもりだった。しかし弱りきった牧の声を聞くうち、そんな気はすっかり失せてしまった。
 体が弱れば心も弱くなる。藤真にも身に覚えのあることだ。それから、牧が参っているという状況は非常に珍しい気がしたのだが、今までは自分たちの──翔陽のことで精一杯で、単に気づかなかったところもあるのかもしれない。
(ま、たまにはオレのほうが大人ぶったっていいじゃん?)

 風邪の抗体などあるはずもないので、しっかりとマスクをして、途中のドラッグストアで必要そうなものを買った袋をぶら下げ、藤真は牧の部屋のインターホンを押した。
 ──ピンポーン、ピンポーン
「牧ー、来たぞー」
 合鍵は持っているが、牧が居ることがわかっていながら勝手に上がるのもどうかと、一応声を掛けた。しかし眠っているのか、反応がないので結局合鍵を使って部屋に入ることにする。
 しばらく調子が悪いような言い方だったから、散らかっていることも覚悟していたが、玄関もダイニングキッチンも前に来たときとそう変わらず片付いていた。
 ひと安心したのもつかの間、居室のドアを開けると、目に飛び込んできた光景に思わず悲鳴のような声を上げていた。
「牧っ!!」
 腰にバスタオルを巻いただけの裸の体が、ベッドの掛け布団の上にうつぶせに倒れ込んでいる。どう見ても意識を失った風だ。藤真はぞっとしながら、がっしりとした肩を乱暴に揺さぶった。
「ばっ、おいっ、牧起きろ!」
「う、うん……ふじ…藤真!? もうそんな時間か!」
「時間とかどうでもいいだろっ! なんて格好で寝てんだ!」
 部屋の中は暖かいとはいえ、風邪をひいている人間の服装ではない、というか服を着ていない。チェストから牧の寝間着と下着を適当に持ってきて投げつける。
「オラ、とっとと服着ろ!」
 牧はのろのろとした動作で体を起こしながら、不思議そうに藤真を見上げ、言おうとしたこととは違う言葉を口にしていた。
「マスクしてるの初めて見た」
「風邪うつんないためにしてきたんだから、外さないからな」
 顔が見たいと言われても困るので予防線を張っておく。しかし牧の発言は予想外のものだった。
「マスクで顔隠してると、目もとの綺麗さがものすごく際立つな」
「……あー、ブスでも美人に見えるってやつな」
「美人はもっと美人に見えるぞ」
「てか、とっとと服着ろよ!」
「そうだ藤真、なんでそんなに怒ってるんだ?」
 ついマスクに気を取られてしまったが、そもそもそれを言おうと思ったのだ。
「風邪ひいてるくせに裸で寝てるやつがいたら、怒りたくなると思うんだけど?」
 加えて自分の立場を理解していないかのようなのんびりとした調子だ、苛立つのも仕方ないだろうと、藤真は秀眉を吊り上げた。
「仕方ないだろう、寝ちまったもんは」
 牧はあくまで悠々と、藤真の怪訝な視線の先──自らの腰のバスタオルに目を落とす。
「ただの朝勃ちだ、気にするな。……気になるようなら鎮めてくれてもいいぞ」
 バスタオルをめくろうとすると、藤真の視線が恐ろしく冷ややかなものになったので、大人しくパンツを穿いて服を着込んでいく。
「普通、熱あるとき風呂入るか?」
「お前が来るんだ、何が起こってもいいように綺麗にしておかないと」
 そう思って荒れていた部屋も急いで片付け、ゴミ出しもしたし、シャワーを浴びて髭も剃った。その結果、風呂上がりに力尽きて倒れたのだ。
「看病に来たんだから、それ以上のことは起こらねえよ!?」
 まるで返事をするかのようなタイミングで、牧の腹からギュウウと苦しげな音がした。
(タイミングいいやつ……)
 藤真は脱力し、ふっと息を漏らして苦笑した。案外元気そうなことへの安心感と、倒れている牧の姿を見たとき、一瞬ではあるが、本気で焦り心配した気持ちの行きどころのなさと。
「今日なんか食った?」
「まだなんも」
「お粥あるけど食べる? 食べたくない?」
「食べたい」
 即答だった。空腹なのは確かだが、もしそうでなかったとしても、藤真が何か用意してくれると言うなら迷わず食べたい。「オッケー」と軽い調子で頷いた天使はキッチンに消えたが数分後、電子レンジの音がして、おそらくは粥の入った器をトレーに載せて戻ってきた。
「できたぜ」
「熱そうだな」
 牧はいかにも期待した様子で湯気の立ち昇る器と藤真を交互に見るばかりで、差し出したトレーを受け取ろうとしない。望みはわかっている、今日のところは優しくしてやろう。
「仕方ねえなぁ。今咳したら殺すからな」
 藤真はまんざらでもない様子でマスクを顎の下にずらすと、粥をすくったレンゲにフーフーと息を吹き掛け、牧の口もとに持っていく。
 雲間から太陽が覗いたようだと眩しげに藤真の顔を眺めながら、牧は嬉しそうにそれを口に含んだが、即座に眉間に皺を寄せた。
「はっ…! 熱っっ! ……も、もうちょっと冷ましてほしいな」
「わがまま〜」
 言葉とは裏腹に振る舞いはごく素直なもので、今度は四回息を吹いて食べさせた。
「うん……ちょうどいい」
 牧は目を細め、満足げに頷く。
「んじゃもういっちょ」
「ああ……うまい……」
 牧があまりにしみじみと言うものだから、藤真は思わず笑ってしまった。
「どんだけ腹減ってたんだよ」
 さらにひとくち、牧の口に運んでやる。
「いや、腹も減ってたが……」
 それだけではない。なんともないように藤真と会話してはいるものの、体調が悪いのは事実で、常にはない体の怠さと、頭に熱気を帯びたもやが掛かったような感覚がある。そうして弱っているときに藤真に優しくされていることが、非常に滲みているのだ。至福と言っていい。
「そろそろいいだろ」
 藤真はマスクを元に戻し、顔の下半分を再び隠してしまう。
(マスクの藤真もこれはこれで……なんとなくドキドキするな……)
 牧は満足げな様子で器とレンゲを受け取り、残りは自分で平らげた。藤真はそれを見届け、空になった食器をキッチンに置きに行くと、水を入れたグラスを持って牧のそばに戻る。
「薬飲んどけ、あと体温も測っとくか」
 ローテーブルの上に出しっぱなしの薬と体温計を目で示す。
「ん」
 牧は素直に薬を飲むと、体温計を胸もとから服の中に入れ、腋の下に挟みながら言った。
「藤真知ってるか? フランス人は尻の穴で体温測るらしいぞ」
「で、牧は実はフランス人だからケツに体温計突っ込んでほしいって?」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ言うなよ」
 下らない話をしていると、さほど経たずに体温計の電子音が鳴る。
「三十七度三分。三十八度ないと全然楽な感じするな」
 牧はいかにも楽観的に言ったが、藤真は首を横に振る。
「そうやって油断するから治んねーんだろ。微熱があるんだから大人しくしとけ」
「微熱って言葉、なんかやらしいな……」
 藤真は何も聞かなかったかのようにキッチンへ行って戻ってくると、冷たい水で濡らしたタオルを牧の額に載せ、満足げに笑った。
「よし、だいぶ看病感出たな!」
 得意げな藤真が非常に可愛らしく思えて、病んでいるはずの牧も楽しくなってきてしまう。
「看病って、他になにすればいいんだ? 部屋も片付いてるし、体拭くとか? 風呂入ったんだからいらねえよな」
 牧は大真面目な顔で首を横に振った。
「いや、体拭いてくれ」
「なんで?」
「人間は寝てるときコップ一杯分の汗をかくんだぞ」
「なにさっきから、雑学おじさんみたいな。絶対エロ目的だろ。まあいいや、病人だから優しくしてやるよ」
「ハロウィンのときのナース服が洗って取ってあるんだが」
「着ねえよ! ったく、調子乗りやがって。だいたいあれ使い捨てじゃね? あんなペラペラの嘘くさい」
「なに言ってるんだ、嘘くさいほうがエロいじゃないか」
「わざとだったのかよ……」
 雰囲気があれば細かいことは気にしないのかと思っていたが、逆にこだわりだったらしい。まあいいや、と小さくぼやいて藤真は何度目かのキッチンに歩いた。
 体を拭くために湯で濡らして絞ったタオルを持って戻ると、牧は上半身裸になっていた。
「……拭かれる気満々だな」
「ああ、拭いてくれ」
「顔は自分で拭いときな」
 タオルを渡し、エアコンの温度を少し上げる。牧は顔を拭きながら気持ちよさそうに呻いた。
「あ゛〜……!」
「おっさん……」
 タオルを取り返し、首から胸、腹へと、褐色の肌の、美しく引き締まった筋肉の隆起を堪能しながら、大切な彫像でも磨くように丁寧に拭いていく。手指の先から肩に掛けても同じようにした。清拭の正しい順序も方法も知らないので、思いついたままだ。
「ああ、気持ちいいな」
 藤真の想像した通り、下心由来の提案ではあったのだが、清涼感があって想像以上に気持ちのいいものだった。そして多少辿々しくても、藤真が甲斐甲斐しく自分の世話を焼いている状況が嬉しい。一方的に面倒を掛けたい思いなど普段はないのだが、今日くらいは許してほしい。
「人がいるっていい……」
「風邪くらいならいいけど、倒れても誰も気づかないもんな、一人暮らし。案外やばいな」
「でも春からは俺もひとりじゃなくなるから安心だ」
 高校を出たあとはふたりとも東京の大学に進むことになっている。利便性もあるし、当然私的な理由もあって、ふたりで一緒に住もうかと初めて話をしたのは夏の終わりのころだった。
 幸せそうに目を細める牧とは打って変わって、藤真は表情を動かさず、素っ気なく言った。
「そうだな、とりあえずは」
「とりあえず!?」
「いいと思ってたのに、一緒に暮らしたらゲンメツとか結構あるらしいぜ」
「脅すのはやめてくれ、俺は病人なんだぞ」
 病は気からというのは本当だと思う。牧は体調の急激な悪化を感じてぶるっと身震いし、額のタオルを押さえた。
(むしろオレのほうが幻滅されないか心配なんだが。お育ちが違いそうっていうか)
 藤真は牧の腕を持ち上げて腋の下を拭く。
「そこは別にいいんじゃないか?」
「いいわけねーだろ。……もしや、恥ずかしがってる?」
 機嫌をよくし、執拗に牧の腋窩をタオルで拭き、そして凝視した。
「そんなに見ないでくれ」
 牧は恥じらって強引に腕を下ろしてしまった。
「ちんぽは見せつけてくるくせに?」
「ああ、それはむしろ見てほしい……」
「まだ早えーよ、背中拭くから裏返って」
 ズボンを下ろそうとした牧の手を掴んで咎め、うつぶせになるよう促す。
「裏がえる……」
 牧は額のタオルをサイドテーブルに置き、のろのろと藤真に背中を向けた。
 広い背中に、藤真は白いタオルを滑らせる。無防備に向けられるそれに、つい抱きつきたくなってしまうが、その先の展開が簡単に想像できるのでやめておく。
「よし、上半身終わり」
 言うや否や牧は仰向けに姿勢を戻し、促してもいないのにズボンを脱ぎ捨てた。わかっていたことだが、体の中心は盛大にテントを張っている。あえてそれに一切のコメントをせず、藤真は牧の膝を立てさせ、太腿から膝、脛、足と拭いていった。
 藤真が牧に奉仕している格好ではあるが、体を投げ出してされるがままになっている牧の様子がそこはかとなく愛らしく感じられ、案外と楽しい。
「よし、下半身も終わり!」
「パンツの中がまだだぞ」
「オレはそういうサービスをしに来たわけじゃない」
「腋の下を拭いて股間を拭かないのはおかしい」
 牧は真面目な顔で、いかにも正論だと言わんばかりだ。確かにそうなのだが、牧の目的もよくわかっている。藤真は渋々といった体で頷いた。
「チッ、仕方ねえ」
 窮屈そうにしているボクサーパンツを脱がすと、自由を奪われていた男根が、不調とは思えない様子で元気よくそびえ立つ。見慣れたものとはいえ──否、だからこそ、そんな状態を見せつけられて不埒なことを考えるなというのも無理な話だった。
「拭くっつってもなあ……」
 下着に覆われていた下腹部と、太腿の内側から脚の付け根を普通に拭き、陰嚢をタオルに包んでやわやわと撫でる。続いて陰茎をタオルに包んでみたものの、それを握った手を上下させるしか思いつかなかった。
「ああ、藤真……大胆だな……」
「お前が拭けって言ったんだろ!」
 ちらちらと牧の様子を窺いながら、どうしたものかとタオル越しの亀頭部を手のひらでくるくる撫でる。決して薄くない布越しにも牧の熱が伝わってくるようだ。
「藤真、服脱いで、こっちに尻を向けて俺を跨げ」
「はっ? なんでっ!?」
「そんな嫌がらなくたっていいだろう。この前だって、お前が上になってシックスナインしたじゃないか」
「いや、お前体調は……」
「だからじゃないか。俺が寝たままでもエロいことができるように、顔騎(がんき)みたいにしてほしい」
「顔騎言うなっ、通じねーからっ!」
「通じてるじゃないか。病は気からっていうだろう、お前がサービスしてくれたらきっとすぐ元気になる」
「元気になるのは下半身だろ」
「男の健康は下半身からだぞ」
「なんなんだよさっきから……」
 仕方なさそうにしながらも、藤真は素直に服を脱ぎ始める。
「ふ、藤真……!」
 自分で要望しておきながら、こうもあっさり受け容れてもらえるとは思っていなかった。今日の藤真は本当に優しい。天使だと思う。
「ソックスは何色だ?」
「グレー」
「そうか、なら脱いでいいぞ」
「お前さあ、その歳で白ソックスフェチなのなんでなんだよ?」
「好みに年齢は関係ないだろう」
「……パンツも脱ぐんだよな?」
「当たり前だ」
「マスクは外さねえよ?」
「ああ、わかってる」
 藤真は衣服も下着も靴下も脱いで、マスク以外は全裸になった。さすがにおかしい格好ではないかと思ったが、マスクを外して風邪がうつっても困る。牧からは顔が見えない体勢になるのだ、さほど気にすることでもないだろう。
「よっ……と」
 リクエスト通り、牧に尻を向ける格好でベッドに乗ると、牧が体を上にずらしたため、藤真の顔は牧の股間よりもう少し下の位置になった。
(どのみち今日はマスクがあるから舐められねえし……)
 タオルの掛かったままの性器を再び手の中に弄ぶ。
 牧は枕に肩甲骨を乗せるようにして頭を上げ、藤真の尻と股ぐらを背後から至近距離で眺める格好だ。白く小ぶりで可愛らしい、ふたつの小山の狭間に、恥じらうように閉ざされた蕾が見える。そのまま割れ目に視線を沿わせて下へいくと、ふっくらと愛らしい陰嚢がぶら下がっていた。
「ああ……いい眺めだ……」
 うっとりしたような声とともに、敏感な箇所に熱く湿った息を感じ、藤真は身をすくめる。行為の際に幾度も見られている場所ではあるが、凝視されるとやはり恥ずかしい。
「お前、熱でキマってんのかよ?」
「そんなことないと思うぞ」
「じゃあもう本格的にガチホモだな」
「いまさらじゃないか?」
「いや、顔が好きとかはまだ納得するけど、男の股を見て喜んでるのはっ…ぁんっ!」
 両の手で左右の太腿から尻へと撫で上げると、敏感に反応して白い体が波打つ。
「お前は尻も玉もセクシーでかわいいぞ」
 大きな手で双丘を掴まえ、明確に快楽をもたらすように、指先をいやらしく蠢かせながら揉みしだく。
「はぁっ、んっ…んぅっ…」
 悶えながら、細い腰が揺れるのが堪らない。誘っているようにしか見えなかった。蠱惑的な陰部に、鼻先に体温を感じるまで顔を近づけ、ふんふんと鼻を鳴らす。
「っ! やだっぁっ…!」
 牧の動作の意味を理解して、藤真は赤面する。牧の手は相変わらず下肢を動き回っている。
「藤真、石鹸のにおいがするな。ちゃんとヤる気だったんじゃないか」
「お、オレの体臭はせっけんのにおいなんだよ、知らねーのかよっ」
「それは……確かにそんな気も……」
 藤真の希望もあって、基本的に体を綺麗にしてから行為にいたるため、あまり体臭を感じたことはなかった。それでも、藤真も自分と同じにおいがするのかと知って密かに嬉しくなった事象もあるのだが、当人からは歓迎されない話題に思えるので黙っておく。
 尻肉を両横に割り開き、露わになった秘所に唇を押しつけ、音を立てて何度も吸いつく軽いキスをした。
「あっ! やだっ、あんっ…!」
 すっかり熱を帯びた体は、些細な刺激にも敏感に感じてしまう。大胆な行為への羞恥心もあるだろう。牧はそこを空気に晒し、ぴちゃぴちゃと音を立てて舌の腹で撫で回す。粘膜が誘うように蠢いた。
「ふあ、ぁあっ…、やめっ…」
 尖らせた舌を突き立てると、ひくりと収縮して求めるように舌を引き込む。体と裏腹な言葉もまた愛おしかった。唾液を送り込みながらぐっと奥まで舌を差し込み、弾力の強い肉の狭間をぐにぐにと好き勝手に蠢かせ、濡らし、ほぐしていく。あるいは音を立ててキスをして、さも旨いもののように啜った。
「あぅ、あぁっ、ばかぁ…」
 藤真はもはやタオルを取り去って、牧の陰茎を直接手指で扱き、撫で回していた。ただ、状況の恥ずかしさと自由のきかない体勢から、牧にそう明確な快感は与えられていない気がしていた。
 牧がサイドテーブルに手を伸ばしている気配を察すると、ほどなくして陰部に細い先端部が差し込まれ、潤滑ゼリーが注がれる。この先の展開が決まってしまったようなものだった。
「あんっ、牧っ……!」
 ごつごつとした節を感じさせる指が入ってきて、舌のような覚束ないものではない、明確な摩擦の感触を与えながらそこを慣らしていく。粘性の強い、いやらしい水音がしきりに聞こえていた。
「あぅっ、あっ…」
(看病に来ただけなのに……)
 そうは思うが、内部を掻き混ぜほぐされていく感触も、しきりに尻にキスされることにも敏感に感じてしまう。若い肉体は直接的な快楽に抗えず、さらなる刺激を求めて期待に震えていた。
「なあ藤真、物足りないんじゃないのか?」
 牧は愉しげに目を細める。指を抜き、尻肉を左右に開いて拡げた陰部は、赤く色づいて物欲しそうにひくひくと震え、よだれを垂らしている。
「ああっ、もうっ…!」
 牧も、そして自分も本当に仕方ないとは思うのだが、互いに同意し合っている状態で、快楽への誘惑を跳ね除けることなど不可能だった。
 藤真は牧の上からいったん退くと、体を反転させて牧と向き合い、その腰を跨いだ。ニッと満足げに笑った相手を睨みつけて、サイドテーブルの棚からコンドームを掴み取り、興奮しきった牧の陰茎に被せる。もはや躊躇する意味もない。逞しい肉杭の根元を支えて腰を落とし、濡れた淫部に何度か擦りつけ、自らの内に導いていく。
「あぁあっ…んんっ…!」
「あぁ……藤真……」
 藤真の肉壷に呑み込まれながら、牧はうっとりと、浸るように呟いた。体調のせいで頭がふわふわする覚束ない心地が、いつもとは少し異なる危うげな快感をもたらす。
 先ほどまで(口先だけだが)嫌がっていたというのに、藤真は打って変わって積極的に快楽を求めるように、牧を咥え込んだまま腰をうねらせる。結合部から強烈な快感を与えられながらも、妖艶な動作と、マスクで顔の半分を覆った姿はどこかリアリティに欠け、卑猥な夢かアダルトビデオでも見ているような気分になっていた。
「あんっ、あぁっ、牧っ…」
 体調の悪い牧を相手に長々と行為を続けるべきではないだろうから、戯れるより性急に終わらせてしまおう、というのが藤真の意図だ。
 今までは会える日が限られていたことと、もちろん互いの欲求もあり、終わりを惜しむように長く行為を愉しむ傾向だった。しかし、あまりに忙しかった自分の役目ももうすぐ終わる。今にこだわらずとも、これからいくらでも機会はあるのだ。
「ふじま…」
 牧の目つきはいつもの行為のときの獰猛なものとは違って、妙に穏やかだ。藤真は身を屈め、牧の顔を覗き込む。
「牧、気持ちい?」
「ああ、いいぞ、最高だ……」
 いいのならそれでいいのだが、いつもと様子が違うのは熱のせいなのだろうか。そんな牧を相手にすることにもはや罪悪感もなく、藤真は貪欲に、そそり立つ男根を自らの感じるところに擦りつけ、体の内奥で快楽を貪った。
「牧、まきっ…あぁっ、あんっ…」
 自慰行為を見られているようで恥ずかしくもあったが、牧も正気ではないようだし、ことが終わればきっと鮮明に覚えてはいないだろう。マスクのせいで息苦しく、ときおり軽い目眩のような状態が訪れるのが、いっそう陶酔感を煽った。
 牧は手を伸ばし、藤真の胸を撫で、ツンと尖った乳首を指先で摘み上げる。
「ひゃっ! ぁんっ、それ、だめっ…♡」
 指と爪の先でひねり、転がし、押し潰す。刺激を与えるたび、藤真の中がうねり、締まって、悦んでいるのがわかる。自らを縛る感触に浸りながら、夢中でそこを弄んだ。
(しかし藤真、どうして綺麗な顔を隠して……)
 どうしてもなにも風邪の予防のためだが、今の牧は正気ではない。全裸にマスクのみを着用した姿は、牧の目には奇妙に背徳的で、卑猥なものとして映っていた。
(もしや身元を隠してエロいことをしなきゃならない、なにかワケありなのか? 藤真……!?)
 朦朧とする頭に芽生えてしまった妄想は止まらない。牧はついにじっとしていられなくなり、腰を上下に動かした。
「藤真、あぁ、藤真ッ!」
「あふっ、ぁんっ! まきっ、すごっ…♡」
 ベッドのスプリングを使って下から突き上げる動作が、控えめなものからだんだんと激しく、速くなっていく。ほどなくして、牧が音を上げた。
「藤真、だめだ、出るっ…」
「っん、あ、いいよ、牧っ、まき…!」
 呼吸を合わせ、激しく体をぶつけながら、ふたりで快楽を作り育んで、やがて解放する。
「──ッ!!」
「あぁっ、あぁぁぁっ……♡」
 牧はゴム越しにではあるが藤真の中に射精し、藤真はそれを感じ取ったように錯覚しながら、陶然と天井を仰ぎ、細い体を反らせてしきりに痙攣させた。至福だった。自分がここに来た目的などすっかり忘れ去り、動きを止めても何度も襲い来るかのような快楽の波に身をさらしながら、萎えた性器からさらさらとした体液を吐き出していた。
 喘ぐような呼吸を繰り返す藤真のマスクが小さく膨らんで、萎んで、また膨らんで──牧はしばらくの間、それをぼんやりと眺めていた。
「ふーっ……」
 絶頂の感覚が落ち着くと、藤真は細く長く息を吐き、牧のコンドームの端を押さえて自らの体を持ち上げた。慎重にそれを外し、端を縛ってゴミ箱に捨てる。牧の股間を拭いてやろうと、元は額に載っていたタオルを手にすると、次の瞬間には飛び起きた病人に抱きつかれ、体を巻き込むように抱えられてベッドに押し倒されていた。
「はっ!? 牧!?」
 牧は有無を言わさず、生身の自らを藤真の中に再びねじ込む。
「おぅふっ……藤真っ……」
 たかがゴム一枚のなんと厚かったことか。互いの秘密の場所が、隔てるものなく擦れ合う至上の感触に、思わず情けない声が漏れてしまった。
「わぁあっ!? ウソッ、一発目ゴムつけた意味っ!」
「大丈夫、大丈夫だから心配するな、俺に任せとけ、お前の面倒は俺が見るからっ……!」
「全然大丈夫そうじゃねえけどっ!? ひゃんっ♡」
 牧はなおざりに藤真の乳首を摘みねじり上げながら、獣のように腰を使いだした。
「あぁ、藤真っ、ふじまッ…!」
「ぁんっ、まき、熱い…っ」
 耳に息を吹き込まれ、名前を呼ばれながら強く抱きしめられると、互いの体温がひとつになるようだった。そして体内を直接抉る、傲慢な肉棒の感触だ。
(牧の生ちんぽ、熱いよぉッ…♡)
 藤真はなすすべもなく──かどうかは怪しいところだったが、牧の勢いと強烈な快楽の気配に負け、もうしばらく好きにさせることにする。

「っふぅ……!」
 藤真の中に精を放った牧は、深く息を吐きながら、ぐったりと藤真に凭れた。
「藤真……すまん……」
「えっ!?」
 藤真は耳を疑った。行為のあと、牧が沈んだ様子になるのは珍しいことだ。ふたりの行為は基本的に合意のものだし、謝罪らしき言葉があったとしても、もっとずっと軽い調子だった。
「お前がせっかく来てくれたのに、満足に相手できなくて……」
「いや大丈夫、充分相手されたし、むしろこれ以上されたら困るっつうか」
 藤真の声が上ずる。牧に気を遣ったわけではない。事実だ。
 萎れた牧のものが体を抜けていく。もう使わないであろうタオルで今度こそ牧の股間を拭き、垂れた精液がベッドを汚してしまう前に自分の尻に当てがった。
「お前は風邪がうつる危険をかえりみず看病しにきてくれたのに……俺はやらしいことばかり考えて我慢できなかった……」
 牧はひどく落ち込んだ様子で藤真の肩に額を押しつけてくる。
「賢者タイムか? 珍しいな」
 射精のあとに落ち込んだり苛立ったりする時間が訪れることは、藤真にとっては珍しくなかったが、牧にはあまりないことだった。ただ、自己処理したあとなど、全く起こらないわけではないらしいので、日ごろは強すぎる性欲に掻き消されているのだろうと藤真は思っている。
「そうかもしれない。単に体調悪いからだと思うが……」
「まあそう落ち込むなって。今日はもう休んで、体調整えて練習戻れよ」
 藤真は穏やかに言って、牧の背中をぽんぽん撫でた。
「そう……そうなんだ。冬は絶対獲りたいから、練習を休みたくなかった」
「獲りたいじゃなくて、獲る! だろ? 常勝なんだから」
「ああ、そうだな。獲る……」
 そしてお前に捧げるんだ、とは続けずに、ひとまず心の中に仕舞っておく。
 ウインターカップを持ち帰って「俺たちの次に強かったのはお前たちだ」と藤真に伝えたい。あの日からずっとそんな想像をしている。そんなの嬉しくないと、ふざけているのかと怒られてしまうかもしれない。だから実際に伝えるかどうかはまだわからないが、想いは強くあって、絶対に勝ちたい、勝たなければならないと感じている。
 冷たい手が額に触れた。
「しんどい?」
「え?」
「具合悪そうな顔してた……かな」
「ああ、いや」
 行為のせいでどっと疲れたところはあるが、風邪の怠さはもはや感じない。柄にもなく、不慣れな感傷に浸ってしまっただけだ。
「高校最後の大会だ。しっかり治して、楽しんでこいよ」
(がんばれって、言わないんだな)
 小さな引っ掛かりを感じながらも、藤真の言葉の真意を、その穏やかな微笑の意味を考えられる頭はなかった。
「大丈夫、俺の一番の愉しみは勝つことなんだ」
 ただ眠りに落ちる寸前、そんな言葉が口から零れていた。

ダラテン 3

3.

 牧の部屋の玄関に入ると、靴箱の上に小さなツリーが置いてあった。仕舞い忘れているわけではなく、今日のために敢えて置いているのだろう。まめな男だと思う。ツリーを見つめて動きを止めていると、後ろから抱き竦められた。
「寒かったな」
「うん……でも」
 こうして抱き締められてるとあったかいよ、と言いたいところだったが、藤真は思わず笑ってしまった。
「雪が付いてて抱き締められてもあんまりあったかくないから、とりあえず脱ごうぜ」
「そ、そうだな、すまん」
「別に謝ることじゃない」
 アウターを脱いで、示されたハンガーに掛けると、藤真はバッグの中から色付きのビニール袋を取り出した。
「あのさ、一応クリスマスだから、プレゼントがあるんだ」
 プレゼントを贈る約束はしていなかった。たまたま面白いものをみつけたので、タイミング的にクリスマスプレゼントとすれば丁度いいかというくらいの乗りだ。
「!! 俺もあるんだ。ちょっと待っててくれ」
「じゃあプレゼント交換だなっ!」
 忙しいだろうと思って期待はしていなかったが、何か用意してくれていたならそれは嬉しいことだ。にこやかに待つ藤真とは対照的に、プレゼントであろう黒い包みを持ってきた牧は浮かない顔をしている。
「なんでちょっと凹んでんだよ」
「いや……お前がプレゼント用意してると思ってなくて、大したもんじゃないからちょっと後悔してきた……」
 表情だけでなく、動作もひどく自信なさげだ。牧でもこんな風になることもあるのだなと、どこか冷静に、不思議な気分でそれを眺め──意地悪く笑った。そんな風に言われたら、余計に気になるではないか。
「オレだって大したもんじゃねーんだから気にすんな。包装もしてないしな。オラ、受け取れ」
 雑貨屋で買ったときの袋に入ったままのそれを、敢えて乱暴に押し付けた。
「ありがとう。……じゃあ、これ、受け取ってくれ」
 牧が差し出したものは、赤いリボンの巻かれた黒い包みで、受け取ったときに中に箱が入っている感触があった。
「ありがと! なにかな〜」
「これは、入浴剤か? いや、これは……!」
「ローション風呂のもと。湯船に入れるとローションになるらしいぜ」
「なんという……!」
 牧は痛み入った様子で目を伏せ、弛む口元を手で覆い隠した。想像しただけでいやらしく、大変画期的なアイテムではないか。
「お前って、ローション好きじゃん?」
「必要だから使ってるだけだ。だが、これは素晴らしいもんだな……!」
 牧は表情を明るくして、爛々と目を輝かせている。至極わかりやすい反応に、藤真も満足げに頷いた。
「おう。丁度寒いし一緒に入ろうぜ。……てかこれテープ貼りすぎだろ! こんなにしなくても」
 藤真はまだ牧からのプレゼントを開封できていなかった。リボンは簡単に解けたが、その下の包みはちょうど藤真が渡したようなしっかりした素材のビニール袋で、中身のサイズに合わせて畳まれ、太く透明なテープで妙に念入りに封印されているのだ。
 どうにか袋の口を開け、中から細長い箱を取り出すと、今度は藤真が口元を覆う番だった。
「ぶっ、お前っ、さあ……」
「前に電話したとき、持ってないって言ってただろう」
 藤真の目はパッケージの窓越しに見える勇姿に釘付けだ。
 それは猛り勃つ男性器の姿をした張形(ディルド)だった。ご丁寧にも牧を彷彿とさせる褐色をしている。牧の肌の色はサーフィンによる日焼けかと思われたのだが、地黒も強いようで、冬場の今でも充分に色黒だし、局部の色素も濃かった。
「これを、オレに、使えって?」
「今月みたいに殆ど会えないときだってあるだろう。そんなときはこれを俺だと思って……」
 戸惑いと気恥ずかしさとで、唇の端がにやけるように吊り上がってしまう。手放しで喜びはしないが、興味は津々だ。
 箱を開け、中からシリコン製の張形を取り出す。根元には陰嚢もあり、その裏には壁や床に固定するための吸盤が付いている。血管や皺まで刻まれたリアルな造形をまじまじ眺め、表面を押し、ぐにぐにと握ってみる。
 その様子を眺めているだけで、牧はすでに自分の買い物に満足していた。
「お前の、もうちょっとでかくねえ?」
「わ、わかるのかっ? 藤真?」
 藤真の発言に牧は照れながら返し、
「そりゃあ、まあ……?」
 藤真もまた照れながら答えた。頬を染め、初々しく、可憐ですらある表情を浮かべる、その手にはしっかりと男根が握られている。堪らない光景に、牧の股間がギュンギュン疼く。
「ジャストなサイズはなさそうだったし、やたらでかいやつで慣れて、俺のが物足りなくなると困るからな」
「……いろいろ考えてんだな」
 袋の中にはまだ何か入っていた。続いて取り出したものは小さなボトル──アナル用のローションのボトルだった。
「ああ、うん、そうだよね……」
「ディルドだけじゃ使えないからな」
 牧は力強く言うと大らかな表情で笑った。よほど張形を使ってほしいのか、単に思いやりに溢れているのか。自分で自分のためにそれを買ったかというと非常に微妙なところなので、反応こそ控えめにしてしまったが、プレゼントとしてはありがたいのかもしれなかった。
 見落としそうになったが、袋の底には小さな封筒が残っていた。クリスマスのメッセージカードかと思ったが、それにしては重みがある。開けると中から鍵が出てきた。
「うちの合鍵だ」
「!!」
「近くに寄ることがあったら、勝手に家に入ってていいぞ」
「いや、帰ったら他人がいるかもとか、気が休まる場所がねーじゃん」
 藤真は目を瞬いた。照れているわけではなく、率直にそう思うのだ。
「そうか? 藤真がいるかもって思いながら家に帰るの楽しいと思うが」
「帰ったらセックスできるかもって? 勝手に上がり込んで、なんか悪いことしてるかもよ?」
「悪いこと? オナニーとかか?」
 藤真は憮然として閉口したが、牧は気づかない様子で続ける。
「別に俺は悪いこととは思ってないが、『こんなにして、いけない子だな』みたいなのあるだろう」
「いやなにそれ、知らないし」
 少し会わない間に妄想力が逞しくなったらしい牧に、藤真はすげなく言い放つ。
「それか裸にエプロンでいて、ごはん? お風呂? それとも」
「お風呂! しょうもないこと言ってないで、寒くならないうちに風呂入ろうぜ」
 暖房を入れたばかりの室温はまだ低かったが、外を歩いて帰ってきてすぐなので体感は暖かい。脱衣所に向かおうとする藤真の腕を、牧は後ろから掴んで引き止めた。
「これ使うんだろう? 湯船に湯を溜めてからのほうがいいんじゃないか?」
 これ、と言って藤真から貰った入浴剤の袋を示す。
「体洗ってるうちに溜まるだろ」
「それもそうか」
 藤真の言葉に納得したのと、いい加減に触れ合いたいのとで、あっさり頷いて脱衣所へと移動した。服を脱ぎながら、互いにすでに昂ぶっていることを視界の端に捉えて密かにほくそ笑み、二人でいそいそと浴室に入る。
 牧は浴槽用の蛇口をひねり、勢いよく湯を出した。
「とりあえず普通に溜めていいんだよな」
「うん。お湯溜めてからこれを混ぜる」
 入浴剤のパッケージをシャンプーなどの傍らに置くと、張形が目に入った。
「こいつも持ってきたのかよ」
「使い方をレクチャーしようと思って」
「んなもんわかるだろっ!」
「本当か?」
 牧の目がいやらしく細められ、藤真は自らの失言に気づく。
「と、とりあえず頭洗おうぜ……てか、泊まるつもりしてたのにシャンプー忘れたなー」
「そこにあるの使って構わんが、俺のだと合わないかもな」
「んーまあ大丈夫だろ」
 少し風が吹けば柔らかに靡く藤真の髪と、硬くしっかりとした牧の髪質が違うことは明らかだったが、今日のところは借りることにする。シャワールームの要領で、各々立ったまま髪を洗った。
「ふう」
 トリートメントを流し、俯けた顔を上げながら前髪を後ろに撫で付けた藤真を、牧は待ちくたびれたとばかりに背後から抱き締める。なんともなしに、ほとんど吐息のような呻き声が漏れた。
「あぁ……藤真、あったかいな……」
 濡れた肌のしっとりとした感触とともに、藤真の体温がダイレクトに伝わってくる。洗いたての髪から自分と同じシャンプーのにおいがすると、彼が自分のものになったかのようで、堪らない幸福感が込み上げた。色黒の太い腕の巻きつく白い体はとても綺麗で儚いものに見えて、それが自らの腕の中に捕らえられていることに、興奮するのと同時になぜだか切ない気分にもなった。早急に快楽を貪りたい獰猛な衝動と、じっくりと温もりを味わっていたい穏やかな欲求とで、牧の内心は非常に混沌としていた。
「久しぶりだね」
 藤真が体を反転させてこちらを向く。掻き上げた前髪はいくらかは横に落ちていたが、それでも普段は隠されている眉と目元がすっかり露わになって、恐ろしいほど整って見える。睫毛の烟る瞳を細め、微笑する表情に誘われて、吸い寄せられるようにその唇にキスをしていた。道中で短いキスはしたものの、この感触も随分と久しぶりだ。
「んっ……」
 互いに唇を吸い、戯れるように舌を触れ合わせ絡める。自分たちの行為を確認するように、何度も音を立てて唇を重ねながら、擦り寄せた下腹部では上を向いた二人の男根がぴたりと寄り添っていた。それもまた堪らなく愛おしくて、牧は唇を離してもまだ腰を押し付け、互いの腹の間で仲睦まじくする二人の分身を眺めていた。満足げな表情に、藤真は吹き出しながら提案する。
「寒くなんないうちに体洗おうぜ」
「泡タイムだな!」
 楽しげに言って、ボディタオルにソープを盛大に泡立てる牧はまるで少年のようだ。
「……お前が男子寮入んなくてよかったって、ちょっと思った」
「こういうことできないからか?」
 白い体を軽く擦って泡を載せていきながら、牧は不思議そうに藤真を見返す。
「寮の風呂って共同だろ? なんかお前って、ホモに襲われそう」
 ときどき妙に可愛らしいところを出すから、とは言わないでおく。
「そんっなことは……」
 牧は軽く狼狽えながら、それよりもっと恐ろしい可能性に思い当たる。
「そんなこと言い出したら、藤真だってそうだろう」
「オレはホモにはそんなにモテねえよ? その担当はお前だろ」
「そんな担当になった覚えはっ…むぅ…」
 キスで言葉を奪われると、会話の内容などすぐにどうでもよくなってしまった。藤真は顔が小さいから口も小さい。唇で、舌で触れる儚い感触が堪らなく愛らしく、そして美味に感じられ、飽きもせずに唇を食んでいた。
 泡でするすると滑る体を抱き締め、胸を、腹を、擦り寄せながら、至るところを手指で撫で回す。藤真もまた同じようにしてくるのが愛おしい。
「あぁっ…」
 大きな両手が左右の尻肉を掴み、明確に快感を与えるようにいやらしく揉みしだくと、藤真はまんまと声を上げて身を捩った。
「んっ、あんっ」
 指は体の中心に迫っていき、たっぷりと泡を纏って肉の狭間をなぞる。まだきゅっと閉じた窄まりは、触れるたびに求めるように波打って、じきに牧の指を呑み込んでしまった。
「ふぁ、あ…!」
 藤真は逞しい首にしがみつき、指を動かすたびに堪らない様子で声を漏らして牧の鼓膜に快感を与える。
(やっぱり本物がいいな……)
 万能なはずの妄想も、目の前で実際に見せつけられる媚態と、肌に直接感じる感触とは比べるまでもなかった。しかし欲求は飽くことを知らない。
 牧はしばらく放っていた張形を手にして、藤真に見せつけるように振った。シリコンの竿がしなって揺れる。
「んなもん見せつけられたって、別に見慣れてるし……」
 そのはずであるし、相手はただのゴムの塊だとも思っているのだが、頬や胸にぴたぴたとくっつけられると、無性に気恥ずかしく、ひどく卑猥な気持ちになった。
「ぁっ!」
 張形の先端を乳首に押し付けて小刻みに揺らされる。繊細さに欠ける感触ではあるが、視覚的な興奮は大きかった。
 牧は改めてボディソープを手に取り、張形を扱くように洗って、二人の体の泡と一緒にシャワーで洗い流した。
「藤真、あーん」
 綺麗な顔に、その唇に雁首を押し付ける絵面だけで堪らないものがある。自分のものではここまで至近距離では見られない。
 藤真は挑発的に微笑すると、見せつけるようにいやらしく舌を絡めてそれを口に含む。牧の喉が大きく鳴った。気分よく唇を窄めると、張形はピストン運動をしたり、口腔内を掻き回したりなど好き勝手に動き回る。
「んんっ…」
 藤真も興奮しないわけではないが、あくまでお遊びに付き合ってやっているという気構えだ。牧がこの営みを眺めて非常に興奮していることがわかるので、満足感はあった。
 気が済んだのか、口の中から張形が抜けていく。
「藤真、俺のも…っ」
 鬼気迫るように言った牧自身は、もはやはちきれんばかりになっていた。
「最初からそうすりゃいいのに」
 藤真は牧の前に膝をつき、大きく口を開けてそれを頬張る。作り物とは全く違う、牧の肌の感触と熱と脈動を、口腔と舌とで感じると、やはりひときわ興奮した。
 牧は張形と藤真の顔との2ショットがすっかり気に入ってしまったようで、しきりにそれで頬を撫でてくる。
「なに? 3P願望?」
「ええっ!? いや、そんなつもりは……全く…ッ」
 ただ視覚的に好いと思ってしていただけだったので、他の登場人物を出してこられると狼狽えてしまう。それから男性器越しの藤真の上目遣いの破壊力にやられ、再び咥え込まれると口唇での奉仕に低く喘いだ。
「あぁ…藤真……っ」
 藤真は左手で牧の陰茎の根元を支え、顔を前後させてピストンの動作をしながら、突きつけられたままの張形を右手で握った。口に含めば違いは明確だが、握ったサイズ感はまさしくそれで、手を上下させて扱くと、偽物だとわかっていても興奮してしまう。
「やべー、ほんとに二人とやってる気分になるなこれ。こいつ誰だろう。紳二?」
 藤真は張形を凝視して言った。
「シンジ?」
 牧が不思議そうに聞き返す。
「牧紳一と紳二」
 藤真は牧の股間に聳えるものと、張形とを順に指して言った。
「そういうことか! 紳二も健司のこと好きって言ってるぞ!」
 牧は藤真の頬にぐいぐいと張形を押し付ける。
「クッソうぜえ〜〜!!」
 ふざけ合ってゲラゲラと笑っているうち、浴槽から湯があふれ出して二人の足に熱いくらいの感触を与えた。
「おい、もういいんじゃね? ぶち込むぞ!」
 促されて入浴剤のパッケージを手にした牧は、思い切り眉間に皺を寄せた。
「いや、お湯は浴槽の三分の一って書いてあるぞ。減らそう」
 事前に気づいてよかったところではあるが、パッケージの説明書きを読む牧の顔がとても同級生には見えなくて、申し訳ないが少し笑ってしまった。
「お湯そんなもん? まあ二人で入ったら増えるか」
 湯桶で浴槽から湯を掻き出しながら、ついでに互いの体に浴びせた。
「よし、いざ投入!」
 浴槽全体に行き渡るよう、円を描きながら白い入浴剤を注ぐ。柚子のよい香りが漂った。
「そして手早く掻き混ぜます、と。牧はそっち側半分な。混ぜろーっ!」
 二人横並びで浴槽に向かって床に膝をつき、湯の中に腕を突っ込んで、藤真の号令に合わせて思い切り掻き混ぜる。
「はっ……これ、意外と疲れる……」
「そうか? 余裕じゃないか?」
「もちろん余裕だけど???」
 そんなことを言い合いながら混ぜていると、浴槽内の抵抗がだんだんと強く、重くなっていき、ついには突っ込んだ腕から糸を引くほどの、半透明に白く濁った粘液になった。
「すげー、ほんとにローションになった」
「できたな、入ろう」
 粘性の湯を手に掬い取っては湯面に垂らして遊んでいる藤真を尻目に、牧はそそくさと立ち上がって浴槽に足を入れた。いかにも待ちきれないといった様子だ。
「滑んないようにな」
 牧の今年度の公式戦は全て終わっているとはいえ、こんなところで怪我をしては堪らない。注意深く浴槽に腰を下ろし、外見年齢相応の声を上げた。
「゛あ〜〜……」
「おいおっさん、気にしてんのかしてねーのかどっちなんだよ」
 牧はローションの湯を掬って自らの肩や胸に浴びせると、頬を染めながら、真剣な面持ちで藤真を見つめた。
「おい藤真、これやばいぞ。お前も早くこい」
「へーい。向きはどうがいいんだろ?」
 向き合うか背中を向けるかしかないだろうが、藤真は決して広くはない浴槽を眺めた。
「普通にこっち向きでいいだろう」
「普通とか言うほど風呂でエッチなことしてきてないからな〜」
「いや、別に、俺だってないぞ……」
 藤真は滑らないようにと慎重に浴槽に入り、促されるまま牧に向き合って太腿の上に座った。牧は自らの腰を前に出し、座る姿勢を浅くすると、藤真の体を抱き寄せる。
「あーまじだ、やばい……」
 藤真は思わず牧にしがみつくように抱きついた。ひときわ敏感な性器だけでなく、ローションを纏った互いの肌が擦れる感触が想像以上に卑猥で、全身が性感帯になったかのようだった。
「すげーエロい!」
「な。藤真のプレゼントめちゃくちゃエロいな」
「お前だって! てか、プレゼント交換がローションバスとディルドなのひどくねえ?」
 ひどいと言いつつ嫌がった様子ではなく、いたって愉しげに笑う。
「俺たちってやっぱりお似合いなんじゃないか?」
「男子って、やることしか考えてなーい!」
 藤真は裏声の手前の高い声で、芝居掛かって言った。
「……なんか今日は妙に女子ネタを引っ張ってないか?」
「そうかな?」
 意図したものではなかったが、言われてみればその通りだった。気にしていないと言いながら、しっかりと気にしていたのかもしれない。逞しい首筋に額を寄せるように凭れ掛かると、牧は肩に湯を掛けてくれた。暖かくて気持ちがいい。
「女子って、下ネタ嫌いなやつとか、デートしといてやらせないやつとかいるじゃん。あれ、オレ意味わかんなかったんだ。同じようにやりたいもんだと思ってたから」
「藤真を相手にしといて、そんな女子がいるのか?」
「いたんだなーこれが。でも女には男が読むような実写のエロ本って存在しねーよなって気づいたら、なんか納得した。そこまでエロに興味ないっつーか、別モンなんだろうなって」
「そうだな……言われてみれば、そういう本は見たことないな」
「な。えーとだから、なんだろう? 別に女がどうって言いたいんじゃなくて、だからオレたちがしてることはむしろ合理的なんじゃないか? ってことだ」
 ちゃぷんと水が滴る音がして、牧の暖かな手がぬるりと肩を、背中を撫でる。淫らな感触に皮膚が、そして体の芯が震えた。
「間違っては、いないのかもしれんが……」
「部活の邪魔もしないしな!」
 イブの夜にまさしく牧の頭にも過ぎったことだったから、否定はできない。しかし牧は首を横に振る。
「それは確かだが、俺は合理性とか都合がいいとか、そういうことだけでお前と付き合ってるわけじゃない」
 食事のとき、光の道で、雪空の下で、ただ彼がそこにいれば幸せだと感じていた。闘争も勝利も性的快楽もない時間の中に、確かな悦びがあった。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、あまりに単純な言葉しか出てこない。
「俺はお前が好きだから──」
 まだ開き掛けていた唇を、薄い唇で塞がれていた。続く言葉は思い浮かんでいなかったから、悪くはなかったのかもしれない。唇を吸われ、舌を押し込まれながら滑る肌を撫で回されると、落ち着き掛けた興奮はいともたやすく体と意識の表層に蘇った。
 藤真は牧の手を捕まえると、そのまま自分の後ろに持って行き、体を洗っていたときにされていたように、尻の肉を掴ませた。
「なら、とっととやろうぜ」
「ああ……」
 逃れられない衝動に抗わず、牧は藤真の体を愛撫する。薄い肉の感触を愉しみ、藤真の感じるところを探るように、硬い指の皮膚を押し付けながら、肌のいたるところに触れていった。
「んっ、うぅっ…!」
 キスをして、唇を舐め回しながら尻を掴み、湯の中で陰部を晒すように尻肉を外側に開く。そのまま何度も指を出し入れして暖かなローションを体内に送り、丁寧に襞を確かめながら、じっくりとほぐしていく。
「あぅ、あぁっ…」
 腹の中を暖かな粘液で満たされていく、形容しがたい快感ともどかしさとに藤真は身震いする。
「ね、もぅ…」
「そうだな」
 すでに三本入っていた指を抜き、そこに昂りをあてがうと、促すより先に藤真の腰が沈む。
「んっ、あぁあっ、あぁっ…!」
 小さな窄まりをめいっぱい拡げながら、大きく膨らんだ欲望が呑み込まれていく。体重が掛かる分も相まって深く身を抉られながら、熱く重い久々の感触に、藤真は目眩のような実感の中で天井を仰いだ。
 濡れた内部は先端から根元までをずっぷりと咥え込み、牧を煽るかのように強い弾力で締め付ける。牧は深く息を吐き、藤真の手を握り、震える唇にキスをした。
「ん…」
 陰部と手指と唇と──いたるところで繋がりながら暖かい粘液に浸っていると、体の外にあふれた体温を二人で共有しているような、不思議な一体感に包まれる。
 しかしそれだけでは到底飽き足らない。
 どちらともなく体を揺らすうち、次第に動作は大きくなり、藤真は牧にしがみつきながら腰を振り立て、最奥を突かれる歓喜に喘いでいた。
「あっ、あぁっ、んっ、はぁっ…」
 白い体が快楽に仰け反ると、牧の眼前に差し出すように硬く尖った乳首が突きつけられる。遠慮なく吸い付き、愛らしい感触を舌と歯で虐めてやると、ひときわ高い声が上がった。
「ふぁっ、あぁっ、やぁっ…」
「嫌なわけないだろう?」
 ときおり覚束なくなる藤真の動きを助けるように、あるいは自らの快楽を追求するように、褐色の力強い腕が細い腰をしっかりと抱えて揺さぶる。
「あふっ、あ、あぁっ、ひぁ、あぁんっ…!」
 互いの敏感なところを刺激し合いながら、二人は混濁する快楽に溺れていった。

 浴槽の中でラストまで愉しんだのち、そのままの興奮を引き摺って、二人はベッドの上でもひとしきり愛し合った。
 事後、シャワーを浴びて戻ってきた藤真の姿を見るや、牧は相好を崩した。パジャマというほどきちんとしたものではない、上下揃いのシンプルなスウェット──何の変哲もない、ごく見慣れた自分の寝間着なのだが、それを藤真が着ているとなれば話は別だ。オーバーサイズが非常に愛らしく、多少縒れているところさえ自然体で魅力的に見える。そしてなんといっても〝自分の服を藤真が着ている〟という事実が非常に堪らない。
「な、なんか藤真、うちに住んでるみたいだな……?」
 にやける口元をしきりに落ち着かせながら言った、牧のそこはかとない喜びは、しかし藤真には理解されていないようだった。藤真はソファに座る牧の前を素通りして、もう寝たいと言うようにベッドを見遣り、面倒そうに牧を顧みる。
「はあ? 荷物になるからパジャマ持ってこなくていいつったの牧じゃん」
「そう、そうだな……ああ、シーツは替えたから寝て大丈夫だぞ」
 頷いてベッドに潜り込む寸前、ナイトテーブルの上の天使のポストカードが目に留まった。前に来たときにはなかったはずだ。
「クリスマスだから?」
 そう思ったので大して注目もせずに布団に入った。牧も続いて藤真に体を寄せる。
「それ、藤真に似てるって思ったんだ」
 牧は満ち足りたような、ごく穏やかな表情で言ったが、藤真の態度はすげないものだった。
「……頭おかしい」
「そんな言い方しなくたっていいだろう」
 濃密な時間を過ごしたあとでの全否定に、傷つくよりもずっこけるような気分だったが、すでに布団の中に入っていたため、実際にアクションすることはできなかった。
「だって。……おかしい。そんなの」
 藤真が事後に冷たくなるのはいつものことだ。牧はさほど気にせず、あくまで持論を展開する。
「お前は天使の生まれ変わりかもしれない、って」
「オレは藤真家のお父さんとお母さんの精子と卵子から生まれたんですぅ〜残念でしたぁ〜!」
「そんなに嫌がらなくてもよくないか?」
 乗ってくれとは言わないが、天使というのは一般的に褒め言葉だと思っているので、藤真がひたすら嫌そうにするのが不思議だった。
「なんかさ、お前は一体なにを見てんだ、って感じがしてくる」
「別に俺はないものを見てるつもりじゃないが、勝手にそう思ってるってだけで、お前になにかを押し付けようとは思ってない」
 最後の一言が、胸に鋭く突き刺さったようだった。冷たい刃物のような痛みは、しかし一瞬で暖かく甘い痺れに変わっていく。
 夏以降、一時的にではあるが監督として、部員たちから信頼を得る必要があった。安心してついてきてもらうために、ある程度我を殺してでも、皆の理想の偶像に近づくように努めているつもりだ。それを押し付けなどとは思わない。自らの判断だ。
 牧と二人で過ごす時間には、解放されている実感があった。打倒海南と言いながら彼と懇意にしている、ささやかな後ろめたさにも愉悦があった。単純に述べてしまえば息抜きだ。何をも演じる必要のない、ごくプライベートな時間──そんなときに天使だなんだと、存在しないものを求めるかのようなことを言われたものだから、つい苛立ってしまったのだと思う。
「……だいたい、天使の生まれ変わりってなんだよ? 天使って死ぬのか? 死んで天使になるんじゃねーの?」
「それもそうか。じゃあ、生まれ変わりじゃなくて、天から堕ちたんだな」
「堕落した天使、ダラテンだな!」
「いや、普通は堕天使って言わないか?」
 怪訝な顔をした牧に、藤真は小さく唇を尖らせる。
「えー嫌だよ、そんな鎖とか薔薇とか絡まってそうなやつ。で、なにが原因で堕落したんだよ? 淫行?」
「そうだなあ、俺との淫行……」
「お前かよ!」
「前世の俺ってことにしよう」
「ひっでえ、B級映画にもなれないシナリオだな」
 藤真は顔を顰めたが、その口元は笑っている。
「そうか? ロマンチックじゃないか?」
「そうだね、紳二登場とか超ロマンチックだった」
「忘れずに持って帰れよ。あいつと、鍵と」
「……そうだね」
 互いに暇ではないのだから、時間の無駄がないよう、会うときには事前に約束しているはずだ。合鍵を使う機会など多くはないだろう。防犯上のことを思えば、使うかどうかわからない合鍵など人に渡さないほうがいいに決まっている。信用されているのか、単に無頓着なだけなのか。
「どうした? 不満か?」
「ううん? 嬉しかったよ、プレゼント。紳一に会えないときは紳二と仲よくしてるね」
 天使だの言いつつプレゼントに張形を渡してくるあたり、夢を見ているというよりは、牧の天使像が壊れているだけのような気がしてきた。
「あと、めんどくせーこと言ってたかもしれないけど、今日楽しかったからまたどっか連れてって」
「!!」
 機嫌悪そうにしていたかと思えば、なんと愛らしいことを言い出すのだろう。もちろん、時間さえ許せばどこにだって連れていくし、もっとちゃんとしたプレゼントだって贈りたい。それはいいのだが、心臓が跳ね上がったのと一緒に下半身まで元気を取り戻してしまった。
「んんんっ! 藤真、俺は今日はもう寝るつもりなんだぞ……!」
「オレだって寝るけど? じゃあおやすみ」
 藤真はさも当然の顔でさらりと言うと、顎下まで掛け布団を引き、牧の肩に額を押し付けて目を閉じた。
「お、おやすみ……」
 取り残された牧は強張った声で呟き、自分も寝ようとベッドライトを消灯して、悶々としながら自分と同じにおいのする藤真の髪に鼻先を寄せた。日頃はなんら意識しないようなものだが、藤真から香っているとなると途端に落ち着かない。
 疲れたのか、単に寝付きのいいタイプなのか、藤真はすでに寝入っているようだ。初めて泊まる部屋で、隣に人がいても特に気にはならないらしい。
(はじめてのお泊まり……)
 翌朝起きれば藤真の天使のような寝顔が朝日の中に輝いていて、二人はおはようのキスをして一緒に軽い朝食を食べ──などと妄想していると、プレゼントの張形をろくに使わなかったことを唐突に思い出した。
(……やりたいだけじゃない、やりたいだけじゃないんだ、また明日……)
 やはり藤真の堕天の原因は自分だったのではないかと、牧は一人居た堪れない気持ちになりながら眠りに就いた。

<了>

ダラテン 2

2.

『四時? なんか半端な時間だな。別に大丈夫だけど』
「少し前だとお茶の時間だからか、予約が埋まっててな」
 十二月二十九日、少し遅めのクリスマスデートの当日は、昼間のうちから格別に寒い日だった。
「藤真……! 耳当てしてるんだな!」
 待ち合わせの場所で藤真を見つけた牧は、開口一番、感想とも呼べない事実を呟いていた。
「だって今日、夜なんてめちゃくちゃ寒いぜ、きっと」
 コートとマフラーはいつものことだが、今日はふかふかの耳当てまで追加されて──非常に愛らしいと思うのだが、言ったら外してしまうだろうかと黙っておいた。
 二人が足を運んだ先は、豪奢ではなくあくまで洒落た雰囲気の、白い壁の洋風の外観の建物。最近人気のフルーツタルトの店だ。予約するような大層なとこじゃなくてよかったのに、と事前の電話で思っていたことも忘れ、店内でショーケースを目にした藤真は瞳を輝かせた。
「おぉ……!」
 円形の土台に、あるものは赤く輝くイチゴを整然と敷き詰め、またあるものは瑞々しい白い半月形の果実を花弁のように戴いている。隣を見れば黄色やオレンジ色の果実をふんだんに載せたものや、クリームやチョコレートで愛らしく飾られたものもある。多くが自然のままの姿を残したそれらは、美しいながらに食欲をそそるものだった。藤真は胸の下で牧に向かって親指を立てる。
「すげーいいじゃん。テンション上がった」
 その割に口調が静かなのは、騒がしくする店ではないように思えたためだ。
「なんだ、テンション低かったのか?」
「そういうわけじゃないけど」
 嫌だったわけではないが、甘いものが格別に好きというわけでもないため、単に牧について来たという感覚で、頭の中は夜のことで一杯だった。しかし今や、すっかりフルーツタルトに心を奪われている。
 席に案内されると、早速メニューを凝視した。
「イチゴ惹かれるけど、ベタな気がするんだよな〜」
 一面に並べられた鮮やかな赤は否応なく魅力的で、特別なときに食べるケーキに乗っているものという幼いころからのイメージも相まって、惹かれるのと同時に、面白みには欠ける気がする。
「洋ナシのこの写真がすげーうまそうなんだけど、洋ナシ? って思わねえ? 普段食べないから、どんなんだっけみたいな。やっぱイチゴかなー」
 真剣に悩んでいる藤真の様子が微笑ましく感じられ、牧は自然と穏やかな笑みを浮かべていた。
「イチゴが好きなのか?」
「違うし。季節のフルーツってやつもいいし、クルミもうまそう」
「一切れこのくらいだろう? 別に一つに絞らなくてもいいんじゃないか」
 このくらいと牧が手で示したサイズは怪しいものだったが、確かに大きくはなさそうだし、ケーキのように嵩もないから、ボリュームはさほどでもないだろう。しかしこのような洒落た店でいくつも頼むものだろうかと思ったとき、たまたま目に入った女子二人組のテーブルには明らかに二人分以上のタルトがあった。
「よし、二つ頼も」
「二つでいいのか? 九十分あるんだぞ?」
「いや、席がマックス九十分ってだけで、スイーツバイキングと違うんだからな? あ、柿もイメージなくて気になるよなーあとティラミスもあるし。でもここはフルーツ系じゃねえかなあ」
「俺は三ついくぞ」
「えー、じゃオレも三つにする」
 二人で分け合おうと言って、各々違うものを選んで紅茶と一緒に注文した。
 ショーケースやメニューに夢中になっていたときには気にしなかったが、落ち着いてくると周囲の客のことが気になりだした。女同士や男女のカップルは見えるが、男同士で来ているものは少なくともここからは見えない。深く考えずに、言葉が口からこぼれていた。
「オレ、女装してくればよかったかな」
「……そういう趣味があるのか?」
「ねーよ。だって、他に男同士の客なんていないし」
 牧は不思議そうな顔をしている。
「嫌だったか?」
「別に」
 牧が細かいことを気にする性格ではないことはとうに知っている。そして日にちはずれているが一応クリスマスデートという名目なのだから、それなりの店であることは想像できたはずだった。牧のことを悪いというつもりはない。
 牧との関係について、自分が翔陽の監督兼任の立場にあって、彼がライバル校の選手であることについては多少気にしたが、性別への抵抗感はほとんどなかったはずだった。
(無かったんじゃなくて、意識してなかっただけ、か……)
 これまでの外出については、男性の客も普通に目立つような店だったから、実際の関係がどうであれ、自分たちもあくまで友人同士に見えていただろうと思う。今だとて、甘いもの好きの友人同士にも見えるのかもしれない。
 しかし藤真の実感の中では、今二人はカップルとしてここに存在していた。牧との関係をごく自然なもののように受け入れながらも、恋愛もセックスも男女の間のものだというこれまでの価値観まで覆ったわけではなかったから、自分が男としてここに存在していることに、引け目を感じているのだと思う。
 少しすると、紅茶のポットとカップを運んできた女性店員が、藤真を見てにこやかに笑った。
「男性のお客様もよくいらっしゃいますよ。甘いものがお好きな方って多いですし」
(聞こえてたんだ……)
 藤真は背中に汗を掻きながら、できるだけ自然な笑顔を作った。
「へえ、そうなんですね」
「そうだぞ藤真」
 なぜか偉そうにしだした牧にジト目を送り、入り口のショーケースの中を思い出す。
「まあ確かに、ここは知ってたら来たくなるよな」
 今日は牧のところに泊まる予定なので叶わないが、機会があればまた立ち寄って、家に何か買って帰ろうかと思うくらいだ。
「ごゆっくりなさっていってくださいね」
 ほどなくしてタルトが運ばれてくると、藤真は静かに歓喜の声を上げた。
「おぉ〜! うまそう! どれからいくかなー、の前にまず分けるか」
「別に半分じゃなくてもいいぞ。気に入ったのあれば多めに取っても」
「いいんだよ、そういうのは」
 〝男と女のように〟気を遣われたような気がして、反射的に拒絶を口にしていたが、おそらく牧に他意はないだろうとも同時に思っていた。苦々しい思いでタルトを半分に切り分けていたが、一口頬張ればそんなことは簡単に忘れてしまった。
「ん〜! うまーい!」
 クリームは甘すぎずさっぱりしていて、あくまで果実本来の味と香りが口の中に広がる。香ばしいベースとの相性も絶妙だった。
「ああ、こっちもうまいぞ。藤真……」
 牧は藤真を見遣り言葉を途切る。銀色のフォークの上に、赤いフルーツのタルトがひとかけら。ゆっくりと運ばれた先では淡い花弁のような唇が綻び、鮮やかな色彩を含んで笑みの形に結ばれる。リラックスした表情はいつもより少し幼いくらいだが、不意に覗いた舌にどきりとさせられる。素敵な光景だ。ずっと見ていたいほどに。
 藤真がふと気づくと、牧の手はすっかり止まってしまっていた。
「牧、どうした? もしかして甘いもん苦手?」
 フルーツが主体のものばかり頼んだので、さほど甘ったるいわけでもないと思うが。藤真は不思議そうに牧を見つめる。
「いや、食べてるぞ? ……なんか、楽しいなと思ってた」
「楽しい? おいしいんだろ?」
「まあ、そうだが」
 洒落た内装のカフェスペースで、藤真が嬉しそうに甘いものを食べている。それを眺めているのが楽しいのだ──と当人に説明しても理解はされない気がしたので、黙ってタルトを口に含んだ。
 張りのある果実から、瑞々しい甘酸っぱさが溢れて広がる。それうまいよなー、と言った藤真に、口を動かしながら無言で頷いた。
(藤真、俺は本当にお前のことが好きなんだ)
 いっそ言葉にしてしまいたい衝動に駆られながら、この場所ではやめておいたほうがいいだろうと思い留まる。
 会えなかった間、藤真のことを考えながら自慰行為に耽ったあと、一体彼に何を求めているのかと考え込むことがあった。何のために会いたいのか、結局は性欲の解消なのかと思うと、同意があるのはわかっていても何故だか虚しくなった。
 しかし違った。一緒にいるだけで、肌に触れなくともこんなにも満たされた気分になれる。
「ほんとに楽しそうに食べてんね。不思議」
 紅茶を飲み、タルトを食べ、ウインターカップの話などをしながら過ごすうち、藤真が呟いた。
「……あのさ、これ意外と重くね?」
「思った。見掛けよりあるな」
 食べきれないほどではないが、密度が高いというのか、サイズから想像できる以上のボリュームを感じた。
「普通のケーキを上からこう圧縮したよりまだある気がする。チーズとかいかなくてよかった」
「そうだな。ちょうどよかったくらいか」
 日頃の食事よりものんびり食べているせいもあったかもしれない。全て食べ終わり、少し休憩して席を立つころには、入店からしっかり九十分近くになっていた。会計を済ませて外に出ると、時間的には夕方だがすっかり暗く、通りの木々には電飾が輝いていた。
「もうクリスマス終わってんのにな」
 どちらかといえば年末だ。イルミネーションに飾られた通りと、向こうに見える光のアーチに向かって歩いていくカップルたちの後ろ姿を眺めて呟いた。
「ここは冬の間はしばらくこうだったはずだ。少し歩いて晩飯どうするか考えよう」
「うん」
 タルトの店が十六時からになってしまった時点で、夕食の店を予約するのはやめておいた。腹の具合もあるし、カレンダー上は平日の夜だから、予約なしでも入れるだろうと思ったのだ。
 通りには若者が多く、特にカップルがよく目についた。二人の前を歩くのは、手を繋いで体を寄せ合って歩く男女のカップルだ。男が特別大柄なわけではないが、女が華奢で小柄なため、体格の差が際立っている。
(こういう感じ、牧もかわいいって思うのかな。守ってあげたいとか)
 傍らの牧を見遣ると目が合ってしまい、思わず逸らした。身長差も体格差もあるとはいっても男女ほどの差はない。自分がかわいいだの言われることには〝男なのに〟という枕詞がつくか、あるいは単なる揶揄であって、女のような絶対的なものは持ち合わせていないと思っている。
 歩きながら、男がぐっと背中を丸め、女の頬にキスをした。女は男の肩を押し返して突き放したが、本気の拒絶ではなく、戯れ合っているだけだと一見してわかる。
(牧、あんなの好きそう。オレは牧からああいう体験を奪ったのかな)
 あの店も、この道もきっと今のために牧が選んだものだ。今はバスケットを中心にしていて暇がないのだろうが、女子の機嫌を取ることだって彼になら造作もないだろうと思う。
(オレは無理なんだよな。相手の好みとか、機嫌とか伺うなんて。部活のためなら少しは気にするけど、プライベートじゃ無理。……ま、クリスマスなんてこの先いくらでもあるか)
 冷える夜だ。頬も鼻の頭も冷たくて、鼻の奥がツンと痛んだ。
「綺麗だな、藤真」
「うん?」
「綺麗だ」
 目を細め、包み込むように微笑する牧のバックに、滲んだ光の粒がいくつも重なって見えて、ドラマのカメラワークのようだった。
「……うん」
 心臓を掴まれたように、目を離せずに頷いた、肌に外気の冷たさはない。不思議な感覚だった。
 牧は自分を喜ばせようとしてここに連れてきたわけではないかもしれない。おそらく彼の自己満足で、だからこんなに優しい顔をしている。傲慢かもしれないが、そう考えると少し落ち着いた気分になった。
「藤真」
「なに?」
「俺はお前が女だったらよかったって思ったことなんてないぞ」
「……そうなんだ?」
「そもそもお前が女だったら、俺たちは出会ってなかっただろう」
「うーん……?」
 そういうことではないような気がするのだが、そういうことなのだろうか。お茶をした店内で、今前方のカップルを眺めて、一体自分が何にモヤモヤしていたのか、よくわからなくなってきた。
「てか、別にもういいし」
 大抵の感情は時間の経過とともに落ち着くものだし、牧に対して怒っていたわけではないのだから、放っておいてもよかったのだ。前にもこんなことはあった気がする。良く言えば律儀だし、悪く言えば融通がきかない。
「藤真、こっちだ」
 何かに思い当たった様子の牧に腕を引かれるまま、脇の路地に入った。少し外れただけだというのに、メイン通りとは打って変わって薄暗く人気もない。
「ま……!!」
 声を発しようとしたまさにそのとき、ぎゅうと体を抱き竦められ、唇を唇で塞がれていた。一瞬硬直したものの、すぐさま力一杯胸を押し返して突き放す。
「暗いし、家の近くでもないし、別に平気じゃないか?」
 全く悪びれた風もなく言って、笑いながら腰に腕を回してくる牧をキッと睨みつける。頬が赤くなっている実感があるが、この暗がりで牧には見えているだろうか。
「見られるとか、そういうことじゃなくて……」
 確かにそれも気にしないわけではないのだが、藤真の危機感はまた別のところにあった。
「じゃあ、なんなんだ?」
 あまりに久々の接触に、キスだけで体が反応してしまいそうだったのだ。いつもは先に反応を示す牧のことを、至極愉快な気分で眺めていたのだが──いや、彼はそんなことには慣れきっているから平然としているのかもしれない。牧のコートの裾に手を突っ込んでみたくなったが、こんなところで襲われると困るので我慢する。
「……牧。オレ、あんまり腹減ってないんだ」
「少し時間が悪かったな」
「そういうつもりじゃない。お前の最寄りまで帰って、そこらへんで軽く済まそうぜ」
 牧としては、せっかく賑やかなところに出てきたので、食事もここで済ませていきたい気持ちもあった。しかし時間的にも空腹度的にも、藤真の提案通りにするほうがよさそうだ。駄目押しのように手に指を絡められると、もはや断る道はなく、迷わずその手を握った。
「そうだな。じゃあ、帰るか」
 駅に向かうために明るい通りへ戻ると、藤真の手はごくさりげない動作で逃げていった。寂しいことだが、仕方ないだろう。
 文字通り寄り道をしていたから、前方を歩くカップルは先ほどまでとは違う二人になっていた。互いの腰を抱き合って歩く男女に対し、今の藤真が抱く感想はごくシンプルだ。
(女って、興奮してもあからさまに形が変わるもんがなくていいよな。前歩いてる男は平気なのかな……)

 マフラーを外し、耳当てを首に掛けた格好で電車に乗ると、車内には明確に某ファーストフード店のフライドポテトのにおいが充満していた。ちょうど目に入った小太りの男がまさしくその袋を持っているので間違いないだろう。
(たまにいるんだよな、なんでマックで買ってから電車乗るのか謎なんだけど)
 一方の牧はにおいの出どころに気づかなかったようで、思ったままを口にしていた。
「なんか、すげえ食いもんのにおいがしてるな」
 さほど大きな声ではなかったが、静かな車両内には充分で、藤真の視界の端で件の男が明確に挙動不審になっていた。藤真は慌てて牧の腕を小突く。
「車両変えよう」
 ポテトのにおいも気にならなくはなかったが、苦痛というほどではない。どちらかというと、牧が余計なことを言うのを危惧したところが大きかった。
「そうだな」
 電車の中は混んではいなかったが、席に座れるほど空いてもいなかった。二つ隣の車両に移動して、藤真はドア横に、座席の端の仕切りに背を預けるように立ち、牧は藤真の横顔を見るように通路側に立った。
「お前さ、知らない人から見たら結構いかついから気をつけたほういいよ」
「なにがだ?」
「さっきの」
「俺は事実を言っただけじゃないか?」
「まあそりゃ、そうなんだけどさぁ」
 どちらかといえば文句のように聞こえたし、件の男は絡まれるのではないかと気が気でなかっただろう。
「……そうだ、ハンバーガーとか嫌い?」
「あんまり食わないが、嫌いじゃないぞ」
「じゃあ夜ハンバーガーにしよう。さっきので食いたくなった」
「そうだな、たまにはそういうのもいいか」
 二駅ほど進んだろうか。二人が降りるのはまだ先だが、藤真は逆側のドアから見える次の駅のホームを凝視した。
「駅にめちゃめちゃ人いるんだけど。ここそんな混むとこだっけ?」
「なんたら線が止まってて、振替輸送……」
 牧がドア上の電光掲示を読んでいるうちに、ホームで燻っていた人々が雪崩のように乗り込んでくる。
「うわ、やばっ」
「……っと!」
 押し込まれてよろめいた人に思い切りぶつかられながら、牧はドアに手をついてひたすら藤真を庇うようにしていた。おかげで藤真は押し潰されることはなかったが、牧の胸が藤真の体に触れるほどに二人の距離は近くなっていて、藤真が横を向いていなければなかなか気まずい状態になっていたかもしれない。
「大丈夫か?」
「うん……」
 囁く息が耳に掛かって、思わず赤面する。周囲に人がいると思うと、余計に興奮するのはなぜなのだろう。
(興奮とかっ! ヘンなこと考えたら絶対ダメだからな!)
 その後も少しずつ人が乗ってきて、電車が空くことはなく、藤真はほとんど牧に抱かれながら残りの時間を過ごした。
(こんなとこで抱き合うなんて……いや、不可抗力だし、抱き〝合って〟はないし……)
 二人とも冬の服装の上にコートを着ているから、密着しても体温は感じない。しかしそのため、体に圧が掛かるたびに布団に包まれるようで、満員電車だというのに心地よく、抱きつきたくなってしまうほどだった。ぼそぼそと会話もしたが、内容は覚えていない。「混んでる」「まだ乗ってくる」とかそんなものだったと思う。
 目的地に着き、ホームに降りるや藤真は声を上げた。
「はー! 空気がうまい!」
「災難だったな」
「ほんとにそう思ってる?」
「お前に痴漢行為をしなかったことを褒めてほしい」
「いやもう最後らへん知らない人だったら痴漢だったと思うけど……」
 この駅の周辺も決して寂れているわけではないのだが、移動前の賑わいと満員電車の混雑との反動で、随分と静かに感じられた。冬の夜のイメージには、この静けさの方が近いと藤真は思う。
「あのポテトの人、混む前に降りれたかなあ」
「そうだな。ちょっと気になるな」
 他愛のない話をしながら少し歩くと、赤地に黄色のMの看板が目に入った。
「あったぞ、ハンバーガー」
「いや、あっちにしよう」
 藤真の指差すほうを見ると、もう少し先に、緑に白色のMが見えていた。
「緑だからか?」
 緑は翔陽のカラーだ。しかし藤真は首を横に振る。
「マックよりモスのほうが大体静かだから」
「騒がしいのは苦手か?」
「特にそうってわけじゃないけど、相手とか、話す内容による。周りがうるさいとこっちも声張るだろ」
「そうか! よし、じゃあ静かなほうで内緒の話をしような」
「あんまりな話は外ではしないけどな!?」

 レジで少し待ったものの、二階の飲食スペースは予想通り人がまばらだった。窓際のカウンター席の一番端に藤真が、その隣に牧が陣取って、各々ハンバーガーを齧る。タルトを食べて「フルーツの本来の味!」など言い合っていたが、若い舌には濃い味付けのファーストフードもやはり旨いものだった。
「藤真、ポテトじゃないんだな」
「うん。オニオンリングにした」
「っ……!」
 オニオンリングを一つ手に取り、その穴からこちらを覗いてきた藤真の仕草があまりに愛らしくて、牧は思わず絶句する。
(天使だ、天使の輪っかだ……)
 口をあくあくと動かしている牧の様子から、食べたいのだろうかと、藤真は牧のほうにオニオンリングの袋の口を向けた。
「いいよ。お食べ」
「ありがとう……」
 牧はオニオンリングを一つ取り、珍しいものでも見るようにまじまじと眺め、リングに向かって照れたように笑ってから口に放り込んだ。
「あんまりハンバーガー食わないって言ってたの、カロリーとか成分とか気にしてるやつ?」
「そういうわけじゃない。普通に定食か麺類でも食ったほうが腹が膨れないか?」
「あー、食事って思ったらそうかも。オレは帰りにちょっと寄って食って、家でもまた食うからな」
 牧は一人暮らしだからと考えて、海南バスケ部の面々はほとんどが寮暮らしだと聞いたことを思い出す。
「もしかして、あんまり友達とかとメシ行かない?」
「……あんまり、行かないな」
「えー! なにそれ寂し〜!」
 大袈裟に驚く藤真に対して、牧はごく当たり前の顔で応える。
「練習のあとだぞ? 大した時間もないし、気にしたことなかったな」
「まあそれもそうなんだろうけど」
 牧は黙り込み、テーブルの上に広げたドリンクとサイドメニュー、手に持った食べ掛けのハンバーガー、隣に座る藤真を順繰りに見ると、はっとしたように言った。
「俺はもしかして、今すごく高校生らしい過ごし方をしてるんじゃないか……?」
 大真面目な表情で告げられた事実に、藤真は大きく口を開けて盛大に笑った。
「まじでっ! よかったじゃん! 制服じゃないのが惜しいな」
「ああ、よかった……高校生活のいい思い出ができた……」
「んな大袈裟な」
「翔陽のやつとは、よくメシ行くのか?」
 懸念も思惑もない、ただの会話の流れだった。
「まあ、ときどき。別にオレ一人でいろいろやってるわけじゃないから、他の部員と話したいことだってあるし、練習後だと腹減ってるから、じゃあなんか食いながら話すかって流れ」
 藤真の部内での立場は主将だけではない。相談できる仲間がいるならそれはよいことだと、詳細は知らないながらに牧も頷く。
「でもさ、部活の話したくて誘ったのに『あんまり部活のこと引き摺らなくてもいいんじゃないか』とか言うやつもいて。それじゃただのお食事会じゃん!」
「がんばりすぎるのを心配してるんじゃないか?」
「どうだろうな。オレに彼女ができたと思ってるみたいで、気分転換してこいみたいなこと言ってくる。童貞のくせに親かよって感じ。……童貞かなぁ? 多分そうだと思うんだけど」
 ぶつぶつとぼやきながらオニオンリングを齧り、ふと牧の顔を見て一旦口を噤む。
「……ごめん」
「どうした?」
「『私の前で他の女子の話しないでよ!』ってなってる女子みたいな顔してたから」
 藤真が言うと、牧は明らかな戸惑いを顔に浮かべた。
「そ、そうか? 俺は女子みたいな顔してたか……?」
「いや、ポイントは女子ってとこじゃねーけど!?」
 いまいち意図が通じなかったような気もするが、怒っていないのならいいだろう。そういうことにした。

 牧の家に向かって歩きながら、二人は自然と身を寄せ合っていた。
「駅前、今日は静かだったが、イブの夜には聖歌隊が居たんだ」
「へえ」
「お前のこと思い出してた」
「恋人みたいだね」
「恋人じゃなかったのか!?」
 藤真としてはただの軽口のつもりだったのだが、牧が本当に狼狽えた様子だったので、思わず声を上げて笑ってしまった。
「藤真……」
「ごめん」
 自分はあまり性格は良くないほうだと思う。特別悪くもないはずだが──いや、牧の性格が良すぎるのだ。
「あのさ、牧って、オレのどこがよかったんだ?」
 率直で純粋な疑問だった。
 人から好意を抱かれることには慣れている。しかし、相手が牧だと思うとやはり不思議なのだ。初めて聞いたときにも驚いたが、彼と接してその人柄を知ると謎は更に深まった。人は見た目とのギャップに弱い。恐く見られがちな牧の実際の性格を知って、好感を抱かない者はいないと思う。つまり、相手など他にいくらでもいたはずだ。
 牧は藤真の問いを心底不思議に思いながら目を瞬く。
「? どこって言われても困る。全部いいと思ってるぞ」
「オレはお前みたいな、いいやつじゃないよ」
「なんだ? 俺みたいって」
「お前ってめちゃめちゃ性格いいじゃん。怒らないし、バスケもできるし、欠点ってないと思う」
 牧はひたすら首を傾げた。性格など、自分ではごく普通だとしか思わない。
「普通に怒るし、ボケてるとか老け顔とかよく言われてるぞ」
「お前の天然はむしろ好評価ポイントだろ。ただの個性だ。顔は整ってんだからそのうち年齢の方が追いつく」
 牧は真剣な面持ちで、じっと藤真を見つめた。
「藤真こそ、完璧じゃないか」
 もともとそう感じていたが、こちらの性質を個性と言ってのけたことでますます好きになってしまった。無論、顔と年齢の相関についてもだ。
「えー? オレは結構アレだぜ? お前のことからかったりするじゃん」
「別に嫌じゃないぞ」
「気分屋じゃねえ?」
 自覚は薄いが、よく言われるのでそうなのだろうと思う。部活のときには気をつけているが、それ以外では特に変える気はなかった。
「楽しくていい」
 藤真は呆れて長く息を吐いた。
「お前、心広すぎ。なんでも誰でも許せるんじゃね」
「そんなことないと思うぞ」
「えー? お前が許せないことなんてあるんだ。興味ある」
「卑劣なこととか」
「……まあ、そりゃそうなんだろうけど」
 そういう話じゃないんだけどな、と藤真はひとりごちて、なんともなしに顔を上に向ける。どんよりとした暗灰色の空に、星はまばらだった。思い出したように、牧が口を開く。
「理想が高すぎるって、言われたことがある」
「え?」
「俺の欠点」
「別に、釣り合う相手を求めるのは当たり前だろ。そんなのは選ばれなかったやつの言い草だ」
「そうだな……だからお前なのかもしれない」
「はあ!?」
 さらりと言って微かにだけ笑った牧とは対照的に、藤真は裏返る寸前の高さで声を上げてしまっていた。言葉を反芻するたびじわじわと顔が熱くなり、耳当てもマフラーも暑くて外したくなるくらいだったが、意地で固持する。
「お前、オレに夢を見過ぎだ」
 今否定したばかりの言葉だが、理想が高いということにも通じるのかもしれない。
「オレはさ、お前がオレのことを好きって状況に気分よくなってるだけなんだよ」
(オレが追い抜けないでいるお前が、オレを求めたってことに)
 それはとても浅ましいことではないだろうか。
「俺がお前を好きだと、お前は気分がいいんだろう? なんの問題があるんだ?」
 牧は不思議そうに首を傾げ、藤真の顔を覗き込む。
「うーん、いや、違くてさあ……」
 うまく伝えられない。何が違うのか、自分でもよくわからなくなってきた。
「藤真のことを好きになるやつなんて、いくらでもいるだろう。お前はその全部の好意を受け入れるのか?」
 藤真は迷わず首を横に振る。
「そんなの、迷惑だ」
「でも俺とはデートもセックスもっ…うぐっ!!」
「声でけーんだよバカ!」
 静かな夜の住宅街に牧のセックスコールが高らかに響いてしまったので、少し強めに腹にパンチを見舞った。牧は芝居掛かって体を前方に丸める。
「ふぅっ、なかなかいいパンチだった……ん?」
 鼻先に冷たい感触があったかと思うと、ちらちらと視野に白いものが混ざり始める。先に声を上げたのは藤真だった。
「雪!? どうりで寒いと思った」
「ホワイトクリスマスだな!」
 弾けるように笑った牧の表情が、その造形とは裏腹にごく無邪気な子供のように見えて、思わず口から言葉がこぼれる。
「やっぱり牧って……」
「なんだ? 単純だって?」
「違うよ」
 心が綺麗なんだ、と思った。しかしそのままではあまりに照れくさいので、どうにか格好をつけた言葉を探してみる。
「じゅん、じゅん……純朴?」
「それは言われたことなかったが、いい意味なら嬉しい」
 高校生が日常会話で口にする単語でもない。国語の授業で耳にしたくらいだと、当の藤真も思っていた。
 それきり時間が止まったように二人で空を見上げ、ゆっくりと螺旋を描くように舞い降りてくる白い花弁を眺めていた。
 正面に視線を戻すと、いつからそうだったのか、牧は恐いくらい真剣な目でじっとこちらを見ている。
「なに?」
「……綺麗だと、思って」
「オレに雪が積もっていくのが?」
「いや、そう言われるとなんか変な感じになるんだが。……すまん、寒いよな。早く帰ろう」

ダラテン 1

1.

 十二月二十四日、クリスマス・イブの夜。聖歌隊の透明な歌声の響く広場に、吹き抜ける風は身を切るように冷たかった。クリスマスの本来の意味がなんであろうが、広場の男女たちと、独りそこを通り掛かった牧にとっては、その前夜は恋人同士が愛を語らう夜でしかない。聖なる歌は恋人たちへの祝福だ。
(恋人……か)
 自ら頭に浮かべた言葉に照れてしまった。藤真は嫌がるだろうか。
 外で手を繋いだり過剰に寄り添うことを、無理に求める気はない。ただ横に並んで一緒に歩くだけだって充分に楽しい気分になると思うのだが、ウインターカップ只中の今、残念ながらそれは叶わない。
(会いたいな……)
 練習中は自然とバスケットが最上位に浮上していて、邪念などは浮かばない。何かの拍子に女子に言い寄られたとしても、迷わず拒絶する程度に、現在の牧にとってそれは絶対的なものだった。健康な高校二年の男子だ、性的な興味や欲求がないわけではない。しかし価値観の異なる相手との交際は部活動の妨げにしかならないと、過去に実感したのだ。その点で藤真は都合がよかった。
(都合、というか……)
 あまりに割り切った単語に、それは違うと頭を掻いた。事実ではあるが、単なる結果だ。交際を決めた理由ではない。
 とはいえ、まだ交際開始から二ヶ月弱ではあるが、決して暇の多くない中でも関係を負担に感じていないのは、やはりそれもあるだろうと思う。それもあって──二人の総意だと思っているから、バスケットに触れているときには藤真のことは対戦相手としてしか考えないようにしている。
 しかし、一日の務めを終えたあととなれば話は別だ。まして今日はクリスマス・イブなのだ。

 駅近くの雑貨屋の店先には、まだクリスマスグッズが並んでいた。仕舞い込まれるのは明日の夜だろうか。
(そういえば、クリスマスプレゼント……)
 ウインターカップの全日程が終わったあと、十二月二十九日に藤真と会う約束をしている。〝年末デート〟というのも何か変なので、少し遅いが一応クリスマスデートという名目だ。ならばプレゼントを用意したいところだが、ここに並ぶいかにもクリスマスめいた雑貨を、クリスマスから四日もあとに贈るセンスはさすがにない。この店にはさほど高価なものはないだろうが、最初のプレゼントは高価すぎるとあまり喜ばれないと聞いたこともあり、なんとも悩ましいところだ。
 ふと、一枚のポストカードに目を惹かれた。ヨーロッパの絵画にあるような、精緻なタッチの油絵だ。少年にも少女にも思える顔立ちの天使が頬杖をつき、意味ありげな微笑を浮かべてこちらを見つめている。試すような、見透かすような微笑が藤真に似ている──そう感じてしまったら、もうその天使が藤真にしか見えなくなった。髪は癖毛で、顔もそう細部が似ているわけでもない。単なるイメージの暴走だ。
(もし藤真が天使の生まれ変わりだったら……)
 そんな妄想が頭を過ると、もう堪えられなかった。衝動的にポストカードを手にして店に入り、会計を済ませて出てきたときには、クリスマスプレゼントのことはすっかり忘れ去っていた。

 家に帰り着き、玄関のドアを開けるや否や、電話の呼び出し音が聞こえた。
「藤真?」
 部活関係の連絡も充分ありえたろうが、つい先ほどの思考を引き摺ったまま、慌てて靴を脱いで部屋に駆け上がり、勢いよく電話を取った。

「お、牧? メリクリ〜」
『藤真! メリークリスマス!』
「なに、気合い入ってんじゃん」
 気合というべきか、勢いというべきか。そう嬉しそうにしてもらえると、電話を掛けた甲斐もあるというものだ。
『お前のこと考えてたら電話がきたんだ』
「本当かよ? 帰るの遅いから、寂しくて風俗でも行ったのかと思ってた」
『俺はれっきとした高二だぞ。そんなの発想すらなかった。まあ、イブだから、寂しいのは確かにあったが』
 藤真は目を瞬き、純粋で朗らかな子供のような笑顔を浮かべた。
「まじで! かわいいこと言うんだな。今日さ、姉が家いないから電話占領できるんだ。今、時間大丈夫か?」
 姉の長電話に慣れきっている親だから、藤真が長く電話を使ったところで気に留めないだろうとは思ったが、一応夜に電話を使わないことも確認済みだ。
『ああ、もう用事も済んでる』
「じゃあ、テレホンセックスしようぜ!」
 日曜の夕方のアニメで「野球しようぜ!」と遊びに誘うくらいの軽さで言うと、電話の向こうから『んむっ!?』だの『おぉっ……』だの、戸惑うような喜ぶような声が聞こえた。いい反応だ。藤真は笑みを噛み殺す。
「なに、しないの?」
『する! 是非しよう!』
 疲れているだろうに、迷う素振りもないのだから愉快で堪らない。
(まあセックスってもオナニーだし、そんな疲れるもんじゃねーよな)
「もうできる? 準備必要?」
『ちょっと待ってくれ……ああ、準備オーケーだ』
「はやっ!」
 とは言ったものの、大した準備もないだろう。藤真のほうも、そのつもりで電話をしたから準備はできている。電話機を自分の部屋に引き入れ、ハンズフリーモードにして、バスタオルを敷いてベッドに仰向けになったくらいのものだ。
「オレも」
『今、どんな格好してるんだ?』
 切り替えの早い牧に、口元の歪みを抑えることができない。面白がって笑っては台無しだろうから、声には出ないようにしたいものだ。
「部屋着のスウェット上下。脱いどいたほうがよかったかな」
『いや、自然でいい。……じ、じゃあまず、上を捲ろうか。胸の上くらいまで』
 行為の際、牧が口籠ったり、躊躇ったりする様子を見た記憶はなかった。その状況では欲求のほうが遥かに優っていて、迷いなど生まれないのかもしれない。
 言われた通り、インナーもろともトレーナーを捲り上げた。
「捲ったよ。胸の上まで出てる」
『乳首を、触ってみてくれ……』
 荒い呼吸が電話越しに強調されて聞こえる。余裕のない様子の牧に、藤真は興奮するよりも愉快な気分になりながら、自らの乳首に指で触れた。
「触ってるよ」
『どうなってる? 硬いとか、勃ってるとか』
「柔らかい」
『そうか……じゃあその、柔らかな乳首を……指で弄ってみてくれ……』
 言葉の合間に聞こえる息遣いから、牧も行為を始めていることが想像でき、俄然興奮してきた。
「どういう風に?」
『こう……』
「見えねーから、わかんねーからっ!」
 電話の向こうでは、牧が乳首を弄る手振りをしているのだろうか。想像すると面白いのだが、気分が乗ってきたところで正気に戻すのはやめてほしい。
『指で摘んで、捏ねたり……潰したり……』
「う、ん……」
 言われた通りにして小刻みに指を動かすと、気持ちいいと思い込めば気持ちいいような、しかしそれよりもどかしさや恥ずかしさのほうが勝るような感触が起こる。
『ちょっと爪を立てたり……』
「あっ…」
『気持ちいいのか? 乳首はどうなってる?』
「硬くなって、ちょっとだけ大きくなって、形がはっきりしてきた」
 照れくさいながら、それでも比較的落ち着いた気分でレポートしてやると、牧が唾を飲む音が聞こえて嬉しくなってしまった。テレフォンセックスは初めてだが、牧に卑猥な言葉を望むよりは、こちらから投げ掛けてその反応を愉しむほうがいいのかもしれない。
 フー、フー、と牧の強い息遣いが聞こえる。
「でも、自分で触ってもあんまり気持ちよくないな。やっぱ牧に触られたり、しゃぶられたりしないと……」
 不意に『ガサッ』とも『ブバッ』とも形容しがたい大きな音がした。受話器の至近距離で思い切り息を吹いてしまったのだろう。藤真は笑いをこらえるのに必死だ。
『ッ! そ、そうか……!』
「ふっ…まきっ…受話器近い…っ」
『やっぱり、今からでもそっちに行こうか?』
「ダメだってば。今からじゃ遅くなるし、それにお前、今すぐ出られるなんて状態じゃねーだろ?」
『ぐっ…』
「お前の股間のモノは、今どうなってんだよ?」
 想像はついていたが、敢えて問うてみる。瞳は妖艶に細まり、唇には意地の悪い笑みが浮かんでいたが、残念ながら牧がその表情を見ることはできない。
『……興奮して、でっかくなってるぞ』
 想像して、思わず喉が鳴ってしまった。牧のことを笑っている場合ではない。付き合おうと言われる前の一番最初の行為のときから、牧が自分を欲している事実にこそ藤真は悦びを感じ、そこから今に至っているのだ。
「オレの声聞いてるから?」
『ああ……普通に自分でするより、汁が垂れるくらい出てる』
 牧の声に苦笑が滲んでいる気がする。どれほどの状態なのか、直接見られないことが残念だ。
「ローション使ってないんだ?」
『今日はまだ使ってないな。お前はどうなんだ?』
 さすがに漠然としすぎだと思った。素直に問い返す。
「……なにが?」
『勃ってるのか?』
「うん……てか、お前がちゃんと指示しないからまだパンツの中なんだけど」
『! そうだったか。……そうだよな。じゃあ、下脱ぐか』
 言われた通り、ひと思いにズボンと下着を取り去って、下半身を裸にしてしまう。下着の中で窮屈にしていた性器が、のびのびと首をもたげた。
「脱いだ」
『触ってみて、どうなってる?』
「硬くなって、筋が浮いて、先っぽがちょっと濡れてる」
『そうか……! ローションはあるか?』
「ないけど、オイルがあるよ。マッサージ用のやつ」
『それを使おう。あと、そうだな、バナナとか、キュウリとか、ナスとか……』
「それはない」
『ないのか?』
「あっても使わねーし! 食べ物を粗末にすんな!」
 それらの形状から用途に簡単に想像がついたので、ありえないことだと全否定しておく。
『じゃあディルドとか、バイブとか』
「もっとねーからっ!」
『お前、指なんかで満足できるのか?』
「うるせー、いいんだよ別に」
 牧はテレフォンセックスとして煽る調子ではなく、純粋に疑問な様子だ。
 多少慣れたとはいっても、自然のままで異物を挿入できる箇所ではない。二人でのセックスだから受け容れられるだけで、自分で自分のそこをほぐす虚しさを思えば、指だって毎度入れるわけでもないのだが、具体的に説明する気はしなかった。
「もうお前ダメだから、オレが勝手にやるわ。まずオイルをたっぷり手に取ってぇ、おちんちんをマッサージしまぁす」
 ふざけた調子で受話器に言うと、実際にオイルで濡らした左手で陰茎を掴み、上下にゆっくりと愛撫する。オイルが性器と手指の肌の密着度を高めながら、摩擦の痛みを失くして、常時の自慰よりも遥かに強い快感を伴った。
「っ…、あっ…んんっ!」
 普段は前を触っても声など出さないが、想像以上の感触と、牧が聞いていると思うと自然と声が出てしまった。
『藤真っ…、気持ちいいのか?』
「うん、ぬるぬるして、きもちい……」
 性器の上にボトルから直接オイルを垂らし、たっぷりと潤ったそこに受話器を近づけて大袈裟に扱く。皮膚の擦れる音と、ねっとりとした水音が派手に響いた。
「聞こえる? んっ、あぁっ、あっ…」
『っ!! ふじまっ、…そんな、やらしい音立ててっ…』
 受話器を顔の横に置くと、切羽詰まった様子の牧の声と息に煽られるように、右手を脚の間へ持っていき、伝い落ちたオイルで濡れた窄まりを揉みほぐすように撫でた。
「あっ…!」
『どうした?』
「指入っちゃった。ぅんっ、あぁ…」
『な、中は、どんな感じなんだっ…!?』
「入り口はっ…きついけど、オイルで滑るからっ、んっ、ぁんっ」
 あまり深くは入れず、入り口付近で軽く指をピストンする。触覚での単純な快感もあるが、更なる刺激を求めて体が疼くようで、非常に気分が高揚していた。
『藤真、イイのか?』
「ぅん……いいよ、牧……」
 仰向けから横向きの体勢になって体を丸め、挿入した指を曲げて、体の前方へ向けて刺激する。何度か繰り返すうち、明確な快感が迸ってびくりと体が跳ねた。
「゛あっ! んぅっ、あぁっ…」
『ふじまっ…』
「っ…ん、前立腺みっけた。ね、牧のシコってる音聞かせて」
 もはや演じなくとも自然と甘えたような声になってしまう。その調子は牧にもストレートに伝わっていた。
『聞こえるか? ……』
 受話器越しに馴染みのある、しかし荒々しさも感じる音を聞いて、藤真は思わず歓喜に喘ぐ。
「あぁっ…すっげ、エロい音っ…まき、オレのこと考えてシコってるの…」
『当たり前だろうっ…ほんとはこれで、お前の中を掻き回してやりたいんだ…ッ!』
 もはや羞恥などなく、一旦取り戻した右手の指に落ち着かない動作でオイルを垂らし、再び脚の間へ持っていく。二本の指が、ぬるりと狭間に呑み込まれた。
「んっ、オレも…はぁっ、ほんとは、牧の…あぁっ、あぁぁっ…!」
 ぐちゅぐちゅと音を立てて自らの指で中を掻き回しながら、興奮しきった陰茎を撫でると、耐えられず声が上がった。
『藤真っ…、今、どうなってる…?』
「指二本、入っててっ…ちんぽ触ったら穴がぎゅって締まってっ…」
『指を曲げると?』
「我慢できなくなる…」
 声は無様に泣きそうに歪む。受話器の向こうから、感じ入ったような牧の息が聞こえた。
『我慢なんてしないで…、俺にやられてると思って、エロい声聞かせてくれ…』
 藤真は許しを得たかのように、差し込んだ指を蠢かせながら、もはやオイルよりも体液で濡れそぼった陰茎を夢中で扱いた。
「あ、あぁっ、牧…! んぅっ、あぁっ、あぁぁっ…!」
 受話器から聞こえる低い声と呼吸が、こちらの動作とリンクしているように思えたが、まともな感覚はとうに失っているから、ただの思い込みかもしれない。それでも確かに牧の存在を感じながら、感じるたびに自らの指を締め付ける、淫らな体に自分自身で興奮していた。
「まきっ、オレ、もう、いきそぉ…っ」
『ああ…俺もだ…』
「じゃ、一緒にいこっ」
 今度は明確に息を合わせ、手淫の速度を上げて一番弱いところを重点的に刺激していく。
『ああ、藤真ッ……いくぞ、出すぞ……!』
「んっ、牧ぃっ…! あっ、あぁっ、あぁああッ……!!」
 射精とともに白く弾けた強烈な快感の中で、自分の声をうるさいと感じながら、牧の達した低い声も確かに聞いた気がしていた。体をぐったりとさせながら、開放感のような、幸福感のような、快楽の余韻に藤真が浸っていられるのは、しかし僅かな時間のことだ。
『っ、ふじまっ……もう一回しよう!』
 電話の向こうからはまだ興奮冷めやらぬ牧の声が聞こえるが、藤真は例のごとく急激に冷めてしまっていて、早く身の回りを片付けたくて仕方がなかった。近くにいて迫ってこられればまた別だろうが、電話越しではそこまで盛り上がることはできない。
「はぁ? やだよ、また二十九日にな。バイバイ」
『ふじ』
 ガチャッ!
 乱暴に電話を切り、深い深い溜め息をついてティッシュで股を拭った。オイルのおかげでするすると拭き取ることができたが、そもそも性的な用途のためのオイルではないと思い出すと、心の底から情けない気分になった。
(アナルとかマッサージしてごめんなさいって気持ち……)
 電話の受話器を改めて持ち上げて入念に拭き、ハンズフリーもオフにする。
(やっぱり、ちゃんと会いたいよなぁ)
 断片的な接触など、余計に相手が恋しくなるだけだというのに、忙しい牧をわざわざ捕まえて、なんて下らないことをしてしまったのだろう。
 落ち着きを遥かに通り越した憂鬱な気分で、くず箱に使用済みティッシュの山を作り、パンツとズボンを穿いて、電話機を元の位置に戻しに行った。

相対領域

「なあ、藤真。監督ってどういうことするんだ?」
 堅く不自然な語り口だったから、ありがたくない話をする気なのだろうとすぐに察しがついた。藤真は敢えて素っ気ない風に返す。
「お前、バスケしててわかんねーの? 試合のメンバー決めたり替えたりとかいろいろあんじゃん」
「そのいろいろの部分をだな」
「高頭監督に聞けば?」
「高頭監督はそんな気軽に聞くような間柄じゃないし、お前が何してるのか知りたいんだ」
 牧の目当ては後半の一言のほうだろう。思った通りだと、藤真は顔を顰める。
「じゃあ翔陽の監督のオレだって、お前とは打ち解けた仲じゃねーよ?」
「な、なんだとっ!?」
 明らかにショックを受けた様子の相手に、藤真は思わず苦笑した。
「いや、やることやってるし、まあ、コイビト? なんだろうし、表向きは友達だし、そこを否定するわけじゃない。ただ〝監督としては〟お前にベラベラ喋る気はないってこと」
「俺のこと、スパイかなんかだと思ってるのか?」
「そういうわけじゃないけど、とりあえずオレは話したくない。そこは切り離しときたい」
 これだけで充分だろうと思う。今までにないくらい、はっきり言ったつもりだ。
「そういうもんか……」
 単なる虚勢ではない、本気の拒絶を感じて、牧も大人しくなる。
「お前に愚痴りたくて付き合うことにしたわけじゃねーんだからな。変な誤解すんなよ」
 牧と一緒にいる時間に、癒されていないといえば嘘になる。しかしそれは自分が勝手に享受し感じていればいいことで、決して牧に深入りしてほしいわけではない、というのは難しい要求なのだろうか。
「……お前は、それで大丈夫なのか?」
「なにが?」
 短い返答の中に、いかにも面倒だといった空気を感じて、牧は微かにだけ眉根を寄せたが、単刀直入に口にする。
「選手兼監督なんて立場にいて、きついとか、悩んだとき、頼れる相手はいるのかってことだ」
 藤真は少しだけ目を細め、つまらなそうに遠くを見つめる。
「……たまに、ふわーっと、そんな感じのこと気にしてくるよな。お前」
「気づいてたのか」
「オレって、そんなに余裕なさそうに見える?」
「見えるってわけじゃない。想像したらそこに辿り着いた。同じ歳で監督やるってどういうことなんだ、そりゃ大変だろうって、きっと誰だって思う」
「妄想なんなら別にいいや」
 それきり短い沈黙が訪れたが、牧が何か言いたげだと察すると、藤真の方が先に口を開いた。
「……居るよ。大丈夫。オレはお前が思ってるほど孤高じゃないし、オレの周りのやつらだって、お前が気にする程度のことは考えてる。所詮オレが高校生なの、みんなわかって付いてきてくれてる。あと」
 一息に言ったが、最後に躊躇するように言葉を切った。これまでの牧の言葉が、善意や優しさでしかないことはよくわかっている。しかし──
「お前にはそういうのは求めてない」
「……そうか」
「オレたちって、ただのバスケ好きのお友達じゃないんだぜ。デリケートな関係なんだ」
「……そうか」
 まるで同じ返答を繰り返す牧がいかにも消沈して寂しげに見えて、苦々しい思いで奥歯を噛み締めた。きっと牧は、頼りにされていないとか、信用されていないとか感じているのだろう。こちらに向けられるその大らかさは、常に勝者である彼の余裕だ。
 牧が考えるほど、二人は対等ではないと藤真は思っている。自分には彼のような余裕はないし、牧紳一という男に体を開いたとて、敵チームの主将には弱みも弱音も見せたくないと思っている。対等ではなくともライバルだと思っているから、ありていに言ってしまえば
(もうちょっとの間、オレにもカッコつけさせろ)
 ただの意地だった。プライドと呼べば共感も得られるだろうか。
「それでもお前がどうしてもオレのこと気にするってなら、余計なこと考えないでオレの求めるもんだけ与えろ」
 白い指がいかにも男性的な輪郭の、色黒の頬から首筋をくすぐるように撫でる。
「難しいな」「難しくても!」
 間髪入れずに返され、牧は白い歯を見せて笑った。
「ああ……そうしよう」
 頼ってもらえるのなら、それは無論嬉しい。しかし彼は可憐に見えても弱くはないし、柔和な印象ほど素直でもない。一筋縄ではいかないところにこそ惹かれたのではなかったかと思い出しながら、悪戯する指を手のひらの中に捕まえた。

マッチメイク

「藤真、11月11日はポッキーの日だぞ! ポッキーゲームをしよう!」
 目を輝かせて意気込む牧の手には、既にポッキーの箱が握られている。ソファの肘掛けに凭れる藤真は対照的に、さも面倒そうに返した。
「それって付き合ってない同士でやるから意味があるんだろ。付き合ってんならキスとか普通にすればいいじゃん」
「藤真とポッキーゲームがしたいんだ」
「ゲームって名前なだけで、なんも面白くないと思うけど」
「したいんだ、藤真とポッキーゲームが」
 おもちゃを咥えて持ってきて、これで遊ぼうとせがむ、大きな犬のようだった。
「倒置法にしたからって、気が変わると思ってんのかよ。……別にいいけど、じゃあポッキーゲームして先に勃起したほうが負けな。名付けてボッキーゲーム」
「ああ、いいぞ!」
(いいのかよ)
 これまでの経験上、牧の敗北は明白だ。自信があるというより、今は戯れ合いたい意識が強く、勝負とは思っていないのだろう。
「!」
 牧が箱の中から取り出した一本のポッキーに、藤真の目は釘付けになった。通常のものより太く、たっぷりと盛られたチョコレートは濃いピンク色をしていて、苺の甘酸っぱいにおいがする。
 去年初めてこの部屋に来たときにも、同じものを食べたのだ。
 覚えていたのか。どうでもいいとすら思える些細なことである分だけ、驚きは大きかった。牧の中にしっかりと自分の領域が確保されているのだと、初めてに近い感触で実感し、不覚にも──ときめいてしまった。
 藤真は顔を顰める。
「口に食べカス入れて来たら殴るからな」
「ああ、気を付ける」
 牧は満足げに笑った。
(なんでか知らないけど、なんとなく腹立つな……)
 そう思いつつも、チョコで覆われた先端を唇に当てられると、大人しく唇の間に挟んだ。
「よし、行くぞ」
 言ってポッキーに喰いついた牧の顔は、恐るべき速度で接近し、藤真はあっという間に唇を塞がれていた。自分が口にしたのが逆側だったなら、まだチョコに辿り着いていないのではと思うほどだ。
 逃げないようになのか、がしりと肩を掴まえ、閉じた唇同士を合わせたまま、口の中のものをもぐもぐと咀嚼する。珍しい感触が少し面白い。
 口の中の物を飲み下したのだろう、舌が押し込まれ、口腔を味わうように動き回る。
(後でゆっくり食べよ……)
 慌ただしい喫食に、大味に薄まった甘酸っぱさしか味わえず、牧の好きにさせながらぼんやりと考えていた。
 一方の牧は蕩けるような感触に浸りきっていた。戸惑う舌も、抱き竦めた体も甘く愛しく、胸の奥はそわそわと落ち着かない。血の巡りがドクドクと早くなって、体の末端までもが熱くなる。
 長いキスを終えたとき、牧は穏やかに笑んでいた。
「……楽しそうだね」
「ああ、楽しいぞ。藤真は楽しくないのか?」
「だって、こんなゲーム性のないゲーム……」
「そうだ、ゲームといえば俺の負けだな。罰ゲームは? どうすればいい?」
 藤真の内腿には、牧の股間から出っ張った硬いものが触れている。
「あー、そんなルールだったっけ……罰、なあ」
「なんかあるだろう。なんでもいいぞ」
 何も考えていなかった。しかし牧はまるでそれを待ち受けるかのように、至って楽しげだ。負けたのだから少しは悔しがってはどうかと思う。藤真は唇の端に意地の悪い笑みを乗せた。
「なんでも? お前に首輪と鎖つけてその辺散歩するとか?」
「ふ、藤真、そっち系に興味あるのか……?」
 嫌がらせたかったのだが、牧は満更でもなさそうに「どうしようかな」などぼそぼそ呟いて頬を染めた。藤真は思い切り顔を顰める。
「ねーよ。それ連れてるオレも羞恥プレイになるじゃん」
 それきり、二人の間に短い沈黙が訪れる。
「……藤真、もしかしてあんまり俺に興味ないのか?」
「ないわけじゃないだろうけど」
 牧が嫌がりそうなことが思い浮かばないのだ。バスケットの試合関係のことは悪ふざけのネタにはしたくないし、かといって試合の外ではこの男は至って寛容だ。
「……あ、そうだ」
 藤真は牧にぎゅうと抱きついて、甘えるように頭をぐりぐりと押し付けた。自然と牧の表情も緩み、下半身もますます元気になる。
「じゃあ今日は一発だけにしよ。お前がイッたらそれで終わりな」
「なんという……もしお前より先に俺がイッたらどうなるんだ?」
「そこで終わり。オレはめちゃめちゃ幻滅して欲求不満になって浮気するかもな。だから先にイかないように頑張れ」
 そして慣れた手つきで牧のものを引っ張り出し、躊躇なく口に咥えた。
「おいっ! そのルールでそれはアンフェアだろうっ!」
 牧は慌てて藤真の顔を引き剥がし、いかにも名案を思いついた顔で言った。
「わかった、シックスナインでしよう。お互い正々堂々勝負だ」
 返事をする前からぐいぐいと腕を引かれ、藤真は逆らう気もなくベッドの上に転がった。
(正々堂々? ぜってーケツいじるだろ)
 現に、牧は頭を向こうに向けて藤真の下に潜り込んでいる。それは尻を自由に弄りやすいようにではないのか。直接前立腺を押されては耐えられそうにない。ポジション的には不利か。
(いや、ドライに持ってければむしろ──)
 射精さえ回避すれば、達した証拠は残らない。牧の絶頂を狙うことはもちろんだが、いかんせん相手はタフだ。〝負けないために〟藤真はドライオーガズムを意識していく。
 ズボンは脱ぎ捨てた。本能と煩悩のボッキーゲーム・第二ラウンドの幕開けだった。

蜜月カルテ 2

2.

 バスルームを出ると洗濯機の回る音がしていた。服を着込んで部屋に戻ると、ベッドから汚れたシーツは剥ぎ取られ、牧はソファに掛けてテレビを見ていた。藤真はその隣に腰を下ろし、ローテーブルの上から飴玉を一つ取って、個装を開けて口に放り込む。
「引っ越したら、コインランドリーみたいな、シーツ乾燥までできるでかい洗濯機が欲しいな。欲しくない?」
 藤真の口から、歯に飴玉が当たる小さな音と、甘い香りがする。
 引っ越し。シンプルに削ぎ落とされた言葉に、牧は戸惑いと照れくささと喜びとに一挙に襲われながら、ごく短く応えた。
「……欲しいな」
 高校を出たら二人で一緒に住もうと約束したのは、今年の夏の終わりのことだ。藤真は了承してくれたものの、あれから話を切りだしてはこなかったから、彼の口から具体的な話題が出たことは牧にとって感動的ですらあった。
「牧? どうした?」
 ふと思ったことを口にしただけの藤真は、牧の感慨など知る由もない。
「なあ藤真。付き合い始めたの、去年の今ぐらいだったな」
「なにお前、ちゃんと覚えてんじゃん。意外」
 今まで何も言い出さなかったから、忘れているか、また間違えて覚えているのかと思っていた。牧の唇に自らの唇を重ね、口の中の飴玉を押し込む。
「好きじゃない味だったからあげる」
「……十月の最後の日曜だった」
「いや〜、一年もったなー」
「なんだその言い方は。すぐ別れるつもりだったみたいじゃないか」
「オレは別にそういうつもりじゃなかったけど」
 なんともないように言われた言葉の一端が、小さな違和感を帯びて引っ掛かる。『オレは』とはどういうことか。
「俺だって、すぐ終わるつもりなんかじゃなかったぞ」
 藤真は牧に向けていた顔を正面に向け、中空を眺める。
「うーん、なんかね……」
 置いて行かれそうな気がしていた。
 去年の夏も、今年の夏も、自分は望むものを得られなかった。泥の中でもがき続けながら、その横を悠々と過ぎていく牧に向けたものは、羨望と、おそらくは寂寥感だった。
 牧は何食わぬ顔をして、彼だけのスピードで進んでいく。
 一度染み付いてしまったイメージは簡単には消えない。そうしてまた距離を離され、やがて摂理のように関係が終わるのかもしれないという想像は、そう突飛なものでもなかったと思う。もともと楽観的な性格ではなかったものが、二年の夏のアクシデント以降、悲観的な方向に寄っている自覚もあった。
「……いろいろ、忙しかったし」
「ああ。お前のほうが忙しかっただろう。監督になったばっかりで」
「そっちの実情よく知らないから、『ほうが』かどうかはわかんない。……でもさ、春休みとかまあまあ時間あったのに、なんであんな余裕ない時期から付き合いだしたんだろって、自分の行動を謎に思ってたんだけど」
「余裕がなかったからだろう」
 当然のような顔でさらりと言われ、拍子抜けしてしまった。
「あ、わかる?」
「わかるさ。参ってるときは却ってじっとしてられない。……そういうことじゃないか?」
「牧もそういうのあるんだ?」
 意外なことだった。それに対して安心感が湧いてしまうのは、性根が悪いのだろうか。
「まあ、あの時点でお前の行動をそう思ってたわけじゃないが」
「うん。突撃おうちデート、ただの思いつきのつもりだったけど。その思いつきがあのとき発生したのにも、理由があったのかもなーとか、割と最近思った」
「理由というか、きっかけというか?」
「……疲れてたんだろうね」
 チームメイトのことは信頼していたが、それとは違う場所が欲しかったのかもしれない。あるいは、可能性があると知って、牧のことを引き寄せたかったのかもしれない。
「そして疲れた羽根を休めに俺のところへ舞い降りた」
 何やら感じ入っている様子の牧に、藤真は顰め面を作って手の十本の指を鉤形に曲げ、モンスターが子供を脅すような仕草をした。
「休むはずがそこはセックス地獄!」
「天国って言ってくれ」
「嫌じゃないぜ? オレも好きだけどさ、セックス天国って言葉は人としてダメじゃね?」
 牧の言葉に、不健全で退廃的で、まるでこの世にそれしか愉しみがない人間のようなイメージを抱いてしまい、藤真はにわかに困惑する。
「そうか? まあ、あと会える日が結構限られてたから、日割り計算したら言うほどやってないと思うぞ」
「日割り計算する意味がわかんなすぎる。……毎日顔見るようになったら、却って回数減るかもよ」
「なんでだ?」
 牧は身を乗り出した。単純に不思議に思ったのだ。
「久々だから燃えるとか、来週のデート楽しみだな〜みたいなのがなくなるわけじゃん。一緒に住んで毎日会ってたら」
「一緒に住んでたってデートに出掛けるのは楽しみだろう。いや、お前むしろそういう風に思っててくれたのか?」
 一年付き合ってもまだ意外だと感じることが残っているとは。牧は相好を崩す。
「はぁ? お前まさか、オレの口から出ることが全部本心だと思ってる?」
「そうは思ってないが」
 強がっているときと悪態をついているときと本心とを、都合よく解釈するようにしている。牧はストレスを溜め込みにくい性質の持ち主だった。
「藤真の楽しみは、減るんだろうか? 一緒に住んだら……」
「なにいきなり弱気になってんだよ、めんどくせー」
 図太いかと思っていると意外と繊細だったりもする、牧のそのラインも藤真にはまだ把握しきれていない。そのうちわかるようになるのだろうか。
 藤真はさも仕方なさそうに言った。
「……一緒に住もうって言われたの、嬉しかったよ」
 牧は弾かれたように目を瞠り、藤真の体をぎゅうと抱き締める。藤真が嬉しいと言えば牧だって嬉しいのだ。
「痛い」
「すまん」
 謝りつつも嬉しそうに表情を和らげる牧に、藤真は照れくさいのと呆れるのとで溜め息をつく。
「お前さ、ほんと単純すぎない? まじ結婚詐欺とか気をつけろよ? だいたい一年も付き合ってない相手と同棲決めるとか軽率じゃね? もっと考えて行動したら?」
 愛らしい仔猫がミャーミャー鳴いている。茶色の柔らかな毛をしていて、撫でようとすると噛みついてくるが、それはいつも甘噛みで、きっと戯れついて遊んでいるだけなのだ。
「それを言うなら、お前だってあの時点で返事してくれたんだから同じだろう。それに、実質三年くらい付き合ってた感じじゃないか?」
「お前またそんなこと言ってんのかよ。実質とかねーから、付き合って一年だから。しっかりしろ」
 大して見てはいなかったが、テレビの映す番組がいつの間にか堅苦しいものになっていたので、藤真は適当にリモコンを弄ってチャンネルを変えた。
「でさ、いつ部屋を見に行くんだよ。来週とか? 物件巡り、姉についてったとき結構面白かったから行きたいんだ」
 牧は驚きに目を瞬いた。洗濯機のことといい、今日の藤真はすっかり同棲づいているようだ。交際一年の節目ということで、いろいろと思うところもあるのかもしれない。せっかく藤真がその気になってくれたというのに──牧は心底言いづらそうに口を開いた。
「来週は無理だ、俺はまだ大学確定じゃないんだ」
「えーっ!? なにしてんだよとっとと決めろよ! 深体大って言ってたろ、迷いだした?」
 藤真は盛大にブーイングをした。牧の志望校も、推薦の話があることも聞いていたし、自らはスポーツ推薦ですでに合格を貰っていたから、牧も決まっているものと思い込んでいたのだ。
「いや、希望先は変わってない。大学側の受付期間がまだなんだ」
「っても当確だろ? バスケの推薦でお前落とすとかありえねーし」
「だとしても、さすがに家を決めるのは……申し込み書類に不備がないとも限らないだろう」
「うわ、それ言われたらありそうな気がしてきた。お前たまにボケてるからさぁ、ちゃんとお父さんとお母さんに見てもらえよ」
「そのつもりだ。そういうわけだからもう少し待ってくれ」
 藤真は一瞬不服そうにしたものの、すぐに唇を緩やかな曲線にした。
「了解。楽しみだなー三茶」
「なんだ、もう住む場所を決めたのか?」
「え。だって、深体大の最寄り桜新町だろ。田園都市線で渋谷との間が三茶じゃん。……まあ間の三駅のどれでもいいんだけど、家次第かな」
 藤真の進学先は渋谷や表参道が最寄りとなる通称〝青学〟だ。それは知っているのだが、普段会話に出ない東京の路線名まで言われて、牧は目を瞬いた。
「なんだ、随分チェックしてるんだな」
「はあ? 別に、自分の進学先チェックするなんて当然だろ、お前みたいに呑気じゃねーんだよ」
 自分ばかり気が逸っているように思える今の状況は、あまり面白くない。藤真は目を据わらせたが、すぐに口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「花形も結構近くだぜ」
「……なんだって?」
「老人コントかよ」
 牧のとぼけ方が変に芝居掛かっていて、思わず声を上げて笑ってしまった。
「花形。あいつ東大受験するんだよ。で最寄りの駒場東大前駅ってのが渋谷から井の頭線で二駅」
 牧は苦々しい顔をした。直接の交流のほとんどない花形を、決して嫌うつもりではないのだが、彼はあまりに藤真と親しすぎる。難関大学の受験だ、合格するかどうかなどまだわからないだろう──そう言ってしまうのも酷な気がして、ただ口の中でガリリと音を立てた。
「なに? まだ飴食ってたのかよ?」
 牧に口移しで飴を渡したのはしばらく前のことだ。
「大事にしてたからあまり舐めないようにしてた」
「なんっっだそりゃ。へんなの」
 牧が少し消沈したように見えて、藤真はテーブルの上から飴を一つ取り、自らの口に含んだ。
「かわいそうだからもう一つあげる」
 そして牧の唇に自分の唇を重ね、舌で飴玉を押し込む。牧は飴を受け取りながら、藤真の体をがしりと抱いた。
「んんっ……」
 口の中から飴がなくなっても藤真は解放されず、しきりに唇を吸われ、器用な甘い舌で口腔内を蹂躙される。
(この味は好き)
 一緒に暮らすようになっても、日々は案外平穏ではないかもしれない。そう考えると、新鮮な感覚に胸が高鳴った。
(期待なんてしてない)
 しかしまだ少しだけ先の未来を、確かに待っているのだ。

<了>

蜜月カルテ 1

1.

「トリックオアトリート! トリックオアトリート!」
 インターホンに呼ばれてドアを開けるや否や、牧はバラバラと飴玉を投げ付けられていた。
「藤真……節分の豆と混ざってないか?」
「今年はどっちの方角向いてちんぽ咥えればいいんだ?」
「それは二月にやろうな」
「あっ! てか被ってんじゃん!!」
 藤真の右手と、視線の先の靴箱の上には、全く同じオレンジ色のカボチャがあった。上部が蓋になっているプラスチックの容器で、個装の飴やチョコが入っている。今しがた藤真が牧にぶつけたものはその中身だった。
「駅近くの雑貨屋だろう? 日持ちしないもんじゃないから別にいいんじゃないか」
(そりゃそうか)
 せめて自分の最寄駅の近くで何か探してくるべきだったか、そもそも何かしら用意しておく義理もなかったが──など思いながら、散らかったものを拾っている牧の脇をすり抜けて進むと、ダイニングテーブルの上にいかにも安っぽい黄色の袋が置いてある。
(牧ってセレブのくせにドンキ大好きなんだよな。いや、セレブだから逆にか?)
「そうそう、それだ。鏡があるほうがいいだろうから、ここで着替えてくれ」
 牧は壁沿いに設置してある大きな姿見を目で示した。例のごとく、藤真と付き合いだしてからこの部屋に増えたものの一つだ。
「俺はあっちで着替えて待ってる」
 牧が居室に入っていくのを見届け、テーブルの上に袋をひっくり返す。中から出てきたものは白いナース服とナースキャップのセット、白いストッキング、白のランジェリーだった。藤真は薄ら笑いを浮かべる。
(あいつ、看護婦さんとか好きなんだ?)
 以前にも天使がどうのと言われたことがあるので、清楚な系統が好みなのかもしれない。「ハロウィンのコスチュームプレイの衣装を一緒に買いに行こう」と朗らかに提案してきた牧に対して「興味ねーから一人で買いに行け、ただしあんまりひどい衣装なら着ない」と優しく返したが、女装は想定内だ。着てやってもいいだろう。
 衣装を選ぶとき、牧は迷ったろうか。それとも即決でナースだったのだろうか。多少気にならなくもない。
(でも男二人でエロコス買いに行くのはさすがにな。牧だけなら彼女に着せるのかって思うけど、二人だったら高確率でオレがナース着るんだってバレるし)
 ともあれ着替えだ。潔く全裸になると、まず白いショーツを手にする。面積の少ない布地にレースのフリルがあしらわれており、サイドを紐で結ぶデザインだ。
(まー正直紐パンの紐はほどいてみたいよな。自分がほどかれるほうとは思わなかったけど)
 裸も何も見せておいて今更恥じらうこともないだろうと穿いてみると、想像はできたものの、やはり布地に全く余裕がない。
(これ毛深いやつ毛がはみ出るだろっ!)
 なんとか全部収めただけ上出来だと思う。続いてブラジャーだ。
(いやブラ必要ねーだろ。……うん、必要ないな)
 よくよく見てみると、カップの中央部分にスリットが入っていて乳首が露出するデザインだったので、頭の中で盛大に牧を罵倒しながら却下した。
 次にストッキングのパッケージを手にし、写真を凝視する。
 下半身全体を覆うパンティストッキングとは異なり、股間から内腿と、両の太腿の外側は素肌が現れるようになっている。ガーターベルトのような形状で、サスペンダーストッキングという記載がある。
(エッロ! あいつ欲望に素直すぎるだろ!)
 そして藤真もまた素直にそれを穿き、鏡を見て、サスペンダー部分が綺麗に脚のセンターにくるようにしっかり調整する。求められればそれなりの結果を出したくなる性分なのだった。
(こんなの、イジるためと挿れるためのストッキングじゃんか)
 不覚にも興奮しそうになって、ぶんぶんと首を横に振る。早く服を着よう。
 ナース服は作業衣とするには心許ない生地でできていて、体の正面でジッパーで開閉するようになっている。藤真の記憶にあるものとは違ったが、所詮コスチュームプレイ用なので雰囲気が大体合っていればいいのだろう。丈長めとあるが、藤真が着ると結構なミニ丈だ。
(アクセス良好、てか。こだわりがエロ部分に偏りすぎてんな……)
 こんなものでもきっと牧は喜び張り切るに違いないと考えると、呆れながらも楽しくなってしまう。ウィッグはないのか、メイクはしなくていいのか、と思ってしまった自分が少し嫌だったが、仕上げにナースキャップをピンでしっかり固定する。ひととおり身に着けると姿見の前で腰に手を当て仁王立ちになり、自らの姿に頷いた。
(やっべ、オレ普通に似合うじゃん。知ってた)
 安っぽいと思ったものの、着てしまえば案外悪くないように見える。やはりナースキャップが愛らしく見える所以かもしれない。
 牧の扮装を薄々想像しつつ、居室のドアをノックする。
「牧? 着替え終わった?」
「ああ。いつでもきてくれ」
 ドアを開けると、スーツの上に白衣を羽織り、眼鏡を掛けた牧がベッドに腰掛けていた。髪は久々のオールバックだ。
(そっちだったか)
 自分がナースなら牧には医者か患者の二択しかないとは思っていた。
 牧は驚きと喜びの入り交じった表情で目を瞠る。
「藤真……! やっぱり似合うな、すごくいい! さあ、もっとこっちにきてくれ」
 両手を広げて迎える動作をすると、愛らしいナースがスカートの裾を気にしながらしずしずと歩いてくる。眺めているだけで股間が熱くなった。
 膝の間にまで近づいて自分の正面に姿勢良く立つ藤真を、頭の天辺から足の爪先まで、舐めるように見つめる。品よく整った面立ちに、清楚なイメージのナース衣装はとてもよく似合っている。更に、その白衣の下に大胆なものを隠しているのだ。自分の見立てを褒めてやりたいと思う。
「うーん、これは間違いなくうちのナンバーワンナース」
 牧の一方の膝の上に座ってしまいそうになって、藤真は慌てて体を退いた。
「あっぶね、流れでお膝に座りそうになった」
「いいじゃないか。ほら、先生のお膝に座りなさい」
 藤真の口にしたその単語が気に入ってしまい、牧は口元を緩めてパンパンと自分の腿を叩いた。
「うさんくせえ〜〜」
 藤真は眉を顰めながら口元には薄笑いを浮かべて、牧に対し体を横向きにして膝の上に座る。即座に逞しい腕が背後に回って腰を支えた。スカートが少し持ち上がって露わになった、白いストッキングに包まれた太腿に、牧は眩しげに目を細め、小さな膝頭の上にもう一方の手のひらを置く。
「ああ……いいな、小鳥が止まり木に止まってるみたいだ」
「???」
 藤真には理解に苦しむ例えだったが、牧が「いいな」「うーんいい」「いい……」と連呼しながら夢中になっているさまは気分のよいものだった。いろいろなものを投げ捨てて着てやった甲斐もあるというものだ。
 改めて牧を見つめると、藤真は奇妙な気持ちで目を瞬いた。
(あれ? なんか……)
 授業中眼鏡を掛けていると聞いたことはあったし、実際に目にしたのも初めてではないが、珍しい姿ではある。以前は上げた前髪にボリュームを出していたが、今は長さが足りないのか、素直に後ろに撫で付けるだけにしている。大差ないようでも印象は随分と違って落ち着いて見えた。そこにスーツと白衣が加わるといつも以上に年長に見え──藤真はその姿にいつになく落ち着かない気分になっていた。
(オレって実は老け専なのか? だから牧にハマったのか!?)
 自分の顔をじっと見つめている藤真に、牧は察したように苦笑する。
「三十七歳くらいに見えるとか思ってるんだろう」
「うんまあ、そうだけど……」
(でもそれがイイ、って言ったらめちゃくちゃ調子に乗るだろうなあ)
 好みとは別として、初めに抱いた印象も潰えてはいない。精悍な顔立ちに、穏やかな表情に、清潔な印象の髪型と眼鏡と白衣。それぞれは決して悪くないと思うのに、合わせてしまうとやはりどうにも胡散臭いのだ。
「お前、病院中のナースとやってそう」
「な、なんだと……?」
 そんな役作りはなかったので、思わず狼狽えて情けない声が出てしまった。
「どうせこうやって、誰も彼も膝に乗せてエロいことするんだろ?」
 藤真の視線の先では、すでに男の欲望がスラックス越しにその存在を主張している。牧は渋い顔をした。
「こんなのお前にしかしないぞ」
「そうかな。きっと院長の息子とかで、権力者でさ?」
「うさんくさいって、そういうことか? 俺は悪者に見えるのか?」
 藤真は訝しげな表情を作り、牧を上目で覗き込み、白い膝の上に置かれたままの色黒の手を見た。彼が温和で善良で──肉食の人間であることはよく承知している。
「悪者かどうかっていうと、やらせてるナースの側もイイと思ってるやつのほうが多そう」
「なんだそれは……爛れた病院だな……」
「病院モノってだいたい爛れてんじゃん?」
 当然のように言い放った藤真に、牧もまた疑いないような口調で言う。
「よくわからんが、とりあえずお前と出会って俺は真実の愛に目覚めるんだろう?」
「オレは『どうせ他のナースと同じでヤリ捨てされるだけなんだろうな』って思ってるよ」
「そこを俺が、ちゃんと本気なんだってことをお前のカラダにわからせていくストーリーだな!」
(結局ストーリーないやつだよねそれ)
 牧は藤真の膝に置いていた手を、太腿に向かってじわじわと、味わうように、ゆっくりと動かし撫で上げていった。ストッキング越しの肉の感触に新鮮な興奮を煽られる。
「ん……てか、お前が患者でオレが診察するプレイなのかと思ってた」
「それも捨て難かったが。いや、ドクターだって調子が悪けりゃナースに診察してもらうこともあるだろう」
 牧はニッと笑い、藤真は軽く溜め息をつく。
「調子悪いんですかぁ? どこ? 頭?」
「口の中」
「それは歯医者行けよ」
「そう言わずに診てくれ。あと乱暴な言葉遣いをするんじゃない。ほら」
 半開きの唇からべろりと厚い舌が覗く。藤真は牧の肩に手を置き、ちろちろと舌先だけでそれに触れる。味見でもするような愛らしい動作だった。じき、牧のほうから藤真の唇全体を食むように深くくちづける。
「んむっ…んんっ…!」
 音を立てて強く吸われ、舌を絡め取られて口腔内を蹂躙される。貪られる感覚に全身の血が沸き立ち、ぐらりと目眩がした。
 腰に回っていた手が小振りな尻を撫でて鷲掴む。もう一方の手はスカートの中に入り込んで、ストッキングに覆われていない内腿の柔らかな肌を味わっていた。
 ざわざわと、少しずつ確実に引き出されていく欲求に抗うように、藤真は強引に顔を背けて深いキスから逃れる。
「ぷはっ……! 熱がありますねー!?」
 褐色の頬に白い指先がぴたぴた触れる。少し熱いと感じる体温は、いつも通りではあった。
「ああ、そうなんだ。体が熱くて、モヤモヤして、あと股間がイライラする」
 意味ありげな視線を追って牧の股ぐらに目を落とす。とうに気づいていたことだ。
「……腫れてますね」
「だろう? 診てみてくれ」
 牧の膝から下り、股間に正面から向き合うように床に膝をつく。前を寛げると、すっかりいきり立った男根の姿が下着越しにもはっきりと確認できた。ナースはいかにも恥ずかしそうに目を逸らして医師を見上げる。
「先生、これ、どうすればいいんです?」
 藤真の上目遣いは非常に愛らしい。極端に背の高い者は常時この状態なのかと気づいたときには強い衝撃を受けたものだった。そこにナースキャップが加わると、愛らしさは更に苛烈だ。
「撫でてみてくれ。そうしたら落ち着くかも」
 言われた通り、下着越しにもしっかりとその形を確認し、感触を与えるように撫でさする。
「ナデ、ナデ……なんだか湿ってきたような」
「あぁ、動悸がしてきた……重病かもしれない、直接見てくれ」
 牧はいかにも楽しげで、藤真は密かに溜め息をつく。
(よく思いつく……まあ、付き合ってやるかな)
 下着を下ろすと、待ちわびていたように元気よく、勃起した男根が頭を覗かせた。
「たいへん! ビキビキに腫れ上がって、先っぽから汁を出してます!」
「膿が溜まってるのかもしれない。吸い出してくれ」
 更に下着をずり下げ、手のひらで重そうな陰嚢を持ち上げてゆるゆると弄ぶ。
「ああ、それで金玉パンパンなんですね!?」
「ナースは金玉とか言わない」
 先走りに湿った先端に、桜色の綺麗な唇が寄り添う。ちゅっちゅと可愛らしい音を立てて吸い付く、小さな刺激と背徳的な光景が堪らない。
「先っぽ、口に入れてみようか……」
 医者のイメージか、少し特殊なプレイをしている意識のせいか、なんとなく大胆なことを言っても許されるような気がしていた。藤真は従順に亀頭部を口に含んで舌の腹で撫でる。
「ああ……いいぞ……」
 暖かく包み込む感触に、しかし欲求は鎮まるどころか更に貪欲に、凶暴になる。
「もっと奥まで咥えて、鎮めてくれ……」
「ん、ぐ…っ」
 大きく口を開け、硬く膨張した男性器を息が詰まるほど押し込みながら、藤真は満足げに目を細めた。牧に求められるのは嬉しい。だからそれをごくシンプルに伝えてくる、彼の弱点でもあるこの器官が好きだ。翻弄したい。日ごろは泰然とした様子の牧が息を乱し、声を漏らし、微かに腰が揺れてくるさまなど堪らないものだ。
 口唇の動作に合わせて一方の手で根元を扱き上げ、もう一方でやわやわと陰嚢を愛撫しながら、藤真は暫し口淫に耽った。
「ああ……藤真、出る……」
「ウン…」
 口にしたものを離さないまま返事をして、ひとまずのフィニッシュに向けて追い上げていく。
「藤真、あぁ……ッ!」
 蠕動と共に、口内に欲望のエキスが弾ける。痺れる舌で、喉奥で、濃密な迸りを受け止め、丁寧に飲み下す。青臭いにおいが鼻を抜けた。
「はぁっ……! くらくらする……」
 頬を染め、目を潤ませ、溺れるように喘いだ藤真の唇から、白濁がねっとりと糸を引き、たわんで切れる。その景色に早くも次の衝動を感じながら、白々しい言葉が口をつく。
「大丈夫か?」
「先生のが伝染《うつ》ったかも……」
 牧は藤真の姿をまじまじと見つめ、口元にいやらしい笑みを隠した。
「ふむ、診察しよう。場所を変えようか」
「ば、場所?」
 手を引かれ、少し前に着替えをしていた姿見の前に移動する。
「ほら藤真、見てみろ」
「う……」
 興奮している自覚はあったが、生地が薄手なせいだろう、想像以上にありありと体の細部が浮き出してしまっている。着衣は乱れていないのに、非常に卑猥に見えた。鏡の中の、至極愉しそうな牧と目が合ってしまい、慌てて逸らす。
「こんなに乳首立てて、きっと患者とかもみんな気づいてたぞ。ブラ着けないからこうなるんだ」
 牧は眼鏡の奥で目を細め、布越しにもしっかりと存在をアピールしている二つの突起を指でくるくるなぞった。
「あんな頭おかしいブラつけるかよっ! んっ、ぁんっ♡」
 ナース服の襟元のジッパーを下ろして胸を露わにすると、白い肌を飾る薄紅の突起がいやでも目についた。いかにも触れてほしそうに上を向いたそれを捉まえ、手指でしきりに虐め、あるいは平らな胸を揉みしだく。
「はっ、あんっ…んぅうっ…」
 熱い手のひらに、太い節をした指の間に、乳首が擦れるたびに声が出てしまう。
「乳首は敏感、と」
「お前がやたら触るからッ…ぁんっ!」
 捻り上げると仰け反って大きく震えた、望むままの反応に気を良くして、牧は気が済むまでそこを弄んだ。そうするうちに乳首は充血し、乳輪はふっくらと腫れて、まるで女のようだった。
 鏡越しの視線はやがて下降して、藤真の腰に──体の中心に釘付けになる。
 女にはあり得ない膨らみが、不自然にスカートを隆起させていた。
「なんか隠してるな?」
「っ…!」
 褐色の手が白いスカートの裾の両端を掴み、勿体つけるようにゆっくりたくし上げていくと、太腿の内側と外側とに部分的に素肌を露出させた、ガーターベルトのような形状が現れる。牧は荒らぐ呼吸を落ち着けるように、細く長く息を吐いた。
「……このサスペンダーストッキングってやつ、素晴らしいな」
 自分で選んだものながら、ここまでそそられるとは思っていなかった。今回の買い物は本当に冴えていたと思う。藤真は呆れながら言った。
「お前、よくこんなの見つけたよな」
「ああ、ドンキはなんでもあるからな」
 更に少しだけスカートを持ち上げると、白いショーツのレースに包まれた、いかにも柔らかそうな膨らみが現れる。
「よし、一気にいくぞ」
 腰の上までスカートをたくし上げられると、藤真は咄嗟に鏡から目を背けていた。そこがどんな無様なことになっているかなど、自分が一番よくわかっているのだ。
「藤真……。ものすごくやらしいことになってるぞ」
 勃起した陰茎がショーツの腰ゴムを押し下げ、すっかりその上に露出してしまっていて、ショーツは陰嚢を収めて隠す役割しか果たしていなかった。
「これじゃあパンツじゃなくてかわいい玉カバーじゃないか」
「しょーがねーだろっ、女モノなんだからっ!」
 声を荒げながらも興奮しているようで、性器の先端にじわりと露の玉ができている。指で竿をつつくと、ねっとりと糸を引いて落ちた。
「あっ……」
「重症だな、早くなんとかしないと。ほら藤真、持て」
 藤真はスカートの裾を持たされ、自ら痴態を晒す格好になった。羞恥心が失せたわけではない。コスチュームプレイに乗ってやると決めたのだから今更拒絶などできないという、意地のようなものだった。
「ああ、やらしいな、本当にやらしい……」
 牧は手の上にローションを垂らすと、藤真の内腿と股にたっぷりと塗り付けた。
「な、なにっ?」
 背後から腰を摺り寄せられたかと思うと、脚の間、ショーツに包まれた陰嚢の下から色黒の男根がにょきりと顔を覗かせた。
「はっ!?」
「脚閉じろ」
 言われるまま脚を閉じて牧の昂りを挟むと、牧は腰を前後させ、藤真の太腿で自らの性器を扱きだした。
「なっ…! ヘンタイッ…!」
 視覚的ないやらしさも強烈なものだが、内腿も陰嚢も敏感な場所だ。そこをぬるぬると擦られる感触は、想像以上に快感として作用していた。
「ふぁっ、あぁっ…あんっ…」
 ナースの格好をして自らスカートをたくし上げ、女性ものの下着から性器を露出させながら、サスペンダーストッキングの股の間で男根を扱かれている。あまりにひどい光景だ。しかしその異様さに興奮しているのもまた事実だった。
(くそっ、こんなので……!)
 ローションが肌を伝う感触はそれだけで淫猥で官能を煽る。牧の下腹部に尻を叩かれ、太腿と、薄布越しの陰嚢を熱いもので何度も擦られる擬似的な行為に焦らされて、早く穿ってほしいと、まだ閉ざされた秘所が浅ましく収縮する。それだけでも充分に感じていたのに、すっかり敏感にされた乳首まで弄られるといよいよ耐えられなかった。
「ひゃんっ! あぁっ、や、んぅぅっ…!」
 指の腹で、爪の先で、巧みに執拗に乳首を攻められながら腰を打ち付けられるうち、本番と変わらない気分になって、体の内奥に快楽の波が起こるようだった。
「ぁうっ、んんっ、ぅ、ああぁっ…」
「やっぱり今日乳首すごいな」
 藤真はしきりに体を震わせ、目をとろんとさせて、ときおり唇を噛みながら身悶えている。陰茎は硬さを失い、だらりと下を向いてとろとろとよだれを垂らしていた。牧は極まったように深く息を吐き、耳元に告げる。
「藤真、いくぞ」
 一方の腕は崩れ落ちてしまいそうな腰を支えるように抱き、もう一方はしきりに乳首を愛撫しながら、牧は自らの快楽を追って腰を使った。自然、乳首に触れる指の動きもせわしなくなる。
「ぅあっ、あんっ、あ、ぁ、あぁぁっ…!」
「ッ…!!」
 濡れた粘膜を擦る音、体を打ち付ける音と、止めどない愛撫の果てに、牧の精液で股ぐらをねっとりと濡らしながら、藤真もまた小さく体を震わせていた。
 しかし全く物足りない。立ち込める雄のにおいがなけなしの理性を溶かす。
「センセ、オレ、そんなんじゃ……」
 腕にしがみついてきた藤真の体を支えながら、ゆっくりとその場に二人で腰を下ろした。
「困ったな、どうすればいいんだ?」
「お注射して、ナカにお薬飲ませて……」
「ああ、そうしよう」
 もはや焦らす余裕はなかった。ショーツの紐をほどいて取り去り、藤真に鏡のほうを向かせ、背面座位の形で自らの腰の上を跨がせる。萎えることを忘れたように、牧の男根は未だその堂々とした姿を保っていた。藤真はすっかり大胆になっているようで、牧の腰に自ら陰部を摺り寄せる。
 早く藤真と繋がりたい。自分のもので目一杯喘がせてやりたい。そのまま突っ込んでしまいたい衝動を抑え、藤真の窄まりに使い切りの潤滑剤のチューブを差し込んだ。
「あっ…んぅ……」
 冷たい粘液で体の隙間を満たされていくと、期待に心臓が震えて腹の底が疼いた。節くれ立った指が入り込み、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てて中を潤していく。
「っ、んっ……センセ、早く……」
「ああ……」
 声は甘く、火照った体は強請るように指を締め付ける。何の作用かはわからないが、そこはいつもより弛緩していて、挿入できるよう慣らすのにさほどは掛からなかった。期待に震える秘部に昂りをあてがい、一方の太腿を背後から抱え上げて体を沈めさせる。
「っ、あああぁっ……!」
 熱く猛る男根に体を開かれ、重力によって深く穿たれながら、藤真は苦しげに、しかし嬉しそうに喘ぐ。
「辛いか?」
「熱い…くて、きもちいい……」
「ああ、俺もだ……すごいな、こんなに拡がって、根っこまで咥えて」
 牧は鏡越しに藤真を見つめながら耳元に囁き、さも愛しげに結合部を指でなぞった。鏡の中では大きく胸元をはだいてスカートも腰まで捲れ上がったナースが、曝け出された白い肌の中心に、褐色の男根をしっかりと咥え込んでいる。下半身の露出が部分的でしかないことが、視覚的ないやらしさを際立たせていた。犯される自分の姿を見るとやはり興奮するようで、きゅうと中が締まり、肉壁がみっちりと吸い付いてくる。
「藤真、動けるか?」
「ぅ、ん…っ」
 ゆっくりと腰を持ち上げると、白い膚《はだ》との間にピンク色の粘膜を僅かにめくり上げながら、筋を浮き立たせた逞しい男根が姿を現していく。
(オレ、こんなの挿入《はい》って……)
 感触と視覚とで同時にそれを認めると、頭がおかしくなりそうなくらい興奮して、思わず体が震えた。全て抜けてしまわないうちに体を沈め、それを再び呑み込んでいく。
「あはっ…あぁっあっ…」
 体勢のせいであまり激しくは動けない、辿々しい感触と刺激的な光景とを愉しみながら、しばし膝の上で体を揺らしていた。

 やがてナースキャップとストッキングのみの姿にされた藤真は、床に四つん這いの体勢で背後から穿たれていた。
「やっ、あんっ…あぁっ、おくっ…!」
「奥、好きか?」
 鏡は相変わらず目の前にあって、顔を上げれば背後の牧と目が合った。上辺だけは落ち着いた佇まいの、眼鏡の奥の獰猛な瞳に、背筋がぞくぞくする。
「すきっ…! ぁんっ、あぁぁっ…!」
 なんて愛らしいのだろう。まるで自分が告白された気分になって、牧は夢中で腰を振って藤真の最奥を突いた。囀るような、歓喜の声が耳に心地よい。
「こっちも好きだろう?」
 尖った乳首を摘み上げるとひときわ体が跳ねた。
「ひゃんっ! そこっ、ぁめ…」
「なに?」
 愛らしい唇が何かを伝えようとするが、牧はそれより先に体を前に倒し、小さな顎を掴まえ、噛み付くようにキスをした。理由などない。ただの衝動だった。
「んぅ、んんっ…」
 小さな水音を立てながら気が済むまで唇を吸うと、離したときには紅を引いたように赤く色づいていた。動作を再開すると、ほどなくして藤真が甘い声を上げる。
「あ、んっ、せんせ…」
「それ、やめよう」
「…?」
「牧って呼んでくれ」
 藤真は目を細めただけだったが、了承して微笑したのだと牧には理解できた。
「まき」
「そうだ、藤真……」
 満足げな優しい視線と、甘えるような視線とが鏡の中で絡み合う。
 上体を前に倒し、今度は穏やかなキスをした。それから意味のある言葉はほとんど失せて、体を打ち付ける音と嬌声ばかりになる。
「あんっ、まき、あぁっ…あぁぁっ…!」
 藤真がいつもより大胆に声を上げるように、牧もいつもより余裕がない自覚があった。抽送を繰り返し恋人の中を味わいながら、感じやすくなっている様子の乳首を捏ね回す。
「ふぁ、あんっ! ひぁああぁあっ…!!」
 激しく突かれながら精液を注がれる感触と実感とに、藤真もまた絶頂していた。強烈な快楽の波に耐えるように、頭を床につけ、背を弓形にして、足の指をぎゅうと握って体を大きく震わせる。射精はない。ドライオーガズムだった。

「まき、まきっ…! あっあぁあぁっ…!!」
 ベッドの上で目一杯背を反らせ、充血した乳首を突き出しながら、快楽に染まった白い体が何度も痙攣する。牧は応え受け止めるようにその身を強く掻き抱き、淫らなうねりに搾り取られるように、もう何度目かになる精を吐き出した。
「あんっ、あぁ…ぁ……」
 魚のように苦しげに呼吸し、絶頂の余韻を引き摺るかのようにぴくん、ぴくんと体を脈打たせながら、その瞳は恍惚に細められている。
 すっかり空っぽになったままの頭で小さな唇を塞ぐと、力の抜けた体が腕の中でもぞもぞ蠢き、気怠げな声がした。
「んっ、も、むり……」
「ああ、俺もさすがに」
 すっかり馴染んでしまったかのような粘膜を引き抜くと、秘部はぽっかりと口を開き肉の色を覗かせたままで、しこたま注がれた白濁をどろりと零した。
「たっぷり搾り取られた」
「ゆっくりじっくりやったの久々だからなー……ふはっ!」
 視界の外で、シュッシュッシュッ! と勢いよく連続でティッシュペーパーを引き抜く音が聞こえ、それが妙に可笑しく感じられて、思わず笑ってしまった。
「どうした?」
「いやなんか、ティッシュの抜き方が力強くてツボった」
 ティッシュの束を受け取って、体を伝うものを拭いながら、のんびりとした口調で呟く。
「……よくわからんが、とりあえず機嫌がいいんだな」
 丸めたティッシュをゴミ箱に捨てるときも「えいっえいっ!」などと言って楽しげに投げ付けていた。事後すぐのタイミングにしては珍しいことだ。
「てか、ドライでいくと賢者タイムになんないからな。気づいてたか知らないけど」
 牧は仰向けに寝ている藤真に擦り寄り、体を抱えるように腕を回した。
「じゃあ、いつもそのほうがいいのか?」
「いつもイケるわけじゃないし、どっちでもいいかな……とりあえずやたら乳首弄られるとなりやすいかも」
「コスプレのせいとかは?」
「どうだろ」
 あまり無知なのもどうかとその手の雑誌で多少は勉強したが、そう詳しいことは知らない。ドライオーガズムは女性的な快楽というくらいだから、女装の影響も無くはないかもしれないが、一応意地もあって濁した。
(牧の老けコスのせいはあるかも)
「藤真、あれだな……さらっと言ってるが、気持ちいい手段がいろいろあるって、めちゃくちゃエロい体だな」
 こんなに綺麗なのにこんなにエロいなんて、誰にも知られないようにしないと、と牧は一人決意を固くする。
「お前のせいだろっ!」
 牧と付き合ってからのことだ。体の至るところが敏感になって、明確な性感帯が増え、射精のような終わりのない、強烈な快感も知った。もう女相手では満たされないと思う。
「そうか、俺のせいか……!」
 牧は心底喜ばしい気分でにこやかに頷く。牧の内心など知らない藤真は怪訝な顔をした。
「安心しろ、責任は取る」
「なんだよ責任って」
「お前を欲求不満にはさせない。いつだって必要以上に満足させてやる」
「いや、必要な分だけにしようぜ?」
 妙な言い回しは言い間違いなのか、本気でそう思っているのか、判断に苦しむものだった。ただとても満足げで──幸せそうな顔をしていると感じてしまうと、それ以上何を言う気もしなくなって、行為の興奮とはまた違った感触で体の内側を穿たれる気がした。
(気持ちいいから好きになったんじゃなくて、好きだから気持ちよくなったんだよな、多分……)
 少なくとも今はそう思える。どちらにしろ、求める先に違いはないのだが。
「単純だよなぁ」
「いいじゃないか、わかりやすいほうが」
 何のこととも聞かずに話を合わせてくる牧に、本当に単純だ、と改めて思う。
「そうだね。わかりやすいやつってからかい甲斐あって好き」
 好きならいい、などと思っているのだろう。牧の顔が近づいてきたから、藤真も目を閉じて、少しだけ上に顔を傾けた。

ラブファントム

「なん……だと……」
 合宿先のホテルを目の前にして、藤真の言葉を受けた牧は呆然と立ち尽くした。眉の下には暗い影が落ちている。
「あれ、どうしたんスか牧さん」
「邪魔しちゃ駄目だよノブ、先行ってよう」
 海南の二人の声も耳に入らず、あとについて来ていたほかのメンバー達にも追い抜かれながら、緑に囲まれた建物と藤真と、そのすぐ斜め後ろに当然のように居る花形とを順繰りに見遣った。
「だから、オレとお前と花形の三人部屋なんだってば」
「三人部屋なんて、そんな中途半端なことがあるか!?」
 いや、ない。そう言いたくて仕方がなくて、つい語気が強くなる。
「三人で四人部屋、って言えば納得するか? 施設の都合なんだからしょうがねえだろ。広い部屋になったんだからいいじゃんか」
 たかだか数日寝泊まりする部屋の広さなどどうでもよかった。藤真と二人で一人部屋でも歓迎するくらいだ。
「翔陽三人部屋にしようかと思ったんだけど、お前と話せるほうが都合いいし、花形の意見聞けるのも面白いかと思って。お前が邪魔だっていうなら追い払うしさ」
 藤真が都合がいいだの邪魔なら云々だの言うのは、今回の混成代表チームについて話し合うためであろう。安西監督からもその旨は聞いている。
「お前、わざとか?」
「オレの勝手で二人部屋が使えなくなるわけないだろ。それとも三人部屋だと困る理由でもあるのかよ、代表チームの合宿で」
「……ない……」
 むしろあってはならないのだ、藤真と二人きりで泊まりたかった理由など──。
 ようやく歩き出した主将二人に続きながら、花形は誰にともなく静かに溜め息をついた。

 練習のあと、夕食前に入浴するため、一同は着替えなどを取りに一旦部屋へ戻っていた。
「風呂だっ! 温泉だっ! いくぞ花形!」
「美肌の湯とか書いてたな」
「まじかよ、お肌スベスベになるじゃねーか! 牧も早くしろよ」
「ああ……」
 牧は力なく返事をすると、必要なものを持って二人のあとに続いた。まださほどの時間を過ごしたわけではないが、些細なことから藤真と花形の親しさを見せつけられ、その度に気力が奪われるようだった。抱き合う等の特別なスキンシップではない。あれどこやっただの、それ取ってだの、藤真は逐一花形に言うのだ。それだけのことではあるが、遠慮のない態度は単なる横暴ではなく信頼ゆえだと知っているから、有り体に言って嫉妬しているのだろう。大人気ないとは思うが、どうすれば気持ちに収まりをつけられるのか、まだ見出せていない。
 花形は鬼門だ。インターハイ地区予選のころにも、それで藤真と軽く揉めた。藤真だって忘れたわけではないだろうに──いや、忘れていないからこそのこの部屋割りなのだろうか。
(どういうつもりだ)
 悪ふざけなのか、あるいは合宿中は触れてくるなという強い意思表示なのだろうか。
(なら、言ってくれればいいだけだと思うが……)
「牧さん、眉間のシワがすげえっす。もしや翔陽のヤツらにいじめられてるんでは!?」
 脱衣所に来たものの、考え込みながらのらりくらりと服を脱いでいるうち藤真たちはすでに隣におらず、清田が怪訝な顔で覗き込んできた。その横で神が呆れたように溜め息を吐く。
「んなわけないだろ?」
 しかし牧は清田の言葉に頷きたい心地だった。

 一方、一足先に浴場に入ろうとしていた藤真は、その手前で仙道に絡まれていた。
「藤真さん乳首ピンクじゃないですか! えっちだな〜!」
 しかし藤真は全く動じない。
「そんなん色白いやつだいたいそうなんじゃねーの、流川とかもそうだろ」
「んー? どれどれ」
 仙道が流川に絡みに行って、すげなく追い返されて戻ってきたときにはすでに、藤真の姿は花形と長谷川に阻まれ隠されていた。覗こうとしても絶妙な位置でブロックされてしまう。
「いいじゃないですか見るくらい!」
「仙道なんかヤらしいからヤダ。観覧料取るかなあ。いくらがいいかな?」
 不毛なやり取りの一部始終を目撃しながら、藤真の乳首を弄っていいのは俺だけだぞ! と言うわけにもいかず、牧は近くにいた清田にぼやいた。
「仙道ってあんな奴だったのか」
「割と見た目まんまの印象じゃないすか? うさんくさいっていうか、人をナメくさってるっていうか!」
 二年の仙道は清田にとって一応先輩にあたるのだが、彼は海南以外の選手には礼儀を欠くところがあった。
「舐め……」
「牧さんも気をつけてくださいよ〜?」
 清田は牧のことを偉大なキャプテンで、尊敬すべき先輩だと思っているが、コートの外での穏やかな人柄にはシンプルに親しみを感じているし、他意は一切含まずに「俺牧さんめちゃめちゃ好き! 一生ついていく!」と公言して憚らない。ゆえに、牧が一目置く仙道は看過できない存在だった。
「要注意人物であることは確かだな……」
 あくまで選手としてのつもりだったが、それだけでもないかもしれない。今現在に限っては、花形(と長谷川)の存在が頼もしく感じられた。その調子で藤真の裸体を守りぬいてほしい。
「でも牧さんもめっちゃ藤真さんのこと気にしてますよね」
「そりゃするだろう、翔陽のキャプテンだし、藤真のことは一年のときから気にしてる。別におかしいことじゃない」
「うーーん。そういうもんっすかね……」
 翔陽のキャプテンと言われたところで、彼らと公式戦で当たることは今年度はもうないはずで、試合での藤真のプレイをあまり見たことのない清田は、牧が藤真を評価する理由を実感できずにいた。顔が中性的で可愛らしいから気に入っているのだろうと思っている節はあるが、さすがに当人にそれを言ったことはない。

 牧が湯に浸かっていると、いつの間にか近くに来ていたらしい仙道の声が耳に入ってきた。
「藤真さん、白い肌がほんのり染まって、顔もちょっと赤くて、しかも花形さんの隣にいるからやたら小さくて可愛いように見えるんだよなぁ。可愛いって言われるの嫌いなら一緒にいるのやめたらいいのに」
 仙道の視線の先には確かにその通りの光景があったが、語りかけの形ではない、不自然に大きな独り言を、牧は無視することができなかった。
「印象を歪曲して広めるような言いかたはやめろ」
「あ、やっぱ気になっちゃいます? 牧さん」
「……」
「そんな怖い顔しないでくださいよ。俺は意味深なこと言うのがシュミなだけなんで、別に藤真さんとはなんにもないですからね?」
 含みのある笑顔の胡散臭いこと。藤真の周辺について、花形とはごく健全な関係であることは理解している。しかし仙道はなんだ。以前藤真に尋ねたときは、後輩だから可愛がってるだけだとか言っていたが、自覚していないだけで狙われているのではないだろうか。
(花形、一志、ガードが甘いぞ!)
 悶々としながら、視線の先の翔陽組に八つ当たりのように念を送った。

 風呂上がり、着替えてコーヒー牛乳を飲んでいると、藤真が話しかけてきた。
「牧、これ知ってる?」
 長い睫毛の烟る瞳は柔らかに細められ、桜色の唇は愉しげな弧を描いている。
(顔がいい……藤真は本当に顔がいいな……)
 目に心地よい容貌は、どれだけ見ても見飽きない。合宿が始まってからというもの、予期せぬストレスに晒され続けてきたから、至極癒される心地だ。ストレスの根本もまた藤真なのではあったが。
「えいっ」
 惚けた様子の牧の頬に、藤真は手にした袋を押しつける。
「んんっ!?」
 不意の冷たい感触に、牧はようやく藤真が手にするものを見た。手のひらサイズのビニール包装の中に、白く丸いものが入っていて、たまごアイスという商品名が書いてある。
「おお、懐かしいな。まだあったのか。しかし、こんな名前だったか?」
 楕円型の小さな風船の中にアイスが詰められているもので、子供のころに食べた記憶があった。
「なんだよ知ってんのかよ、つまんねー」
 とたんに藤真が不服そうな顔をした。地域によるのか育った環境によるのか、藤真の〝懐かしネタ〟が牧にはときおり通じないことがあった。それを期待したのだが、今回は当てが外れた形だ。
「知ってるぞ? タメ年だからな?」
「知らなかったらラストのビュルル! って噴射するとこ見て笑おうと思ってたのに」
 牧にも覚えはあった。残り少なくなって手の熱で溶けたアイスが、容器となっているゴム風船の収縮によって一気に飛び出すのだ。
「じゃあ俺が見ててやるから藤真が食べるといい」
「えー。てか昔はなんとも思わないで食ってたけど、ゴムしゃぶるのってなんか卑猥だよなー。どういう意図で考えたんだろこのアイス」
 ごく朗らかな調子で言われた内容に、近くで牛乳を飲んでいた三井が盛大に噎せていた。
 それを視界から遮るように、花形が現れる。
「藤真、ハサミ借りてきたぞ」
「おっ、サンキュ」
 ハサミを受け取った藤真は牧の背後に一瞬視線を遣ったあと、くるりと向こうを向いてしまった。直後
「牧さぁーん! あっちにマッサージチェアがありますよ! マッサージしましょうよ!」
 清田の威勢のいい声がした。
(こいつのせいか……)
 牧は内心で深く溜め息をついた。清田のことが嫌なわけではないが、藤真がゴムをしゃぶって白い噴射に襲われる様を見られなかった落胆は大きい。
「いや、俺は別に……」
 そんな牧の悲しみなど知る由もなく、清田は浅黒い腕をぐいぐいと引っ張って行ってマッサージチェアに座らせた。怖いもの知らずという言葉は彼のためにある。
「スイッチON!」
「うおっ!?」
 清田が気合とスイッチを入れると、肩が、脚が、ぐいんぐいんと揉まれ始めた。意外な感触に、牧は目を瞬く。
「ほう、これはなかなか……?」
「この辺のスイッチはなんだろ。とりあえず押してみっか!」
 スイッチがあると押してみたくなる体質の清田は、操作盤を思うままに弄った。
「おぅっ!?」
 体の至るところに複雑な振動がきて、牧は体に電撃が走ったかのような感触を受ける。
 マッサージチェアで感電などしないだろうが、牧の体の跳ね具合にそれに近いような印象を受けて、神は慌てた。強度が強すぎるのだろう。
「わああっ! ノブ、元に戻してっ!」
「ええっ? 元ってどれですか神さん!」
「知らないよ! 自分がやったんだろ!」
 牧が殆ど黙り込んでいるのもまた恐ろしい。あーだこーだと言い合いながらようやくマッサージチェアを止めると、解放された牧は軽快な動作で立ち上がり、寝起きのように伸びをした。
「ふむ、体が軽くなった。マッサージチェア侮れないな」
「まじっすか!? すげえっす牧さん!」
「ええっ、牧さん……ほんとうに……?」
「これは家具屋に売ってるのか? 電気屋か?」
 半ば本気で購入を検討しながら、牧はマッサージチェアの周囲をぐるりと周ってその様子を観察した。
 今の部屋には置き場所がないが、もうじき引っ越すから、そのときに藤真と一緒に──などなど考えながら部屋に戻ると、おぞましい光景が目に飛び込んできた。
「ああ〜っ! いい…っ♡」
「ここか? ここがいいのか? 藤真」
「あっ、あ……花形やっぱすげーうまい……」
 一つだけ敷かれた布団の上に藤真がうつ伏せに伸びていて、その脚を跨いで花形が背中を押している。自らが体験してきた直後だから、マッサージをしていることはすぐに理解できたが、藤真の発言がとにかくよくない。
「花形の手、気持ちいい。もっとして♡」
 花形は体を下方へずらし、藤真の足を捕まえた。
「あぁ〜……くるぶし、いいっ……♡」
 花形が手のひら、側面、手の下部などを巧みに使って藤真の足を揉みしだくたび、藤真は敏感に反応を示した。
「おおっ、効くぅ……!」
(マッサージチェアじゃなくて、俺もマッサージを覚えるかな……)
「なんだよ牧、こっち見て。お前もしてほしいのか?」
 されたくはないがしたい。と花形の前で言ったら藤真は怒るだろうか。そんな思いが花形に読み取られてしまったかのようだった。
「結構力要るが、するのも意外と楽しいぞ。押せば鳴るって感じで」
「あ゛〜♡」
「……確かに楽しそうだ」
 押せば鳴る藤真など、大層可愛いしそれはそれは楽しいことだろう。しかし、花形は藤真の体に触れていて何も感じないのか、まだ若いのに枯れているのではないだろうか──自分を基準にしてそんなことを考えながら少しの間眺めていたが、居た堪れなくなって立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
「散歩」
「おっさんくせー」
 マッサージに骨抜きにされているやつには言われたくない、と思いながら牧は部屋をあとにした。

 庭などをひとしきり見て回って部屋へ戻ると、藤真は体にタオルケットを掛けて布団で眠ってしまっていて、花形はかたわらの座卓で参考書を開き勉強をしているようだった。
(俺だったら多分添い寝してるな)
 牧は安心したような身につまされるような思いで座椅子に掛ける。
「すまんな、藤真がマッサージしろって言うから」
「え?」
「チームについて打ち合わせする予定だったんだろう」
「あー……」
 聞いていたのか。それは聞こえているだろう、常に藤真の背景のような位置にいるのだし。一人納得しながら小さく頷いた。
「別にお前が謝ることでもないだろう」
 打ち合わせができなくなったのはマッサージをしたせいではなく、今藤真が寝ているためで、起こせばよいだけの話だ。
「……」
「……」
 天使のような寝顔を見せる藤真を二人とも起こすことができず、結局夕食の時間まで寝かせたままにしてしまった。食後すぐ寝るわけではないだろうし、チームの話はそのときでいいだろう。

 夕食後、部屋に戻ると、藤真が白いビニール袋をガサガサさせていた。
「なんだよ、とんがりコーン買ってんじゃん。ゴミかと思った」
 入浴のあと、売店に寄って菓子を買い込んできたときのレジ袋だ。ひとしきり食べたつもりだったが、まだ未開封のままのスナック菓子が残されていたのだ。
「ああ……」
 花形は本を開きながら浮かない様子で返事をする。彼にはそれを食べられない理由があった。藤真はすぐにピンときた顔をする。
「あ。アレがない」
「……しくじった」
「牧、こいつさ割り箸でスナック菓子食うんだぜ、手が汚れるからって」
 藤真は至って楽しげに言いながら、バリバリと豪快にスナック菓子の包装を開けた。しかし話を振られた牧は全く楽しい気分にはなれない。まだ丸一日も過ごしていないが、花形に対してはすっかり無気力で投げやりな気持ちが根付いていた。言わずもがな藤真のせいである。ただ、元来穏やかな性格のためそう無愛想にはしない。
「……潔癖症なのか?」
 言っているそばから、藤真が円錐型のスナック菓子を指に嵌めて花形の口に押し込み、花形は特に嫌がらずにそれを食べていた。牧は唖然としてそれを眺める。潔癖症ならば他人の手からスナック菓子は食べないだろう。
「別に手が汚れるのが嫌なわけじゃない。本とかノートとかペンとかいろんなものに油がつく」
「拭けよ!」
「拭いたって油はつく。あとティッシュの無駄だ」
 もごもごとスナック菓子を頬張りながら、花形は器用に落ち着いて話す。その横から藤真の指によって次々菓子が突っ込まれていく。
「ったく、とんがりコーンを指に嵌めて食わないなんて人生損してるよな」
「俺だって子供のころは正しい食べかたで食べてたぞ」
(翔陽って頭いいんじゃなかったかな……)
 複雑な気持ちで二人のやり取りを眺めながら、特に損はしていなさそうだ、むしろ得しているのではないかと思ってしまった。
「牧も食えよ」
 そう言って座卓の上に大きく開かれた袋を示されたものの、花形にしているように食べさせてはくれないようだ。確かに、本を読んでいるわけでもなければ、スナック菓子を手掴みしないポリシーもない。
「やっべ、すげー久々に食べたなこれ」
 そう言いながら、自らの指に嵌めたとんがりコーンを自分で食べている藤真は猫のようでとても可愛らしい。
「うむ……」
 不意に、牧の目の前に三角に尖った藤真の指先が現れた。
「!!」
 予想外の展開に、勇んだ牧は白い指ごとそれを口に含んで受け取り、粉も残さないようにしっかりと舐め取った。藤真は思いきり顔を引き攣らせ、かつて見たことのないくらいに冷たい目で牧を一瞥し、以降その手からとんがりコーンを食べさせてくれることはなかった。
(調子に乗りすぎたか、難しいな……)
 今度藤真を家に呼ぶ機会にリベンジしようと思う。

「うし、じゃ寝るか。明日そこそこ朝早いからな、寝坊すんなよ」
 三つ並べて敷いた布団の真ん中に潜り込み、機嫌よく言った藤真に、花形が胡散臭げな視線を向けた。眼鏡のレンズを通さない、素顔の視線だ。
「誰に言ってるんだ?」
「え? 二人じゃんか」
 そんな些細なやり取りにも、すっかりささくれ立った牧の心は刺激されてしまう。花形の言い分は、まるで藤真の寝起きについて知っているかのようだ──落ち着いて考えれば、一緒に過ごした時間の長さがあまりに違うのだから当然のことなのだが、今の牧は朝からの度重なる不遇により、彼にしては珍しく卑屈になっていた。
「じゃあ消灯! おやすみ!」
「おやすみ」
「おやすみ……」
 部屋を真っ暗にしてしばらくのち、藤真が眠りに落ちようかというときだった。
「!」
 布団の中の藤真の腕を何者かの手が掴んだ。左手側、牧だ。寝惚けているのだろうか。右手側からは花形の規則正しい寝息が聞こえている。起こしては悪いだろうと、ひとまず事態を静観することを選んだが、このときに声の一つでも上げておくべきだったかもしれない。
 掴まえた腕を少し下に伝い、牧の手が藤真の手を握った。思えば牧とこうして触れ合うのは久々だ。微笑ましく、くすぐったい気分になりながら握り返し、指を絡めて戯れていると、牧の体が寝返りを打つ要領で転がり、藤真の布団の中に入ってきた。
「!!」
 硬直する藤真の体に腕を回し、頭を擦り寄せていたかと思うと、左の頬に唇を押し当ててくる。無視していると、大きな手が右の頬を包み込み、やがて唇にキスをされた。
「!!!」
 唇を重ねたまま、手は首筋を撫でて下降し、Tシャツ越しに胸をまさぐる。
(花形が隣にいるのに!)
 意識すると妙に興奮してしまい、牧の手の感触にざわざわと全身が総毛立つ。
 シャツの上からでもごく僅かに飛び出した胸の突起を、牧は指先に捉えて摘み上げた。
「っ…!」
 息を漏らし、小さく動いた藤真の唇を割って牧の舌が口の中に侵入する。舌の腹を使って強引に、無遠慮に藤真の舌を撫でながら、手はシャツをたくし上げて直接乳首に触れていた。
 柔らかな皮膚の中心に硬く勃ち上がった愛らしい感触を、指先で苛めるように押し潰して転がす。執拗に続けるうち、藤真の息遣いは熱を帯び、不埒な欲求を孕んだ舌先がねっとりと牧の舌を撫でた。脚をもぞもぞさせる動作に誘われて、藤真の股間で頭をもたげているものを掴まえる。
「んっ……!」
 水音を立てていただけだった唇から、ごく小さくではあるが声が出てしまった。しかし牧はまるで構わない様子で布越しに愛撫を続ける。
「んぅうっ!?」
(それはダメだって!)
 動揺から、じゅるりと唾液を啜る音もこぼれる。体を押し返そうにも力が入らず、藤真はようやく思い至って牧の手の甲を思いきり抓った。
「い゛っ…!」
「シーッ!」
 堪らず声を漏らした牧に、憤りながら静粛を促す。しかし牧は懲りずに股ぐらに手を伸ばしてくる。徹底的に悪戯してくるつもりらしい。音が出てしまうので殴るわけにはいかず、藤真は牧の頬を抓ったり、髪を引っ張ったりするが、牧の体を傷つけてはと思ってしまい、どうにも抗えずにいた。
 静かな攻防ではあったが、音のない夜に布団と二人の体の擦れ合う音は案外と大きなものだった。藤真の右手側から声が上がる。
「藤真? どうした?」
「ふぇっ!? なにが!?」
「なんか、バサバサ言ってたような」
「牧が寝相悪くてさっ……!」
 花形の声を聞いた瞬間、牧は咄嗟に藤真の布団に頭まで潜っていた。現在牧の布団は空になっているのだが、この闇の中で、まして花形の視力では確認できないだろう。
「場所替わるか?」
「だ、大丈夫……!」
 今替わろうものなら、藤真の布団の中の牧の存在が花形に知られてしまう。牧を変質者にするわけにはいかない。
「っっ…!」
 そんな気も知らずに、牧の手は布団の中で藤真の太腿や尻を、音を立てないように慎重に撫で、揉みしだいていた。藤真は冷や汗をかきながら声を堪える。
(なんでオレがこんな目に……)
「そうか? お前がいいならいいが、我慢できなくなったら替わるから起こしてくれ」
「あ、あぁっ……!」

 各部屋にもトイレはあるが、二人は部屋から離れた廊下にある共用のトイレに来ていた。
「お前ちっとは我慢しろよ、サルかよっ!」
 藤真は個室に押し込まれながら、声を潜めて抗議する。
「昼間散々煽ってきたのはどいつだ?」
 牧は藤真のハーフパンツと下着を下ろし、便座に座らせながら、丁寧に足から抜き取って個室のドアのフックにしっかりと引っ掛けた。
(あっ、そこは紳士なんだ……)
 一瞬感心してしまったが、こんなことで懐柔されるわけにはいかない。脚を閉じて前傾姿勢になり、腕で性器を覆い隠しながら、キッと牧を睨みつける。
「煽ってねーし、オレと花形は普通にしてただけだしっ」
「俺がお前たちの普通のスキンシップを気にしてるってことを、お前は知ってる」
「そんなんじゃ不便だろうから、慣れさせてやろうと思って」
「別に必要ないだろう。お前らが一緒にいるのなんてあと少しのことだ」
 棘のある言葉が出てしまったと、にわかに狼狽えるが、藤真の態度が追い討ちをかける。
「花形は友だちだから、別れるとかねーし……んむっ」
 珍しいくらいにしおらしく、寂しそうにするのに苛立って、咄嗟にキスをして言葉を奪った。
「それに、なんだあのやる気のない抵抗は。あんなんじゃ本物の変態に襲われたら……」
 自分から言いだしたことではあるが、考えたくなくなって言葉を切った。
「本物のやつにはそりゃ本気で抵抗するだろ。目に指を突っ込んで金玉蹴っ飛ばしてやる」
「お前、案外恐ろしいことを言うな……」
 冗談でも、後ろから不意に襲ったりするのはやめておこうと思った。
「それじゃあ、俺は許されてるってことだな」
 牧は機嫌よさげに藤真の両の膝を折りながら持ち上げ、便座の上に踵を乗せさせた。
「ふむ、模範的なM字開脚。いい眺めだ。表情もいい」
 半勃ちの性器をまざまざと晒す格好にされ、藤真は羞恥に顔を赤くしたものの、牧を睨みつけるだけで抵抗はしなかった。トイレについてきたのも、大人しく下を脱がされたのも、応じなければ牧の気が済まないだろうと思ったためだ。腹は括っている。
「マジックペンを持ってくればよかったな」
「なんで?」
「よくあるだろう。ここに〝正〟を書き連ねていくやつ」
 牧は藤真の太腿の内側に指先で直線を書いた。
「ええ、お前ってそういうの好みなの……」
 藤真はぴくりと眉を動かして顔を顰めた。牧は性欲が旺盛なのと、多少マニアックなところがあるとは思っていたが、鬼畜なものを好むイメージはなかった。
「特に好みってわけじゃない。たまたま見かけたんだ」
「たまたま見かけるもんかなぁ? まあいいや、とっととやれよ。オレは早く寝たいんだ」
「そんな言いかたをするな。お前はそういう、処理みたいなのは嫌いだろう?」
 牧は藤真のシャツを捲り上げ、ツンと上を向いた乳首に唇を寄せて吸いついた。
「ぁっ!」
 軽く歯を当てながら舌でねぶり、あるいは強く吸って、じっくりと快感を与えていく。もう一方もしきりに指先で捏ね回した。
「あン、んんっ…!」
 藤真は堪らず声を漏らし、何度も体を跳ねさせる。牧と体を重ね、触れられるうちにすっかり敏感になってしまったそこは、もはや性器と呼べるまでに強い快感を感じるようになっていた。
「ふっ…あぁっ…」
 股間のものがすっかりと張り詰めて、行儀悪く先走りを滴らせていることが感触でわかる。
(こんなとこでしといて……)
 合宿が終わるまで待つこともしない、衝動に任せた行動だろうに、牧があくまで丁寧に振る舞おうとすることに苛々した。そして、まんまと絆され流され、快楽が欲しくて仕方がなくなっている自分に対しても。
「ひゃんっ!」
 乾いた指先で鈴口をなぞられ、藤真は思わず高い声を上げた。
「そう人は通らないだろうが、あんまり声は出さないほうがいいんじゃないか?」
 咎めるように言いながら、牧の唇は愉しげな弧を描いている。藤真は気まずい思いで小さく呟いた。
「ああ、そ、そうだな……ッ」
 言いきらないうちに性器を舐められて、言葉の最後は声を揺らして呑み込んだ。
 牧の目にそれは涙を流しながら期待に震えているように見えて、愛しくて仕方がなかった。散々つれない態度をとってきていながら、結局は求めているのだ。感触を、脈動を味わうように丁寧に舌を這わせ、やがて口腔内に咥え込む。
「っ…! あ、ぁっ…」
 股ぐらに顔を押しつけ、貪るように口淫されて、藤真は堪らず仰け反った。わざとだろうが、下品な水音にも興奮してしまう。藤真だとて牧に触れられるのは久々だ。口唇と舌にもたらされる感触は味気ない自己処理とは全く違って、すぐに達してしまいそうだった。
 そんな藤真の状況もよくわかっているかのように、牧は顔を上げた。肉厚な唇の先に、体液がねっとりと糸を引く。
「牧エッロ…」
「どっちが」
 牧はポケットからコンドームの個装を引っ張り出した。ピリ、とビニールを千切る軽い音がしたから、忍ばせているのは一個だけではないだろう。藤真は大袈裟に顔を顰める。
「なんだ、ナマのほうがいいか?」
「そういう意味じゃない」
 牧は個装を破いて円形のゴムを取り出すと、藤真の性器に被せた。
「はっ? さすがにお前の尻には興味ないんだけど?」
 面食らって見上げると、牧は愉しげに笑っていた。
「違う。汚れないように」
「ああ……?」
(そんな気遣いするならこんなとこでやらなきゃいいのに。あと、牧のサイズだとちょっとでかいんだけど……)
 以前コンドームを買う際に牧のサイズを測ったから、よく知っているのだ。
 牧は薄い皮膜に包まれた藤真の性器に目を細める。
「これはこれでエロいな」
「お前、ところどころで変態がはみ出てくるな」
「生足よりストッキングのほうがセクシーみたいなことだ」
「……感受性豊かなんだね」
 牧の感性に真面目に寄り添う気はなかった。藤真は目を据わらせるが、牧はさも愛しげに、淫猥なピンク色に染まった性器を指でなぞる。
「キャンディみたいでおいしそうだ」
「もう老眼かよ、お先真っ暗だな」
 表面に塗布された潤滑剤を指に絡め取り、藤真の脚の間の窄まりに差し込んだ。
「っぁ…!」
 すっかり行為に慣れた体は、指一本程度なら容易く受け容れてしまう。入り口をほぐすように指で掻き回すと、悦んで指を深く咥え込むように収縮した。
「もっと欲しいって?」
 牧は指を抜くと、ポケットから使いきりサイズの潤滑剤を取り出す。
「お前、ほんと最低」
「仕方ないだろう、こっちに着くまでお前と二人部屋だと思い込んでたんだから」
「二人部屋でもだろ! なにしに来てんだ合宿に!」
「藤真、意外と頭が硬いんだな」
 藤真はむっつりとして口を噤んでいる。
「怒ったのか?」
 特に心配もしていない調子で言いながら、潤滑剤のチューブの細長い口を、物欲しげな箇所に差し込み、粘性の強いローションを注入する。
「ふぁ、あぁっ……」
 藤真は声に明らかな快感を滲ませながら身震いした。
「お前、さっきから言ってることと反応が噛み合ってないぞ」
 牧はだらしなく緩みそうになる表情をなんとか保ちながら、挿入した二本の指で藤真の中を丁寧に慣らし、潤していく。
「っ、あ、んんっ……しょうがねえだろ、そういうお年ごろなんだからっ」
 声は甘く、吐息はすっかり湿ったものになっていた。
 男のものとは呼べない快楽の存在を、藤真の体はすでによく知っている。中が畝り、牧の指の感触を味わおうとするのが自分でもわかった。しかしそれでは足りない。奥が疼き、もっと太く大きなものが欲しくて堪らない。
「なら、俺だってお年ごろだ」
 牧は言うと、身を屈めて藤真に深くキスをした。唇と視界を塞ぎながら、自分のものに手早くコンドームを着け、すっかり潤んだ藤真の秘部に押しつける。
「んむっ! んんっ……!」
 大きく張り出した牧の欲望が、肉の門を押し拡げて体の内に潜り込んでくる。藤真はその感触と、体を開かれる異様な興奮とに身を仰け反らせた。ローションの滑りでずるりと入り込んだそれは、しかし先端を含ませた程度で動きを止めてしまい、藤真の望む箇所までは到達しない。
「牧?」
 強請るような声に、牧は思わず苦笑する。
「……あんまり意地悪しないでくれ。俺だって傷つくんだ」
「意地悪? って?」
「今日、なんで花形と三人部屋になったんだ?」
 全ての元凶はそれだ。二人きりが無理だというのでも、牧だとて聞き分けがないわけではない。人選によっては充分に納得できたはずだ。しかし藤真には明らかに他意がある。結果、牧は小さなストレスの積み重ねから藤真に悪戯を仕掛けるに至った。
「なんで今その話?」
 藤真は早く先に進めたいとでも言うように自ら膝を抱え、牧のものを締めつけてくる。牧は小さく息を漏らした。
「あとからじゃ教えてくれない気がする。話が終わったら続きをしよう」
 朝だって、施設の都合だとかいまいち納得できないことを言っていたくらいだ。藤真は不思議そうに牧を見つめると、迷う様子もなく言った。
「思いつきで。面白いかなと思って」
「……」
 脱力した。藤真の顔を見ていると、本当にそれだけのようだ。確かに、お気に入りの花形と、恋人の自分とを並べれば、藤真にとっては面白いのかもしれないが──。
「牧は花形のこと嫌いみたいだな」
 強豪校の監督を務める男が言うにはあまりに子供じみた言葉だったが、自分に接するときの彼はほとんど年相応であることもよく知っている。
「嫌いとか好きとか言うほど知らない。……別に知りたくもないが」
 花形情報を教えられても困るので、慌ててつけ加え、ゆっくりと体を進めた。
「あ、あぁっ……」
 気持ちいいようで、藤真はうっとりと目を細めている。
「奥好きだもんな、藤真」
 言いながら、根元まで挿入してもなお腰をぐいぐいと押しつける。
 最奥を突かれ、藤真は堪らず悶絶する。
「あぅっ! あんっ、あぁっ…」
「あぁ、奥の口が先っぽにキスしてくるみたいだ」
「っ…BL小説の読みすぎ!」
「俺は小説は読まない」
「偉そうに言うことじゃねー!」
 愉しげな牧を睨みつけるが、腰を動かされると表情は簡単に愉悦に歪み、唇から情けない声が漏れた。
「あぐっ、あぁ、ぁっ……」
 腰をゆっくりと引き、再び奥まで貫いて、長いストロークを描きながら、藤真の性器を握った。ゴムの中はすっかり濡れているようで、扱くとぐじゅぐじゅと卑猥な音がした。
「んんっ…! んぅっ、むぅ…!」
 ストレートな快感に、藤真は慌てて手で自らの口を塞ぐ。体が跳ねてしまうたび、貫かれた肉杭に戒められるようだった。
「ああ、締まる……」
 牧は藤真の性器を愛撫しながら抽送を続けた。
 柔らかな髪を揺らし、眉を寄せ目を細めて快楽に喘ぐ、美しい体の内側では粘液を帯びた肉壁が貪欲に男の欲望に吸いついている。淫らな光景と、自らが求められている実感とに、快楽と至福とが綯い交ぜになって、ただただ藤真のことが愛しかった。
「あぅ、ああっ、あ……!」
 コンドームの中に先に吐き出された藤真の精液が、牧の手の動作によってゴムの下端から溢れ出し、やがて二人の結合部を濡らす。
 耳もとで名前を呼び、好きだと呟くと、応えるように牧の腰に藤真の脚が巻きついた。頭はとうに働かず、昼間感じた小さな苛立ちも理不尽さもすでに忘れ去って、牧は肉体が満たされるまで藤真を求め続けた。

 翌日の朝食時、三井が同じテーブルの赤木の顔をまじまじ見ながら言った。
「どうしたんだ赤木、なんか浮かない顔だな?」
「うむ……」
 ほかの面々の中にもそれを感じていた者はいたが、赤木はもともと精悍な顔立ちであるし、他校の人間からは微妙に問い質しにくかったのだ。
「別に、枕が変わると眠れねーとかってタイプでもねーだろ?」
 赤木は重々しく口を開く。
「実は昨日の夜中、廊下を歩いていたら、苦しそうな女性の呻き声が聞こえてな……」
 三井の隣で宮城が声を上げた。
「女? 今ってオレたち以外に客いるんですっけ?」
「見かけないよな。従業員? ていうかそれって本当に苦しんでたのか?」
 三井は口もとを歪めて笑いながら赤木に訝しげな視線を向ける。その表情を見て、宮城は察したように同調した。
「おおっ! そうッスよ、だって、オンナでしょう!? それも夜中に!」
「ん? ……いや、どういうことなんだ?」
 二人の言いたいことがわからなかった赤木は、おそらく聞こえていたであろう向かいの席を見たが、藤真は下を向いて焼き魚の小骨を取ることに夢中になっているし、牧は口いっぱいに食べものを頬張っていて話すタイミングではなさそうだ。口を開いたのは花形だった。
「このホテル、幽霊が出るって聞いたことがある」
「んぐっ!? ゲホッ、ゴホッ!」
 牧は驚いて妙なタイミングで口の中のものを飲み込んでしまい、盛大に咳き込んだ。
「だ、大丈夫ですか牧さん……」
「牧さんもしかして幽霊とかダメなんスか!? いいなぁ、ギャップ萌え!」
 神が心配そうに声を掛け、清田は呑気にはしゃぐ。牧の反応は幽霊に対してではなく、発言したのが花形だったことに対してだ。藤真は額を押さえる。
(バレてる、これ絶対バレてる……)
 少し前まで楽しげだった宮城は、一転顔を青くして身を竦めた。
「こっわ! オレもそういうの無理! 今日も出たらどうしよう!?」
 花形は至って落ち着いて応える。
「夜中に歩き回らなきゃいいんじゃないか?」
「……」
 藤真と牧は黙って頷くことしかできなかった。

「今日は早く寝ろよ、幽霊が出ると困るからな」
 その日の夜、三つ並べた真ん中の布団に入って言った花形に、二人とも返す言葉もなく大人しく就寝した。
 以降、この施設での幽霊の出現情報はない。