ままごと

「牧って、料理するんだ」
 夕方から夜のころに落ち合い、立ち寄りたい場所があれば寄り、お茶や食事をして牧の部屋へ、というのが二人のよくあるデートだった。十代の健康な男子二人、密室に辿り着けば交際相手と致したいことは決まっていて、目的以外はろくに目に入らなかったから、藤真がキッチンを注視したのは初めてのことだった。それなりに調理器具が置いてあり、使っていない雰囲気ではない。
「たまにな。簡単なものしか作らんが」
「すごいじゃん。牧の手料理食べてみたいな」
 藤真が朗らかに笑えば牧がこれを断れるはずもなく、少し困ったような照れたような様子で頷くしかなかった。
「構わないが、ほんとに大したもんじゃないぞ。焼きそばとか、野菜炒めとか、チャーハンとか」
 要は炒め物系である。それに冷凍食品の惣菜と、必要ならば白飯やインスタントの味噌汁を付けて完成だ。凝ったものは外に食べに行くことにしている。
「焼きソバ好き」
「ああ、じゃあ今度のときな」
 快諾する牧に対し、藤真は密かに「しまった」と思っていた。よく知った女の声が脳裏に響く。
『あんたは甘え癖がついてる』
 藤真と似た顔立ちをした、姉の言葉だった。そんなことはないと否定したものの、長年その顔で生きてるから自覚がないだけで、日頃から息をするように人に甘えているのだ、というのが彼女の持論だ。
『オレと似てる顔のやつに言われたくないんだけど』
『似てるから言ってるんでしょ、気をつけなさいよって』
 当時交際していた男に言われたものらしく、八つ当たりにしか聞こえなかったのだが、一応アドバイスのつもりだったようだ。
(こういうことか、な……)
 牧は自分と同じ高校生で、忙しく部活動に励みながらも一人暮らしをしている。そんな彼から手料理をご馳走になろうなど、あまりに図々しいのではないか。それらを一切考えずに食べてみたいと言ってしまったことに、姉の言葉が被ってくる。
(でも牧は嫌そうじゃないからいいんじゃ? むしろ嬉しそうだ)
 でもなー、と藤真は小さく唸ってしまう。
「どうした?」
「いや。……牧はなんでも一人でできてすごいな。スーパー高校生だ」
 牧は不思議な思いで目を瞬く。藤真のほうこそ、プレイングマネージャーの負担はいち選手の比ではないと思うのだが──以前その手の話をしたとき、「企業秘密だ」「バスケ以外のオレのことを知りたいんだろ?」とはぐらかされたのだった。軽い調子ではあったものの、あれは拒絶だったと思う。以来、本人が言い出さない限りは突っ込まないことにしていた。
「別に、自分一人の範囲だけだし、気分転換にもなるしな」
(つまりそこにオレが加わったら、やっぱり負担増じゃねーか)
 藤真は自然と唇を尖らせて、牧は自然とそこにキスをしていた。
「な、なに?」
「え? だめだったのか?」
「ううん、いいけど」
 顔を見合わせ笑い合う。愉しく野蛮な夜が始まる。

 次に牧の部屋を訪れると、キッチンの風景は少し変わっていた。
「ここ、テーブル置いたんだな」
「ああ、がらんとしてたからな。ちょうどよくなった」
 間取り図上はダイニングキッチンとされていたが、牧が居室で食事を摂っていたため、しばらくは〝妙に空きスペースの広いキッチン〟となっていた。そこに二人用のテーブルと椅子を置いたことを、牧はさも隙間を埋めるためかのように言ったが、そんな理由ではないだろう。
(また……なんとなく責任を感じるような……)
 どう考えても自分の発言が発端だった。牧は生活費に困っている風は全くないし──追求したことはないがおそらくは逆だ──藤真がテーブルを欲しがったわけでもないのだから、気にすることでもないのかもしれないが。
 夕食は食べてこなかった。前に話していた手料理をご馳走になるためだ。二人掛けのソファに一人で体を横にして、テレビを眺めながら調理を待つ。炒め物をする音とにおいの流れてくる、のんびりとした時間の中で、不思議な気分になっていた。
(なんかオレ、ここに住んでるみたいだな)
 まだ数えるほどしか訪れたことがなく、そう長時間滞在するわけでもない。しかし妙に落ち着くというか、安心するというか。
(いやそれ、牧が言ってたんだっけ?)
「藤真? 眠いのか?」
 キッチンから部屋を覗くとソファに座っている姿が見えなかったので、寝ているのかと様子を見に来ると、藤真は目をうとうとさせていた。
「……ううん?」
 牧を見るや目をぱちぱちさせながら起き上がり、腕を上に伸ばして軽く背伸びをする。牧はその姿に猫を連想していた。と、藤真がハッとしたような顔を向けてくる。
「牧、エプロンしてる!」
「ああ、そりゃあ、料理をしたからな」
 何の変哲もない黒のエプロンなのだが、藤真の驚きように思わず笑ってしまった。常より更に大きく丸くなった瞳に、今度はウサギやリスを連想してしまい、思わず抱き締めたくなったが、調理の直後でエプロンが汚れているだろうからと我慢した。
「へー、レアだな、牧のエプロン……」
「別にそこまでレアじゃない。晩飯できたぞ」
「おー!」
 キッチンに行くと、ダイニングテーブルにはすでに二人分の夕食が置かれていた。焼きそば、サラダ、春巻き。水滴のついたグラスの麦茶。自らが用意したそれらを改めて眺め、牧は思わず呟いていた。
「……なんか色味がないっつうか、地味だな……」
 サラダ以外が見事に茶色系に纏まっているのだ。色味など日頃は全く気にしないし、今日だとて藤真に見せる直前まではなんとも思わなかったのだが、急に不安になってしまった。牧にとっては珍しい感覚だ。しかしそれも杞憂に終わる。
「すげえ、ちゃんと具が入ってる! おかずもある!」
 藤真は弾けるような笑顔を浮かべて席に着いた。
「どういう褒め方なんだ」
 しかし無理にフォローしている風でもない。安心はするが、少し不思議でもある。
「うち、具の入ってない焼きそばやラーメンを作る女がいるんだよ」
 まあそんなのはいいから食おうぜ。いただきます。と箸を手にする藤真に頷きながら、牧には話の続きもどうでもいいとは思えなかった。
「お姉さんか?」
 偶然だが一度会ったことがある。藤真だと思って声を掛けたら完全に女性だったので、髪型の時点で気づかなかった自分に対しても含め、大変困惑したものだった。
「うん」
 藤真はどうでもいいように頷き、あっうまい、具もたくさん入ってるし! など言いつつ焼きそばを食べている。そんなに具に飢えているのだろうか。正直なところ、自分だけのときはもっとシンプルだ。今日は少し頑張っておいてよかったと思う。
「いいんじゃないか? かわいいお姉さんじゃないか」
「よくねーし。なんでもかわいいで片付けんなよ。だからあいつ調子に乗るんだ」
 言ったきり、藤真は口を噤む。姉について自分で吐いた言葉が、予期せず自分の胸に突き刺さっていた。否、外見について調子に乗ったことなどなく、むしろ迷惑してきたくらいだ。ただ、傍目にはどう思われてきただろうかと今ふと思う。そして、言葉には必ずしも思慮は伴わないのだと、戸惑いとともに身をもって実感している。
 いわば藤真が自身の言葉に傷ついている状態だったが、牧は牧で自分の発言のせいだろうかと密かに焦っていた。柄にもなく、日和見的な台詞を絞り出す。
「……まあ、家族がいるのは楽しいじゃないか」
「楽しいなんて感じたことないけど。実際一人で暮らしたら変わるのかもな」
 料理、洗濯、掃除。朝も自力で起きる。楽しいかどうかというより、ひたすら大変そうだ。
「いや、うーん……牧って偉いな」
「寮にいるやつらも大差ないんじゃないか? 料理だって毎日するわけじゃないし」
「あー、そうなのか。実家が楽なだけか」
 なるほどな、あんまり聞いたことなかった、花形も実家だし、など口にしつつ藤真は箸を動かしている。不機嫌の様子はとりあえず見えなくなった。
「でも俺は一人暮らしにしてよかったと思ってる」
「へえ?」
 想像がつかないわけではなかったが、牧の口から続きを聞きたかったので、短く相槌を打つだけにした。
「お前と……まあ、いろいろと。寮だと無理だったからな」
「いろいろな! よかったな、一人暮らし選んどいて!」
「ああ、大正解だった」
 牧は大真面目な顔でしみじみと言い切り、深く頷いた。それが無性に可笑しくて、藤真は口を閉じたまま吹き出し笑いをして俯き、盛大に肩を揺らした。口にほとんど物が入っていないときでよかったと思う。しばらくそうして笑っている藤真を、牧はさも不思議そうに眺めていた。
「前から思ってたが、藤真の笑いのツボがわからん」
「お前が自分の面白さを自覚してないんだろ」
「別に冗談のつもりじゃないぞ」
「それはわかるけど。心の底から言ってる感じにツボったんだよ」
「……やっぱりよくわからん」
 別にわかんなくていいよ、と言ってから少しの間は食べることのほうに集中した。家で食べているにしては随分ゆっくりしてしまった、と牧も倣う。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
 丁寧に手を合わせて会釈され、牧も同じように返し、なんともなしに二人して笑い合った。
「なんかいいな、こういうのも」
「そうだな」
 今思ったままのことを藤真の口から言われて、牧は穏やかな表情で頷いた。自分の家で藤真が当たり前のように寛いで笑っている、のんびりとした時間に少し胸の詰まるような幸せな気分になりながら、なぜか穏やかでない衝動が湧き上がってくるのは、単純に彼の肉体が若いからだ。
「そうだ、次のときはオレがなんか作ろっか」
「藤真、料理するのか?」
 これまでの会話からして想像はつくが、一応聞いておく。
「やればできると思う。大丈夫、そう不味いものは作らないって、多分」
「そうか、じゃあ楽しみにしておく」

 昔からかわいいとか、女の子みたいだ、と言われる子供だった。
 幼い時分に近所の大人から言われたそれらに悪意などなかっただろうが、いつぞやからひどく不快に感じるようになって、姉とその友達と一緒にしていたままごとや人形遊びをやめた。ちょっとした持ち物の色や、そこに張り付いているキャラクターの造形、〝女っぽいこと〟に過剰に拒絶反応を示すようになり、親が料理している台所にも近寄らなくなった。
 大きな声ではっきり話す、近所の上級生が使う汚い言葉を積極的に使ってみる、男子としか遊ばない、遊びは外で体を動かすことが中心。顔の造形そのものは変わらずとも、快活な少年期には女子と間違われることはすっかりなくなっていた。
 高校で強豪のバスケットボール部に入り、一般的な基準では小柄ではない藤真が「小さくてかわいい」と見られるようになったのは誤算だったし、悪意を込めた揶揄として容姿について言われるようになるとも思わなかった。本気で取り組みたいと強豪校に進むほどバスケットにのめり込んでいたこと、チームメイトの同級生は軒並み好ましい人間だったこともあり、いつしか雑音として処理できるようになる程度のものではあったが。
「えっ……あんた、なにしてんの」
 藤真家の長女は、台所に馴染まない後ろ姿を見るや声を上げた。
「料理」
「なんで!?」
「気分転換」
 訝しげに弟の手元を覗き込むと、まな板の上に不揃いに切られた野菜が並んでいる。
「まさか、新しい彼女のためとか言わないよね。あんたがそんなことしないと気を引けない相手なんて、絶対続かないんだからね」
 弟がちょくちょく〝友達の家〟に入り浸り、夕食を外で済ませたり、ときには早朝に帰宅してきたりすることについて、姉は完全に交際相手がいると踏んでいた。なにしろ以前は〝花形のとこ〟と明言していたというのに、相手の名前を告げなくなったのだ。
「ないな、料理しない女とか無理」
 料理はするし、ついでに男だが、そこまで話す必要もないだろう。弟はさも鬱陶しいと言わんばかりに姉を無視して調理を続ける。
「ふーーん。まあいっけど」
 たとえ同じ言葉であっても、そこに込められたニュアンスは相手と状況によって全く異なる。それは十二分にわかっているのだから、もう少し世界を広げてみるべきかもしれない──結構な思惟の末、当日のメニューも無事決定した。

「よし、今日はオレが晩メシを作るぞ!」
 美人は三日で飽きると聞いたことがあるが、おそらく嘘だ。腰に手を当てて堂々と言い放つ、自信に満ち溢れた笑顔などいつまでだって見飽きないと思う。そして今日は服装もいつもと少し違うのだ。
「……」
「なに?」
「エプロン、似合うな」
 牧が調理のときに使う黒いエプロンを、今日は藤真が身に着けている。布地一つ被せただけではあるのだが、非常に新鮮で──牧は胸がむず痒いような満足感の只中にいた。
「家に白いのあったんだけど、忘れてきたんだよな」
「いや、俺のもんを着てるってのがなんかいい……」
 大真面目に言ってしまって、耳がカッと熱くなるのがわかった。幸い色黒のため、顔が赤くなったようには見えないだろう。それはそれとして、白も見てみたいとは思う。
「あー、なんかお前そういうの好きだよな。じゃあ今度牧のパンツ穿いちゃお」
「……」
「おいっ! ちょっとイイかもみたいな顔すんな! そこは拒否れ!!」
「いや、穿き心地いいからお薦めする……」
「はいはい。できたら呼ぶからあっちで待っててくれ」
 あっちと言いながら居室のドアを指で差す。
「そ、そうか……?」
 料理をする藤真を眺めていたかったのだが、なんとなく逆らわないほうがいい気がして、大人しく部屋に戻った。
 テレビを眺めるが、内容が全く入ってこない。自室で過ごすうちでこんなに落ち着かない時間が他にあったろうか。待っている時間は長いように思えたが、いつまでも同じ番組が続いているので実際はさほど経っていないのだろう。それに、凝ったものを作れるような器具もないはずだ。やはりキッチンに居ればよかった。あまりない機会だろうにもったいない──そんなことを思っていたときだった。
「牧、できたぞ」
 すっ飛んで行きたい気分だったが、誰に取り繕うでもなく平静を装って歩いた。藤真に作れそうなものと、漂う香りからメニューは想像できたが、テーブルの上にはまだ飲み物しかない。
「おまたせ!」
 勢いよく目の前に置かれた皿の上を見ると、牧は目を見開いて動きを止めた。
「ふ、ふじま、これ…これは一体……」
「オムライスだ。嫌いなものないって前言ってただろ」
「ああ、ああそうだ。いや違うんだ」
 そんなことは見ればわかる。黄色くて、少し豪快な姿をした男らしいオムライスだ。問題は上に掛かっているケチャップだった。牧はつい口角の上がる口元を手で押さえる。
「LOVEって書いてある……」
「おう、LOVEって書いたからな」
 藤真は照れもせずに言って朗らかに笑った。人の好みがそれぞれあろうが、きっと誰しもが綺麗だと評価して好感を抱くであろう、天使のごとき笑みだった。
「ふ、ふじま……一体なにが……?」
 牧は動転した。状況が理解できない。オムライスという時点で可愛らしいのだが、更にこんなことをするなんて。藤真と親しいからこそ──日頃外野から〝かわいい〟と評されることを嫌っていると知っているからこそ、戸惑うしかなかった。
「なに、引いた?」
「い、いや、すごくいいと思うぞ!!」
 牧は静かに、しかし力強く言った。つい驚いてしまったが、藤真が柄にもなく、自分のために愛などと刻んでくれたのかと思うと、じわじわと嬉しさと愛しさが込み上げてくる。
「そっか、ならよかった」
 文字のない普通のオムライスを自分の席に置き、藤真は満足げに着席する。
 料理としてクオリティの高いものは作れないだろうが、あまりに無難でもつまらない。いっそ可愛い方向に振り切るというのは一つの賭けだった。興醒めされる可能性だって考えたのだ。しかし結局「牧なら大丈夫だろう」という結論に至った。彼はロマンチストで、カップルらしいことが大好きなようなのだ。そして──その結果が今の牧の様子である。
「おい、早く食えよ。冷めるぞ」
「え? ああ……」
 返事は上の空だ、食べるのがもったいないなどと思っているのだろう。かわいいやつだと藤真は笑う。
「そんなの、また書いてやるからさ」
 言って、食卓に持ってきていたケチャップでLOVEの文字を塗り潰した。
「なんとぉーッ!?」
「あっはっはっは!!」
 牧の驚きようが可笑しくて、藤真はまるで顔に似合わぬ調子で手を叩き、豪快に笑った。
「おら、早く食え!」
「いただきます……うん、うまい……」
 可愛すぎる恋人の作ってくれたオムライスはそれだけで美味ではあったが、ケチャップが妙に舌に染みて、少しだけ涙が出そうだった。

(あー面白かった)
 藤真は満足しながらシンクの洗い物に向かった。家族全員の分となるとげんなりするが、二人分ならばどうということはなさそうだ。ゴム手袋を嵌め、水を流し、スポンジに洗剤を出して、ふと頭を過ることがあった。
(……牧を、オレのままごと遊びに付き合わせてるんじゃないだろうか)
 牧はいつも歓迎してくれる。忙しい中わざわざ会いに来てくれて嬉しいと。しかしそれは違う。
(オレは別に献身的じゃないと思う)
 少なくとも牧との関係については。気分転換をしたいとき、そしてもちろん時間が取れるときに連絡しているだけで、おそらく、牧が想像するほど激務に殺されているわけではない。立場があろうがいち生徒が活動できる時間は限られていて、選手と監督を兼ねるからといって単純に稼働量が二倍になっているわけではないのだ。
 かといって全く結果を求められないわけでもないので若干の理不尽は感じるが、体が壊れては元も子もないから無理はするな、と周りからきつく言われている。
 大学でバスケットボールを続ける場合の話もすでに聞こえていて、そう遠い未来でもないのだろうが、高校での選手生活の充実にはあまり期待しないほうがいいのだろうと苦笑したものだった。
(今は今にしかないのに、大人にはわかんないのか、忘れてしまうのか)
 そう思ったところで、自分にとって牧がどんな存在か、彼とプレイする時間をどんなに待ち詫びていたかなど、ごく個人的な感情の問題でしかないのだともわかっている。
 監督として新たに学ぶことの楽しさ、結果に向かって進んでいけることの喜びもないわけではない。なによりバスケットボールと、今のチームメイトたちのことが好きだ──なにも、一人きりで背負っているわけではないのだ。周囲は至って協力的であるし、特に〝めんどくさいこと〟を進んで片付けてくれる相棒がいる。
『大丈夫、こういう役は好きだ』
『なんだそりゃ。花形ドMじゃん』
『ああ、そうかもな。だからもっといじめていいぞ』
 そんな軽口を叩き合ったことを不意に思い出す。
 ともかくこちらは大丈夫なのだが、問題は牧だ。海南の練習は厳しいと聞く。貴重な休息の時間を邪魔してしまっているかもしれない。それは本意ではないのだ。
(オレはいつだって万全のお前と当たって、それをブチ倒したいって思ってたんだ)
 もはや自分のほうが選手として万全とは言えなくなってしまったけれど。
 少し前まで、こんな現状は想像もしなかった。できるはずもない。自分が翔陽の監督になって、ライバルのはずだった牧と恋愛関係に至り、手料理を振る舞うとは──夢のようだと思う。全く突拍子もない、寝ているときに見る夢だ。
(だとしたら、いつかは覚めてしまうんだろうか)

 背中全体を温かいものに包まれるまで、近づく気配に気づきもしなかった。
「ん、牧どうした?」
 後ろから体を抱いてくる、体温は温かいというより熱い。洗い物の手が止まってしまっていたから、小言でも言いにきたのだろうか。
「デザートが欲しい」
「冷凍庫にアイスがあっただろ」
 言ってから、違うと察した。押し留め無理やり落ち着かせた風にしているが、牧の呼吸は荒い。脇腹を撫でる手のひらに静かに込められた力だってそうだ。
「あったかいのがいい」
 耳元にぼそりと言って、耳の形をなぞるように舌を這わせる。
「っっ!」
 藤真は肩を竦め、牧の顔と逆方向に頭を傾けて抵抗を示した。まだ笑っている余裕もある。
「ちょっと待ってろって」
「ああ、待ってる」
 牧は言いつつ、大きな両手で藤真の体の両脇を掴み、服の上からでも肉体の感触を確かめるかのように、じっくりと撫でた。
(オレ、しおらしくお前のコンディションとか気遣ってたんだけど……)
「洗い物、早く済ませてくれ」
 手を下降させ、腰を掴み、尻の横側、そして尻の肉を掴むように指を突き立てる。
「こらこらっ!」
 布越しであっても無視できない感触に、藤真は身を強張らせる。牧はエプロンの下に手を入れると、腰回り、太腿、その内側へと好き勝手に撫で回した。
「ん、ふっ…」
「なんだ、感じてるのか? 随分敏感だな」
「くすぐったいだけだっ!」
 そう言いつつも声はしっかり上ずって、顔と体の中心がジンジンと熱くなっていく。
 牧は床に膝をつき、藤真のズボンの前を寛げて、下着ともども思い切りずり下ろした。白く引き締まった小ぶりな尻に目を細める。
「うぉいっ!! 待つ気なんてないだろお前!」
 濡れたゴム手袋をしたままで牧の動作を咎めることもできず、藤真はスポンジを握りしめて声を震わせた。
「いい眺めだ」
 顧みながら送られる、軽蔑するような眼差しもむしろ心地よいとばかりに、牧は余裕で笑って藤真の尻にキスをした。
「ぁっ!」
 下半身を露出させられたこの状況で、怒ってみたところで間の抜けた印象しか与えないだろう。藤真は顔を赤くして奥歯を噛み締めた。
 尻の表面全体を舐めるがごとく、牧は何度も、何度も軽いキスを繰り返した。つれない風にするくせに、吸い付くたびに腰が揺れるものだから愛らしくて堪らない。尻肉を左右に割り開くと、露わになった窄まりが空気に晒されてひくりと蠢き、まるで誘っているようだ。伝うように視線を下降させると、脚の間にふっくらとした陰嚢がぶら下がっている。それら全てがひたすらに欲情を煽る卑猥な光景だった。男の体にもともと強い興味があったわけではない。そこに触れれば藤真がどのような反応を示すのか、すっかり知ってしまったゆえだ。
「いい……」
「変態っ…! ふぁっ!」
 尻の谷間に鼻を突っ込まれ、会陰部を舌で強く押されると、上ずった声が漏れて腰が浮いた。
「あっあ、やだって…!」
 性感帯の間の敏感な場所を責められ続けるうち、前は熱を帯びて首をもたげ、後ろは更なる刺激を求めて内奥から疼いてしまう。もはや洗い物どころではなく、両の手はシンクの淵をギッと握ってしがみついている。
「はっ…!」
 粘液を纏わせた指が臀裂をなぞり、入り口をくすぐって体内に潜り込む。指は探るように蠢き、性急に、しかし確実に内部を潤しほぐしていく。もはや慣れた行為だ、この先に待ち受ける快楽も知っている。抵抗の言葉は出なかった。
 いじらしい反応だ。牧はほくそ笑みながらローションを足して、指を二本に増やす。
「う……」
 挿入した指を曲げて体の前側へと押す、マッサージのような動作を繰り返すうち、高い声とともに藤真の体が大きく波打った。
「あぁっ! んっ、そこ、い、やっ…」
 嫌と言いながら、収縮する淫部は自ら指を深くに咥え込んでいくようだ。目の前で可愛らしく揺れる尻に何度もキスをして、舌を這わせながら、牧は容赦なくそこを責め続ける。
「あぅっ、あ゛っ! あぁぁぁっ…!」
 シンクの縁に腕を突っ張り、頭を垂れて嗚咽のような嬌声を漏らしながら、性器の先からは透明な体液がしきりに滴っている。すっかり敏感になった肉体は、指での刺激だけで歓喜に咽びくずおれてしまいそうだ──それでは困る、と牧は指を引き抜く。ちゅ、と愛らしい水音がした。
「愉しそうだな? 藤真」
「お、お前がやらしいからっ…!」
 背後で牧が立ち上がる気配があった。ジッパーの音に身を強張らせていると、すぐさま尻肉を掴まれ、狭間に熱く硬いものが擦り付けられる。
「挿れるぞ」
 言いながらすでに先端は突き立てられていて、返事を待つ気などないようだった。
「ぅあっ! あぁぁぁっ…!」
 肉杭は濡れた粘膜を押し拡げ、擦りながら内部を満たしていく。何度経験しても堪らなく興奮する感触に、藤真は声を上げて仰け反った。ゆっくりと、しかし確実に奥に進み、最奥まで挿入されてなお腰を押し付けられ、力の抜けていた体全体を押し上げられる。
「ぅぐっ…!」
 牧は藤真の苦しげな呻きにすら興奮しながら愛おしげに下腹部を撫で、腰周りを確かめるように両の手で掴み、内部の感触を味わうように腰を畝らせ掻き回す。
「ん、くっ…」
「藤真」
 顔を覗き込むように体を傾けて、振り返ったところで唇を塞いだ。柔らかな皮膚を浅く重ねながら、貪欲に、半ば強引に舌先を縺れ合わせる。応えてくれることが、ただ愛しかった。
「っ…、はぁっ…」
 強く抱き締めて頸に鼻先を埋め、恋人のにおいと体温に浸るように何度か深く呼吸をする。しかしもはや穏やかではいられない。
「ふじま……好きだ……」
 ほとんど吐息のように呟き、ゆっくりと抽送を始める。
「あっ…まき…っ」
 言葉の続きも紡げずに、ただ自らの体を支えるしかできなかった。牧が言葉で、動作で自分を求めている。実感は麻薬となって脳を侵し、内臓を押し上げる圧迫感もすぐに蕩ける快楽に変わっていく。
「あっ、あぁっ…んんっ…!」
 体の内がきゅんきゅんと疼いて牧を求めている。緩やかな行為がもどかしく、自然と尻を突き出して腰を揺らしていた。
「まき…」
 牧は苦笑した。すぐに終わってしまわないようにと緩慢に動作しているのだが、一言名前を呼ばれるだけで辛抱できなくなる。余裕が欲しい、とは毎度感じることだ。崩れてしまいそうな体を抱き締め、抽送の速度を上げる。
「あふっ、あぁっ、あんっ…!」
「いいのか? 藤真っ…」
 常時とは違う、優しく震えるような声色から牧の興奮も感じて取れて、藤真は一層堪らない気持ちで頷いた。
「ぅ、うん…っ」
 愛おしむように首筋に舌を這わせ、甘く噛み付いて、獣のように交接する。体を打ち付ける音が強く、激しくなるのに共鳴するように、細い嬌声がしきりに上がった。
「あっ、ぁんっ、あっぁぁっ…!」
 深く、激しく突かれるほどに性感帯を擦られ震わされ、体の内から起こった強烈な快感の波が全身を支配していく。頭の中は真っ白で、ただ身に受ける感触が、それを与えるものが、愛おしくて仕方がなかった。
「あぁ、藤真、もういきそうだ……」
 耳元に余裕なく呟く声が好きだ。自分以外には聞かせないでほしいと思いながら、藤真は陶然と呟いた。
「いいよ、まき…っ、んっ、ぁんっ…!」
 言い終わらないうちに潰れそうなほどきつく抱き締められ、強く、激しく体を打ち付けられる。獰猛な肉杭が、容赦なく前立腺を抉った。
「うっ、あぁっ、出るっ! あ、あぁぁぁ…!」
 藤真は押し出されるようにとろとろと精液を吐き出しながら、自らの内に注がれるものの感触にも恍惚としていた。熱い。暖かい。愛おしい。幸福に堕ちていく。
「あぁ、あ…」
 力の抜けた体は、しかし倒れ込むことはなく逞しい腕に抱えられ、穿たれたままゆっくり腰を落としてキッチンの床に座り込む。立ち上がろうとしても力が入らないうえ、牧の腕が腰にしっかりと絡みついている。
「おかわり」
 顧みると間髪入れずに言われ、思わず笑ってしまった。想像できたことではある。着けたままだったゴム手袋を外し、シンクの上に放った。
「どうすればいい?」
「こっちを向いてくれ」
 藤真は膝下に溜まっていたズボンとパンツを取り去って一旦腰を上げる。ずるりと抜ける肉茎と、一緒に体内をゆっくりと降りてくる精液の感触に、思わず声が漏れた。
「あっ…」
「藤真?」
 膝立ちになり、体を反転させて牧と向かい合うと、まだ硬いままの牧のものを再び受け挿れる。内部に含んだままの精液がいやらしい音を立てて気分を煽った。牧は上体を後ろに倒して床に仰向けになる。
「中に出されるとすげー盛り上がるっていうか、今のだけでまたイきそうになっちった」
 微笑する表情が無邪気ですらあるのがそら恐ろしい。自由に動ける体勢だったなら、めちゃくちゃに突いてその顔を歪めさせていたかもしれない。
「……エプロン取ろうか」
 藤真は素直にエプロンを外した。男の腰に跨り、その怒張を深く咥え込んだ淫部を牧の目の前にまざまざと晒しながら、はにかむように笑っている。なんて愛らしい表情をするのだろう。状況との不一致に頭がおかしくなりそうだ。
「すげー汚しちゃった」
 悪戯をした子供のように言った藤真からエプロンを受け取り、液体が糸を引いて滴った裾をめくってみると、精液がべったりと付着していて、思わず口元がいやらしく緩んだ。
「ほう、これが藤真の……」
 布地に張り付いた粘性を愛おしげに指でなぞり、見せつけるように自らの口に含む。
「ばっ…! 牧ってほんとド変態!」
「お前だって飲んでくれるじゃないか」
「直飲みはいいんだよ新鮮だから。そいつらはもう死んでるだろ」
「精子の生死を問う……」
 頭に浮かんだままを呟いてしまって少し後悔した。
「牧がつまんないこと言うから萎えちゃった」
 藤真は牧に冷たい目を向けて言いながら、自らのしなだれた性器を指で弄る。手を伸ばして掴まえると、感触は柔らかくはあるが、先端はまだ濡れていた。指の腹を使い、虐めるように擦り上げてやる。
「あんっ♡ あっ、あぁっ…」
「もう少し前からじゃなかったか?」
「バレてたか。後ろで感じすぎてるとこうなるときがあって、つまり──」
 いかにも艶めかしく微笑して腰を揺らすと、ほどなくして息が乱れ、甘い声が混ざりだす。褐色の手は白い太腿を撫で、尻を掴み、その動作を助け促した。
 重力に縫い付けられて深く繋がりながら、貪欲な行為は続く。

「体が痛い」
 牧がシャワーから戻ると、ソファの肘掛けに体を預けた藤真がいかにも抗議するような目つきで見上げてきた。口にアイスのスプーンを咥え、手にはカップ入りのアイスを持っている。
「すまん、床はよくなかったな、床は」
 牧は藤真の隣に座り、背凭れの上に腕を置いた。藤真の体が肘掛け側に斜めに倒れているので、残念ながら肩を抱くようにはならない。
 しばらく騎乗位でするうち、牧のほうがもどかしくなって体の位置を入れ替えた。硬い床に寝かされての行為に、最中は藤真も興奮していたものの、終わってみれば──というわけだ。
「床NGな。あと洗い物ももうしてやらない」
 その前のことも含めて機嫌を損ねてしまったようだ。ただ、事後の藤真の機嫌が悪いのは恒例行事でもあるので、牧もそう深刻には捉えない。
「俺もアイス食べたいな」
「もういらないからあげる」
 オムライスの流れから、一口食べさせてくれるなどの可愛らしい行動を少なからず期待したが、半ば強引に残り全部を押し付けられてしまった。そしていかにも不愉快だというように顔を背けられてしまう。
「待てって言ったのに」
「すまん、我慢できなかったんだ。オムライスで盛り上がっちまって」
 藤真の顔がぱっと明るくなる。
「あはっ、あれよかっただろ? めちゃ喜んでたよな!」
 してやったりの顔だ。藤真にとって、自らの目論見が成功することは何よりの喜びなのだ。
「ああ。……しかしなんでまた。なんかあったのか?」
 かわいいとみなされる行動や要素を日頃意図的に避けているような男だ、牧の疑問はごく当然のものだった。
「別になんも?」
「買ってほしいもんがあるとか……」
 藤真は思い切り吹き出した。今アイスなど食べていなくてよかったと思う。
「なんだそりゃ、お前高校生だろ! おかしいだろ発想が!!」
 自分の容姿を茶化されることが嫌いなので、牧の外見年齢についてもあまり言わないようにしているつもりだ。しかし今の発言については「おっさんみたいなことを言うな」と叫びたかった。
「そうか? その、恋人……だからな。そういうのもアリなんじゃないか?」
「なにちょっと照れてんだよ。オレはお前になんか買ってもらおうなんて思ったことないぞ」
 強請ったといえば手料理くらいではないだろうか。付き合っていれば同年代でも軽い贈り物くらいはするだろうし、クリスマスに卑猥なプレゼント交換をしたことも記憶に新しい。しかし、牧の言う「買ってほしいものがあるから可愛く振舞う」というのは少し毛色が違うと思う。付き合い始めてからソファが二人掛けになり、ダイニングにテーブルと椅子が増えた実績がすでにあるのだから、発言には気をつけたほうがよさそうだ。
「おねだり……藤真、惹かれる響きだと思わないか?」
 なんとなく、甘えたような可愛らしい響きだと思う。いつもの藤真ならば嫌がりそうだが、今日はどうだろう。
「じゃあ今度ベッドの上でおねだりしようっと」
 牧は盛大にアイスを吹き出した。
「おいっ! 汚ねえ!」
「すまん、いやお前のせいだぞ、一体どうしたんだ今日は……」
 噴出してしまったものをティッシュで拭き取りながら、思わず藤真の可愛さに責任をなすりつけてしまった。
「鬱陶しいかな。嫌ならやめるけど」
「そんなことない、どんどんやってくれ。……ただ」
 途端、牧の表情が暗くなる。藤真も真面目な顔をして固唾を吞んだ。
「ただ?」
「俺以外の前ではしないでほしい」
「誰がするかよ!」
 藤真は全否定の調子で声を上げて笑った。誰にでも同じ態度で接するつもりなど毛頭ない。馬鹿にされるのも、望まぬ好意を向けられるのもどちらも御免だ。
「牧は特別。かわいいって言われても嫌じゃなくて、まあいいかなって思う」
「本当か? じゃあ沢山言っていいのか?」
 大人びた男の、子供のような言い草に、なんともなしに笑ってしまう。
「そういうことでもないかな。……とは別で、邪魔だったら言ってくれよ。家居すぎとかさ」
 洗い物をしながら考えていたことだ。牧が自分のために休息の時間を割いているのではないかと気になっていた。
「邪魔なわけないだろう。ずっと居てほしいと思ってるんだ」
 思わず言ってしまって、一気に血が上ってきたかのように顔が熱くなったが、相変わらず当人以外には見分けにくい顔色だ。
「……? うん、じゃあまた来るな」
 一瞬ぎこちなさも感じたものの、藤真はさほど気にせず返した。
(そうだな、今はまだ、このままで……)
 ずっと一緒にいてほしい。
 牧にとっては改めての告白にも等しい言葉だった。ただ、少し言葉が足りなかったろうし、なにより藤真はそこまで考えていないだろう。なし崩し的に始めた関係に、先の展望などなかったはずだ。それは自分も同じで、だからこそ日に日に重くなっていく感情に戸惑っている。
 まだ目標というほどの形も成せない、それはいわば夢だ。しかし到底遊びで終わらせたいものでもない、確かな願望でもある。
「あと、欲しいもん思いついたら言うんだぞ」
「だからそれはいいってば」
 やっぱり天然だ、と面白がって笑うのを「それは違う」とやんわり否定した。
 彼を縛るものが欲しい。これは幼稚で明確な思惑だ。

不純同性交友

 ある日牧の部屋に出現していた真新しい二人掛けのソファを見るや、藤真は思わず声をあげた。
「うわっ、さすがエロい!」
「まあ座ってくれ」
 何がさすがなのかはわからないが、完全に否定はできないまま、牧は藤真にソファを勧める。藤真は素直に腰を下ろした。
(やばいなオレ、ソファ買わせちゃった。まあ、一人で横になって寝たりもできるしいいよな……)
 明確に強請ったものではなかったが、座るところが足りないだのぼやいた記憶はあるし、付き合い始めてから新調されたのだから、そういうことなのだろう。牧は隣に座ると何食わぬ顔で背凭れに腕を回し、肩を抱いてきた。
(こういうのがしたかったわけだな。牧ってやっぱりかわいい)
 藤真は望みの通りと牧に凭れ、牧はまんまと(そうそう、こういうのだ)と藤真を抱える。
「オレも久々に相手ができたから、言い寄られて追っ払うとき『付き合ってる人がいるから』って言えるな」
「追っ払うとは……」
 藤真が他校の女子から握手を求められて応じている現場を見たことがあるが、実際は愛想よく対応するばかりでもないようだ。
「相手が誰なのか、突っ込まれないか?」
「マキちゃんでいいだろ。色黒で泣きぼくろのセクシーなマキちゃんだ」
 頰のほくろにちょんと触れた指先が無性に愛しくて、牧は思わずそれを捕まえ、触れるだけのキスをした。ふざけながらではあるが、藤真が迷わず自分の存在を口にしたことが素直に嬉しい。
「外野にはそれでいいだろうが、バスケ部関係者に丸わかりだぞ」
「あー、だとお前も困るよな」
「困るってよりは……周囲に気を遣われたり茶化されたりしたら面倒だ」
「だよな。あと、言っても信じてもらえないと思う。女のファンがめんどくさくて、一時期ホモ宣言してて。花形と付き合ってる設定にしてたけどあんまり信じてもらえなかった」
 花形もノリ悪いし、と続くものを衝撃的な気持ちで聞きながら、牧は身震いした。藤真は甘い外見とは裏腹に、思い切ったところのある男なのだった。
「それは……そういうのは、とてもよくないと思うぞ……」
 藤真は設定だけのつもりでも、花形にとっては違ったかもしれない。藤真と出くわすたび、その背景かのように斜め後ろに付き従っている、かの男が藤真に傾倒していることは明らかだ。そして藤真もまた花形をいたく気に入っているようで、訊いてもいないのにぽろっと花形のことを口走ったりする。
「藤真は花形のことを随分といい加減に扱うよな」
 牧はこの発言をすぐに後悔することになる。
「あー。高校入ってから家族より一緒にいると思うし、最近は特にだな。居て当たり前っていうか、空気みたいなもんっていうか。空気に対して気は遣わないだろ。それにあいつは頭がいいから、意見も信頼できるし」
 空気、それは生きるために必要なもの──いや、藤真はそんなつもりで言葉を選んだわけではないだろう。きっと。おそらく。そうであってくれ。
 藤真が監督を兼任する翔陽バスケ部の中で、彼の支えになる人物がいるのは喜ばしいことではないか。頭ではそう考えるものの、自分は藤真の恋人で、自分と花形とは同じ性別で、日ごろは花形のほうがずっと藤真と一緒にいるとなれば、不穏な気持ちにもなる。
「花形にはちゃんと謝ったぜ。不幸の手紙とか届いて大変だったらしい」
「それは気の毒に」
 一定数には信じられていたということではないか。牧は大袈裟に首を横に振る。
「だからな、そんなのは二度としたら駄目だぞ藤真。ホモ宣言なんて絶対駄目だ。彼女がいる設定のほうが全然いい」
 唐突に強めの口調で断言され、藤真は戸惑い目を瞬いた。
「なんで」
「女に狙われるより、男に狙われるほうがずっとやばい。物理的な意味で」
「あー……なるほど?」
 大真面目な顔で言い放った、牧の言わんとするところを理解するのは簡単だった。藤真だとて男だし、か弱いほうでもないと思うが、本気の牧に押し倒されれば力では到底敵わないのだ。屈強な男ばかりでもないだろうが、女とは明確に違う。
「でもさ、相手がいるって言ってんだから男でも女でも関係ないんじゃ?」
 牧はやはり首を横に振る。
「相手がいようが、同類ってだけでチャンスだろう。付き合えなくてもやれるかもしれないからな」
 わからなくはないが、藤真にはそれよりも引っ掛かることがあった。
「お前は一体ホモのなんなんだよ。そもそも牧ってガチホモなのか? 別に今更いいけどさ」
「俺がってわけじゃない。昔そういうタイプの先輩がいて、男子校への夢をよく聞かされてた」
「あー……」
 昔の先輩ということなら中学のときか。この際だから、少し気になっていたことをついでに聞いてしまおう。
「牧、男が初めてじゃなさそうだったのって」
「その先輩だ」
「結構タイプだったとか」
「いや全然」
「ひっでー!」
 言葉通りの非難ではなく、あくまで茶化すように言った。言い寄られるのが面倒で適当な女子と付き合っていた、という自分の過去は棚に上げて忘れたことにする。
「いろいろ世話になった人だったんだ。感謝してた。先輩が部活を引退したあと、俺にたっての頼みがあって、掘ってほしいと……」
「勃っての頼みかー、まあしょうがないな、多分お前は中学のときも男前だったんだろうし」
「んん? まあ、中学生に見られたことはなかったが」
 素っ気ない風にしつつも、藤真にさらりと褒められたらしいことは非常に嬉しく、思わずムラッときてしまった。
「オレは、男に告白されたことはあるけど、やったのは牧だけだよ」
 男はな、と頭の中で付け加えておく。
「男で告ってくるやつのこと、顔がかわいければなんでもいいのかよ、バカじゃねーの、って思ってた」
「……別に、顔だけで選んだわけじゃないんじゃないか?」
 モブの肩を持ってやる義理もないのだが、藤真を愛する者として、顔だけではないだろうと主張しておきたかった。
「どうなんだろうな。大抵知らないやつだったから顔だと思うけど。ていうか基本的には男の時点で無いんだけどな」
 自分は結構な死線をくぐり抜けてきたようだ。牧はしみじみしてしまった。
「つまり、結局オレの彼女はマキちゃんなんだよな」
 話を戻す。実際、相手がいると言えばそれだけで引き下がる者がほとんどだろう。追及など無視すればいいだけだ。
 牧は藤真の手を掴み、親指と人差し指で白い薬指の付け根を挟んだ。
「指、いくつだ?」
「十本」
「いや、ゆびわ……」
 わかってるけど、と藤真は笑う。
「ウチの学校そういうのうるさいから、あと一年ちょっとは無理だ」
「じゃあ、一年くらいしたらまた聞く」
(一年後、牧はまだオレと付き合ってるつもりなんだろうか)
 心地よく胸を満たしていく暖かいものは、徐々にせり上がり喉にまで至り、溺れるような息苦しさを生んだ。
 今まで、女子との交際が長続きしたことはなかった。そのときには確かに愉しんでもいただろうが、あとあと振り返って惜しむほどのものではない、それらはただの過去で、ただ消費するだけの時間だった。
 牧は特別だ。彼と過ごす時間を、かつての恋愛ごっこと同じものにはしたくない──妙に悲観的な自分に、なぜだか笑ってしまった。呆れているのかもしれない。
「牧さぁ、さっきの感じ、勃起してなかったら最高にかっこよかったんだけど」
 藤真は意地悪く言って、牧の下半身の隆起を布越しに指で弾いた。
「む、バレてたか」
 牧はといえば、藤真は意地悪なところもかわいいな、と機嫌がよくなるくらいのものだった。この肉体の反射について、嫌がられてはいないと知っているせいもある。
「先輩のくだりからだろ」
「違う、二人で座った瞬間から結構キてた」
「なにそれ、サイテー!」
 ゲラゲラ笑いながら牧の腰に腕を回し、もう一方の手でその股座をさすった。
「おい藤真」
「魔除けの指輪、くれるならお揃いがいいな。オレだって牧のこと心配だ」
「もちろんだが、そこ触りながら言うことか?」
 無視できない感触に、牧は唾を飲んで身を捩る。
「勃ってんだから触るだろ」
 天使にも悪魔にも見える微笑の前に、言葉も思考も吹き飛んで、そこからはただ互いに求めるものを喰らい合うだけだった。

きみを知った日 4

4.

 牧の部屋のソファはいつしか二人掛けのものになっていた。藤真は当然のように牧の隣に座り、逞しい肩に頭を押し付ける。
「どうした?」
「甘えてるんだ。そのくらいわかれ」
 藤真の視界の外で、牧は小さく笑った。知りたいのはその理由だったが、以前訊ねたところ「付き合ってんのに甘える理由とか必要なのかよ」と怒られたので、本人から言い出す以外は突っ込まないことにしていた。
 外見は柔らかく可愛らしい印象だが、内面は情熱的で少しきついところもあって、しかし結局巡り巡ってやはり可愛らしい、というのが藤真と付き合ってから感じていることだ。どうやら今日もいつも通りのようなので、牧は仰せのままにと頭を撫でる。柔らかな髪がさらさらと指を通って心地よい。凭れ掛かって下を向いたまま、藤真は言った。
「牧、オレのこと好き?」
「ああ。好きだ」
 この問いも初めてではなかった。最初のときもだが、その後も問われたことがある。疑われるような行動をとったわけでもなく、今日のようにごく唐突だったから、なぜそんなことを聞くのか、男同士で体まで繋いで、好きに決まっているだろうにと不思議だった。
 今はもう慣れてしまった。難しいことでもない、ただ思っているままを言えば藤真が嬉しそうに、安心したように笑うのだから、疑問など抱く必要はないのだ。
 しかし今日の藤真は違った。深く溜息をつき、天井を仰ぐ。
「あーあ、やだなオレ、めんどくせー女みたい」
 珍しく自己嫌悪的な発言をした恋人を、牧はきょとんとして見返す。
「別に藤真はめんどくさくないぞ」
「そっか……めんどくさくないのか」
 優しい目、優しい口元、包み込む大きな手のひらの感触に浸りながら、牧の言葉を頭の中で反芻するうち、急に目の前が開けたような気がした。
 過去に女子と付き合った理由も、長続きしなかった理由も、もっぱら〝面倒だったから〟だ。相手がいないと知れば言い寄ってくる者がいたし、付き合ったら付き合ったで部活よりデートだの、服や化粧にコメントしろだの求められることに辟易した。結局のところ、相手に対してさほどの興味がなかったせいだろうと思う。
 しかし牧に対しては違う。部活を優先する感覚が一致している点は大きいだろうが、それだけではないと思う。互いに忙しく、家も近くないというのに、どうにか時間を見つけては二人で過ごした。未だ快楽のみではない行為だとて、藤真が牧を拒絶することはほとんどなかった。
「うん。オレも牧のこと、めんどくさくなかった」
 最初は興味本位だったと思う。初めての行為には没頭してしまったが、その後果たして関係を続けていけるのか、疑問に感じたこともある。しかし今は違う。
 たかだか十七年生きて、バスケット以外での賛辞など拒絶してきたほうが多いくらいで、恋だの愛だのという言葉と、今ここにある感情が正しく結びついている自信はない。しかし、ラベル付けなどどうでもいいようにも思える。
「牧、オレもお前のことが好きだ」
 牧は一瞬驚いた顔をしたのち、かつて他人に見せたことがないくらいに破顔した。
「初めて聞いた……気がする。今日はいい日だ」
 牧の表情に、言葉に、呆然としてしまった。
「そうだっけ?」
 声が無様に掠れた。牧はどうしてこんなに優しいのだろう。嫌な男だ、強くて、性格も良くて、どこまでも完壁で。なぜだか泣きたいような気持ちになって、もう一度牧の肩に頭を押し付けた。
(甘えてるんだ)
 いつだってこうして、理由も言わずに。ただ無条件に──義務も結果も関係なく──好きだと伝えてくれる男に寄り掛かっているとき、それを救いのように感じている。
(オレは一生お前に勝てないんじゃないだろうか)
 気が遠くなる、これはごく私的な感慨だ。ここはコートの外で、二人しかいない場所だから、今くらい何を思ったって、たとえ牧に寄り掛かったって構わないだろう。
 ユニフォームを着てコートに立てばこんな思いは過ぎりもしないし、牧だって優しくしてはくれないのだから。

<了>

きみを知った日 3

3.

「ごめん、シャワー借りたい」
「別に気にしないが……じゃあ、そうするか」
 今にも押し倒してきそうだった牧がぴたりと動きを止めたことに、言葉通りの申し訳なさを感じたが、ここに来るまでに少し汗を掻いたと思い出したら、無性に気になってしまった。
 手を引かれ、浴室のドアの前に連れられながら、豪邸でもないのだから場所を教えてくれるだけでよかったのでは、と藤真は首を傾げる。牧はバスタオルを出すと「いっぺんに済ませよう」などと言って自らのシャツのボタンを外し始めた。一緒にシャワーを浴びる気のようだ。藤真としては自分が女役だろうと思ったから気にしただけで、牧にも同じことを求めるつもりはなかった。
(牧ってやっぱり天ね……いや、ただのエロ目的か)
 牧の手の動きを追うように視線を下に遣ると、ズボンの下に隠れているものは先ほどより一層張り切っているように見えた。
(合理的っぽいこと言って、もうやることしか頭にないな)
 部屋で手を握ったまま戸惑っていた牧は一体どこに行ったのか──責めるつもりではない、少し驚いただけだ。これから致そうというのに躊躇することもないだろうと、腹を括って藤真もシャツのボタンを外していく。
「……」
 視線が痛い。衣服を脱いでいく動作を凝視されているのが、なぜだか無性に恥ずかしく感じられた。背中を向けたのはささやかな抵抗だ。
 靴下も下着も取り去って、浴室に逃げ込むようにドアに手を掛けると、後ろから伸びた褐色の手が腰骨を撫でて絡みついた。感触と、自分との肌色の違いにひどく落ち着かない気分になりながらも、藤真は何も言わず浴室に進んだ。牧も続く。
 一人暮らしにしては広めの浴室ではないだろうか、と思うや否や「狭いな」と声がして、体をぴたりと寄せて後ろから抱かれていた。
(そこまで狭くないだろ!)
 尻に当たる硬く反り返ったものの感触と、直接触れ合う体温と、牧のとぼけたような反応の可笑しさとが一気に押し寄せて、どこに注意を向ければよいのやらわからない。ただ、これからの行為への実感が急激に湧いて、顔が、全身が熱くなっていくのがわかった。
(牧、そんなにオレとやりたいのか。こいつって、こんなやつだったんだ。なんか、かわいくなってきた……?)
 くすぐったいような、もやもやするような、恥ずかしいような。しかし決して悪くない気分だ。自分の体も熱いが、それを包む牧の体温はもっと熱い。人と肌を合わせること自体は初めてではないが、力強く包み込まれる感触はかつてないもので、息苦しさと興奮と、溺れてしまいそうな錯覚を藤真にもたらした。
「んっ…」
 首筋に鼻先と唇が触れたようで、それからねっとりと舌の這う感触があった。
「シャワー……」
 牧は「そうだった」と呟き、後ろから手を伸ばしてシャワーに湯を出した。二人の体を濡らし、ボディタオルに盛大に石鹸を泡立て、藤真の体に泡を乗せていく。肩、胸、脇腹、と体の線を確かめるように手のひらを滑らせ、再び胸に触れたときには洗うとは言いがたい動作で、無い胸を揉むように撫でて乳首を弄った。
「あっ…ふっ…」
(まあ、そうなるよな)
 すっかり愉快な気分になってしまった藤真は、喘ぎと笑いの入り混じった声を漏らしながら体を反転させ、牧と向き合った。鍛え上げられ、逞しく引き締まった肉体は、試合の際に何度も見てきたものだったが、何も纏っていない姿には一層堂々とした凄みがある。硬いだけでない弾力も含んだ胸、腹筋と、おそるおそる手のひらで泡をなぞっていくと、視線は当然その下にも及んだ。
(うーん、デカい……)
 そう多くの男の興奮状態を見たことがあるわけでもないが、色黒で、太く逞しく、荒々しく血管を浮き立たせているそれは、体格相応という以上に立派に思えた。藤真もまた男子の多分に漏れず〝男の性器は大きいほうが優れている〟という感覚を漠然と持っているため、牧は全身が完璧なのかと改めて感心してしまった。
「なんだ?」
「きれいに焼けてると思って」
 それもまた正直な感想の一つだった。皮膚も剥けておらず、綺麗な褐色の肌をしている。「焼けてる」と言ってしまったが、地黒が強いのだろう。
「お前の体も白くて綺麗だぞ。石鹸の泡がよく似合う」
「なんだそれ、変な褒め方」
 適当に言っているのだろうと思ったが、牧の顔は至って真剣だ。
「変じゃないだろう。石鹸のCMみたいなんだ」
「全然わかんねー」
 藤真は軽い調子で笑ったものの、じっとしていられないようなむず痒い衝動を感じて、牧に抱きついた。
「……わかんないけど、お前に褒められたら嬉しい気がする」
 牧を喜ばせようと思ったわけでもない、正直な言葉だった。
 初めのうちは、バスケットに限ってだったと思う。牧のことを認めているからこそ、互いを意識し合う関係性を好ましく感じていた。今嬉しくなってしまったのも、好きだと言われてこの状況に辿り着いたのも、そういうことなのかもしれない。特別だと感じている相手からもたらされるものだからこそ嬉しいのだ。
「藤真……」
 頬を淡く染めながら、軽やかに弾けるような笑顔を浮かべた藤真に見惚れ、牧は感極まったように呟くと、藤真をしっかりと抱き締めてくちづけた。密着した体が泡で滑り、互いの肌の感触を際立たせる。身を委ねる意思表示のつもりで、藤真は牧の広い背中に腕を回した。
「あっ、ん…っ」
 大きな手が背中を撫でながら下降し、尻の肉を掴まえて揉みしだく。日頃そう触れられることのない箇所は自覚以上に敏感で、思わず声が漏れた。快感の気配にもどかしく身を捩ると、硬く勃ち上がった性器が二人の腹の間で擦れ合い、卑猥な感触を生んだ。そうしながらも、牧は唇に何度も短いキスをしてくる。
(やっぱキスが好きなんだ)
 ぼうっとする頭で呑気なことを考えていると、尻肉の感触を愉しんでいた手の指が、谷間の窄まりに触れた。
「っ…!」 
 驚きと羞恥から、体がぴくりと震え、一気に顔に血が上る。男同士でそこを使うことは知っているし、覚悟もあったつもりだが、実際に触れられると非常に居た堪れない気分だ。
「あ、ぁっ…」
 牧の指の少し硬い皮膚が柔らかな表面を掠めるように撫でるうち、恥ずかしさだけではない明確な快感が生まれていた。息を乱しながら、どうしていればいいのかわからない、無知な処女にでもなった気分で牧にしがみつき、肩口に額を押し付けて顔を隠していた。指は、まだ閉ざされた入り口をほぐすように弄り始める。
「んっ…」
 石鹸の滑りを使って、今にも中に入り込みそうな動作をしながら、しかしそれはなかなか訪れない。好奇心に溢れ、貪欲に快楽を求める若い心身は、もはや次のステップを待ちわびていた。
「まき…」
 早急に進めてしまうのがもったいなく思えて、同じ動きを繰り返していたが、甘く強請るような声は無視できるものではなかった。牧は柔らかな粘膜の狭い隙間に、滑る指を潜り込ませる。
「ぅ、あぁっ…」
 少し高い声も、首筋に額をぐりぐりと押し付ける動作も、堪らなく愛らしい。逸る気持ちと疼く下半身を抑え、ゆっくりと深く指を挿入していく。指一本でも入り口はきつく締め付けてくるが、内部は優しく包み纏わりつくようで、そこに自らを収める想像に、理性を失いそうだった。
(オレ、女みたいにされてる……)
 牧のごつごつとした指の節が、誰にも触れられたことのなかった箇所を抉り、擦っている。違和感はあるが、痛みというほどではなかった。合意しているせいか、不思議と屈辱ではない。ただ、尋常な行為ではないという実感は強くあって、そのことに非常に──興奮していた。もっと知りたい。そんな穏やかな動作ではなく、ひどくしてみてほしい。
「ぁんっ!」
 後ろのことばかり考えていると、不意に性器を握られ、敏感な先端部を指の腹で擦られて、それこそ女のような声が出てしまった。
「藤真……感じてるんだな」
 褐色の手の中で、すっかりと露出した淫靡なピンク色が、涎を垂らすようにたっぷりと先走りを滴らせている。その姿にひどくそそられながら、潤んだ亀頭部を容赦なく攻め立てる。
「いっ、ぁ、あぁっ…!」
 自分でするような加減がなく、強制的に快楽を与えられ続けながら、後ろを拡げるように掻き回されると、体の内から波のような快感が湧き起こり、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「ふぁっ、ぁんっ…まき、やめっ…んむっ!」
 快楽に歪む顔も堪らなく好くて、貪るようにキスをした。ねっとりとした舌の感触も、唇の隙間から漏れる弱い声も好かったが、やはり顔が見たくなってすぐに解放した。
「っ、まき、もうムリ、立ってらんない……」
 懇願するように呟くと、指が抜かれ、背後でシャワーの水音がした。体を流すのだろうと息を吐くと、穿たれていた箇所にシャワーを当てられ、水流と一緒に再び体内に指を挿入された。
「っ…!?」
 藤真はもう少し耐えなければならないようだった。

 浴室を出ると、どちらともなく互いの体をバスタオルに包んでわしわし拭いて、戯れ合いも無駄話もなく、急くようにベッドに滑り込んだ。男二人が眠るには窮屈なセミダブルだが、はなから体を重ねてしまったので気にはならなかった。否、それどころではなかったというのが正しい。
 牧は藤真の首筋に鼻先を埋め、首、胸元へと愛しげにキスを降らせる。愛らしく声を漏らす藤真の反応をそう愉しむ余裕もなく、ミルク色の肌に淡い血の色を載せた薄い皮膚に、誘われるように舌を這わせた。
「ぁんっ」
 浴室でのことですでに興奮しきり、硬く屹立した乳首はすっかり敏感になっていた。感触を愉しむように舌を押し付けて転がし、唇に挟み、甘く歯を立てる、そのたびに小さく声が上がる。もう一方を指先で摘み上げると、呑み込んだ声とともに体が大きく波打った。
「敏感だな」
「お前のせいだ」
 指先と口とで胸を苛められながら、藤真はもどかしい思いで牧の広い背中をなぞる。
「それ、楽しいか……?」
 男の胸なんて吸って、と頭の中で続けた。
「楽しいぞ? 乳首もいい形になってきた」
「どんなだよっ!」
 冗談なのか、そうでもないのか、測りかねながら牧の背中をバチンと叩いた。いい音がしたが、大した力ではない。
「お前だって、感じてるじゃないか」
「そうだけど……」
 藤真は視線を泳がせた。もっとストレートなものがほしい。
「!! ……せっかちだな」
 性器を掴んできた藤真の手と顔とを交互に見て、牧は驚いたように笑った。
「お前に言われたくない」
 白い手が根元から裏筋を辿るように撫で上げ、ぎこちなく握り、形を確かめるようにゆっくりと上下する。自ら仕掛けておきながら、迷うような動作が愛らしかった。牧は応じるように、藤真の昂りを愛撫する。躊躇いなく快感を引き出そうとする動作に、藤真も遠慮なく牧の感じるところを探っていく。
 荒い呼吸と低い呻きと小さな水音に溺れるように、何度もキスをしながら互いの体を撫で合っていたが、それだけでは飽き足りなくなって、牧は体を下へとずらした。薄く筋肉のついた贅肉のない腹部、可愛らしい臍、薄い茂みの先には先ほどから愛でている淡い色の男根が屹立している。膝を立てさせ、脚を開かせると、牧はまじまじとそれを眺めた。
 藤真は全身がきれいだ。自分と同じものを持っていてもまるで違うように見え、しかしやはり同じ衝動があって同じ行為もするだろうと思うと、しきりに劣情が煽られる。浴室であまりよく見られなかったそれをしげしげ眺めていると、白い脚に体を挟まれた。
「……なに?」
「鑑賞してる」
「なんだそれ! 変態かよ!」
 牧の背中に脚を回して器用にかかとで蹴りを入れるが、牧からしてみれば脚を絡めて強請られているようで、ダメージはなく、むしろ燃料になるばかりだった。
「変なことばっかりされると冷める……あっ!」
 そうなっては困るので鑑賞は切り上げることにして、藤真の昂りに唇を寄せた。根元から頂上へ向かって、丁寧に舌を這わせていく。
「あっ…んんっ…」
 先端を口に含み、雁首や鈴口へ舌先を沿わせるとやはり弱いようで、しきりに体が跳ねた。それ自体も悦んでいるようにピクン、ピクンと震えるのが愛らしく感じられて、えずく寸前まで深く咥え込んだ。手で根元を支えながら、顔を上下させて口腔全体で愛撫を施す。
「あっ、あぁ…、まき…」
 甘い、可愛らしい声が名前を呼んでいる。もっと聞きたい。もっと気持ちよくさせてやりたい。その一心で行為を続けた。
「んっ、待て、だめッ、イきそ…」
 口内は藤真の体液でぬめり、卑猥な音を立てている。うわごとのように零れる言葉も全て、牧の耳には快感だった。
「まき、ダメだってばっ…!」
 早くも達してしまいそうになって、藤真は牧の肩を強く押し返す。性器の先端から、ねっとりと糸を引きながら離れていく肉厚の唇を、不覚にも色っぽいと感じてしまった。もはや冷めたなどと言える状態ではない。
「わわっ!」
 逞しい腕が体を畳むように腰を抱え上げ、脚を開かせ、あらぬ場所を晒させる。いよいよ女になった気分で天井を見上げながら、牧が何やら準備するのを待っていると、脚の間に冷たいものが垂らされた。
「なに!? …あっ!?」
 ぬるりとした感触とともに、簡単に指が挿入されてしまった。
「ローション」
 ごく当然のように答えた牧を追求したいところもあったが、脱線したくなかったので黙った。牧は潤滑剤を纏った指で、襞の一枚一枚をほぐすように丁寧に濡らしていく。一旦指を抜くと潤滑剤を足して再び挿入し、慎重すぎるほどに内部を潤し慣らしていった。
「あ、んっ…あぁ…っ」
 浴室でもしきりに嬲られていたそこが快感に畝るようになるのは容易く、指はすでに二本含まれていた。誘うような収縮とともに、体温を帯びたローションが愛液のように溢れ出して尻の狭間を伝う、とろとろとした感触がいやらしく興奮を煽る。
 浴室とは違う角度で中を探られるうち、不意にこれまでとは異なる強烈な快感が奔った。
「あっ…!?」
 思わず大きな声が出てしまい、藤真は自分でも困惑する。
「ここか?」
 指を藤真の体の前側へ曲げ、一点をゆっくりと押してやると、指を含んだ秘部も体全体も、一際大きく波打った。
「ぁんっ…!? あ、んっ、ダメ、そこ…!」
 全身を支配し呑み込んでいくような、かつて感じたことのない快感に、藤真は得体の知れない恐怖を感じて首を横に振る。
「ダメ? いいんだろう?」
「〜〜……!!」
 同じところをしきりに刺激してやると、声を抑えているのだろう、藤真は口を手で塞ぎ、喉を反らせてびくん、びくんと大きく体を震わせている。潤んだ秘部は収縮し、指を奥に引き込んで、まるで求め誘っているかのようだ。足の爪先が、ぎゅうと指を丸めて縮まっている。そんな仕草も愛しくて堪らず、膝頭にキスをした。
「ん、まき…」
 怖い。気持ちいい。もっと知りたい。もっと──整理のつかない欲求が一気に押し寄せて、藤真は何も考えられないまま、顔を真っ赤にして呟いた。
「牧のが欲しい」
「ああ……」
 縋るような目で、泣きそうにも聞こえる声で求められ、牧はそれだけで達してしまいそうな気分だった。藤真のからだが充分にほぐれたろうかなど、全て頭から消え飛んで、指を引き抜き、明らかに過剰なまでに自らの男根にローションを塗りたくり、もはや性器としか見えない尻の狭間に二度三度と擦り付ける。
「藤真…」
「まき…?」
 ほとんど吐息のような呟きに、それでも応えてくれる藤真が愛しくて堪らず、もはやそこにしか行き場のなくなった昂りを、欲望のままに押し込んだ。
「うっ…! あっ、ぁあぁっ…!」
 ゆっくりと、しかし容赦なく、熱く硬い肉杭が体の中にめり込んでくる。慣らされたとはいえ、牧の質量はやはり圧倒的で、体を開かれる鈍い痛みと、内臓が押し上げられる強烈な圧迫感に、藤真は苦しげに眉根を寄せた。
「っく……んぅっ…」
 根元まで挿入し、藤真の体にぴたりとくっついた下腹部をなおもぐいぐいと押し付けながら、牧は溜め息混じりに陶然と呟く。
「藤真……入ったぞ……」
 白く綺麗な体の中心で、淫靡な色の秘所がめいっぱい口を拡げ、涎を垂らしながらどす黒い欲望を咥え込んでいる。卑猥な光景と強く締め付ける弾力とに、何も考えられなくなっていく。
「うん…」
 大きな手が小さな顎を掴まえ、厚い舌が桜色の唇をべろりと舐める。受け容れるように微かに開かれたそこに、唾液を送って潤ませ、二人の間で糸を引くさまをうっとりと鑑賞する。体を穿ってもまだ足りないとばかりに、深く、呼吸までも貪るように傲慢にくちづけた。
「ん、むぅ…」
 体を折り曲げ、臓腑を圧迫されながら、男の性器に穿たれた体内はじんじんと熱く疼いている。まだ快楽とは呼べない、苦痛ですらある状況だが、藤真は不思議と満たされた気分でいた。
(牧、そんなに……?)
 牧は常のような力のない、陶然とした目でこちらを見下ろしている。しきりに何か囁いてはキスをして、体に触れて、返事をしてやれば嬉しそうにしていた。その態度も体に埋まったものも、全てが自分を求めている。そう実感すると肉体の苦痛など些細なものに思えた。
「動かすぞ」
「あぁ、あっ…」
 返事を待つでもなく宣言だけして、牧はゆっくり体を引いていく。密着し、一つに馴染んだようだった粘膜が再び二つに剥がされる、痛みに藤真は顔を歪める。
「んっ、クッ……あぁっ、ぁんっ!」
 牧は再び体を進めながら、藤真の性器を掴まえ、鈴口を割り開くように愛撫した。反射的に体が跳ね、体に埋まった牧のもので内部を強く抉られる。
「ひっ、あんっ、あ、あ、あぁっ…!」
 前を扱かれながら一定の調子で突かれ続けるうち、じわじわとした快楽が体の内から生まれていた。指で刺激されたときほど強烈ではないが、あちらは意識が飛びそうなほどだったから、今のほうが丁度いいのかもしれない。
「気持ちいいか?」
 完全にそう確信しながら問うているであろう、牧の背中を強く掴むように指先を立てた。そう単純な快感ではない。体を穿たれ、激しく揺さぶられる苦しさが潰えたわけではないのに、この男は身勝手で呑気で──単純で愛らしい。藤真は掠れる声で囁いた。
「いいよ…」
 いかにも作った風に上ずってしまった声は、しかし牧には至極甘いものとして届いていた。尻尾を振る犬のように喜んで、なおも行為に没頭する。

 荒らぐ息と肉のぶつかる音を聞きながら、揺さぶられ掻き混ぜられるうち、藤真も余計なことは考えなくなっていた。脚を絡め、腰を揺らして相手に応え、自らもこの行為を愉しんでいた。
 早い動作を繰り返し、一旦緩め、再び元まで戻して──そうして快楽の時間を引き延ばしていたが、牧はついに藤真の耳に唇を寄せて呟いた。
「ふじま……もう、限界みたいだ」
「ふ…オレも……」
 ちゅっと軽いキスをして、牧は抽送の速度を上げていく。これまでとは異質な速さと激しさで腰を打ち付けられ、逞しい褐色の体躯に組み敷かれた白い体がベッドの上で力なく上下する。快感を得る道具にされているようだと感じると、なぜだか最高に興奮した。
「あんっ、あ、あぁっ、んっ…!」
「藤真…出すぞっ…」
 視界が潤み、牧の顔もだらしなく歪む。
「ぁんっ…いっ…ナカ、出して…っ! ん、あぁぁぁっ…!」
 働かない頭で思いつく限りの卑猥な言葉を吐くと、潰れそうなほど強く抱き締められ、幾度も乱暴に最奥を突かれながら、欲望の爆ぜる衝撃を感じていた。
(熱い……牧の……オレの中に……)
 牧が自らの中で果てた事実に、何かを成し遂げたような満足感を感じながら、藤真もまた達し、自らの精液で腹部を濡らしていた。

 シーツの中で藤真の体を大切そうに抱えながら、牧はゆっくりとした口調で語り出す。
「初めて会った日から、すごいインパクトだったんだ。巧さだけじゃない、独特の空気みたいなもんを持ってるやつだって。だがそれはあくまでプレイヤーとしてだった……と思う」
 なぜ唐突に昔話を始めたのだろうと思いながら、藤真は黙って牧の腕の中に収まっていた。気分は気怠く落ち着いている。
「いつからか、バスケとか関係なくお前のことが気になってたんだと思う。今日だって、会場のあんな会話だけで別れるのが惜しかったんだ」
 藤真は長い睫毛を揺らしてぱちぱち瞬きするばかりで何も言わない。口数の多い彼にしては不思議な反応に感じられたが、嫌がってはいない様子なので話を続ける。
「その、こういうことになるとは、想像もしなかったんだが……きっと、きっかけがなくて気づかなかったんだな」
 藤真に言葉を導かれたあとは、自分の気持ちを疑うことはなかった。これまでそういった意識や衝動が生まれなかったのが不思議なくらいだ。
「なにそれ、言い訳? 後悔してる?」
「するわけないだろう。……藤真、なんだか随分と素っ気ないな。もしかして嫌だったのか?」
 少し前までは名前を呼び合いながら情熱的に抱き合っていたと思うのだが、衝動に突き動かされていたばかりで、最中に冷静だった自覚もない。途端に不安になって藤真の顔を覗き込んだ。
「違う。終わったあとってテンション下がるだろ、賢者タイムってやつ」
「そうなのか、俺はあんまりそういうのはないんだ」
 話には聞くが、牧にはほとんど自覚したことのない感覚だった。
「まじで? どういう体質してんだよ」
「体質なのか?」
「メンタルか? どっちでもいいけど」
 それきり藤真は黙ってしまった。今は話さないほうがいいのだろうかとも考えたが、今以外のタイミングもないだろうと再び口を開く。
「なあ藤真、俺はこれからもっと、お前のことを知りたい。バスケ以外のことも」
 言って、藤真がしてくれたように、指と指を交互に絡ませて手を握った。藤真はその手を見つめ、少し強く握ったり、力を緩めてみたりしている。
「そんなにいろいろあるかな」
「あるさ。一緒に居たら、俺が勝手に見つける。だから藤真」
 言葉を切ったのは、珍しく怖れを感じたせいかもしれなかった。しかしもはや気持ちに偽りも迷いもない。深く息を吐いて、ゆっくりと吸う。言うしかなかった。
「俺と、付き合ってくれ」
 恐いくらいに張り詰めた、真剣な瞳の先の表情は、それを受け止めて包み込むように柔らかく微笑む。そしてごく簡単なことのように言った。
「いいよ。……よろしく」
 羽根のようなキスが呼吸を奪う。その儚げな感触に浸るように、牧は視界を閉ざした。

きみを知った日 2

2.

 目を覚ますと見慣れない白い天井があって、妙に圧迫感のある頭部の、左のこめかみがずきりと痛んだ。記憶は試合の途中で途切れている。
「藤真!」
 声とともに、よく見慣れた黒縁眼鏡が視界に飛び込んだ。
「花形……?」
 辺りを見回す。白いベッドと白いカーテンの、ここはどう見ても病室だ。花形の他に二年の部員が何人か居て、安堵と緊張の入り混じった、なんとも言いがたい表情をしている。相手選手の肘を受けたきり、記憶は試合の途中で──そうだ、今は試合中だ。自らの置かれた状況を理解しきらないまま、藤真は勢いよく飛び起きた。
「試合! 早く戻るぞ!」
「……」
 沈黙が答えだった。チームメイトが困ったように顔を見合わせ、花形は眼鏡の奥で目を伏せる。
「もう、終わったよ」
 様子から、結果を想像することは難しくはなかった。しかし気づかない、信じないとでもいうように、藤真はゆっくりと首を横に振る。
「オレたちのほうがリードしてた。あのまま勝ったんだろ?」
 声が震え細く掠れる。まだ夏だというのに、病室の寒々しい空気が肌に刺さるようだった。早く戻らなくてはならないのに、花形の腕が体を縛ってベッドから出られない。
 花形は深く息を吐き、重い口を開いた。
「試合は俺たちの負けだ、藤真。夏は終わった、切り替えていこう。傷が大したことないようでよかった」
 まるで子供に言い聞かせるようにゆっくり、はっきりと告げられた事実に感情が伴ったのは、家に帰り着き自室で一人になってからだった。

 翔陽高校バスケットボール部にとって、波乱の夏だった。
 インターハイ・豊玉戦。藤真は二年生唯一のレギュラーにして、早くもエースの座にいた。ポイントガードでありながらチームの得点の半分以上を挙げ、良い雰囲気でゲームを進められると思った矢先──相手選手の肘を頭部に受け負傷退場してしまう。
 エースの抜けたチームは足並みも乱れて逆転負けを喫し、猛バッシングを受けた監督は元々の体調不良に加え、心労のため療養、復帰は未定となった。
「なんで監督が叩かれてんだ、悪いのはあいつだってのに!」
 忌々しげに声を荒げるチームメイトに、藤真は対照的に静かな口調で言った。
「そんなこと言うもんじゃない。言ったって、仕方ないだろう」
「藤真っ……!」
 あの試合の当事者ならば、或いは相手のプレイスタイルについて知っていれば、単純な事故ではないことは明白だった。張本人に宥められ、チームメイトは余計に苛立ちを募らせる。
「俺たちは見てたんだ、奴はお前を狙って」
『黙れ。聞きたくないと言ってる』
 藤真が不快感を露わにして発するよりも、花形が二人の間に入るほうが早かった。
「藤真、先生が呼んでる。行こう」
 その姿を相手から覆い隠しながら、花形は遣る瀬なさに伏せられた藤真の瞳を見た。悔しいはずだ。悲しいはずだ。しかし彼の涙を見たことは未だない。気の強い男だ、一人になったときにでも素直に泣くことができていればいいと思う。
 すぐに後ろを向いてしまった、藤真の背中を押して花形も部室から退散する。いっそ何の疑惑もない事故だったなら。いっそ完全なる敗北だったなら。決して口には出せない仮定と想像が脳裏を巡っていた。
 監督への批判、相手への誹謗、外野からの慰めの言葉、周囲の落胆。そのどれも聞きたくなどないのだと、藤真は言った。あのとき自分が違う判断をしていれば、もっとフィジカルが強ければ、全ては今と違ったかもしれないと、いつまでも考えてしまうからと。
 ならばどうすれば彼は救われるのだろう。託し、期待する側でしかなかった自分に一体何ができるのだろう。
「藤真。その……俺にできることがあったら、なんでも言ってくれ。本当に、なんでもいいから」
「なんだよ、急に。……ああ、それじゃ理科のノートを見せてくれ」

 事前から明言していた者も、そうではなかった者も、三年生の全員がインターハイを最後に実質引退し、翔陽高校バスケットボール部は藤真を中心とするチームに生まれ変わった。
 一年のときからすでに中心選手ではあったものの、今回はそれだけではない。上層部の意向や現監督との契約の問題など、諸々の事情が折り重なって、二年の藤真がプレイングマネージャーとして監督を兼ねることとなったのだ。
 強豪校の異例の人事は近隣の学校でも話題になったが、外部から口を挟めることでもない。選手としての藤真に注目していた他校の監督陣も関係者も、見守るほかなかった。
(オレは、オレたちは翔陽なんだ。今度こそ、皆の期待に──)
 自らを奮い立たせるように頭に浮かべた言葉に、藤真は自ら首を横に振る。
 次の公式の試合はウインターカップ──彼らが〝冬の選抜〟と呼ぶ大会の予選だ。その名の通り本戦は十二月下旬だが、神奈川県予選は九月に行われる。今年のように全員揃ってではないが、インターハイを境に三年の多くが引退するのは翔陽では通例で、一方、大学の附属校である海南は三年も大半が残る。本戦に進めるのは県から一校だ、結果は見えているようなものだった。そのためウインターカップ予選については試合の場数を踏む意味合いが強く、インターハイほどの期待はされていないのが実情で、年度の途中から新監督を招聘しなかった理由の一つでもあった。
(皆のモチベを保つこと。少しでもいい結果になるように努めること……)
 そして何より自分が経験を積むこと。
 同級生も後輩も、大半が協力的な態度を示してくれたことが救いだった。それらに背中を支えられていると感じ、大きな意欲が湧いた。
 しかし、同時に責任も感じていた。重荷でなかったといえば嘘になる。
 新たに学ぶこと、覚えなければならないことは膨大で、余計なことは気にしていられなかった。ショックから立ち直るには丁度良かったかもしれない。
 しかし疲れてもいた。重い瞼に抗って、ベンチで本を抱えながら、ミニゲームに勤しむ仲間を羨ましく眺めたものだった。

 十月下旬、陵南と他校の練習試合の会場。
 二階の手すりに寄り掛かり、藤真は一人──珍しく花形と一緒ではなく──真剣な顔で試合を眺めていた。ルーキーの仙道を始めとする選手たち。ベンチの様子、監督の指示、その意図するところ。これまでとは違う領域の動きも追いながら、少しでも思うところがあればメモを取った。
 ふと隣に、それも赤の他人が並ぶにしては妙に近くに、人が立っていることに気づく。前に傾けたままの姿勢で見上げると、よく見知った大人びた顔があった。
「うおっ、牧! なんだ、声掛けろよ」
 整った眉をぴくりと釣り上げ、小さく不満を表した藤真に対して、牧は飽くまで悠々と構える。
「邪魔したら悪いかと」
 ウインターカップ予選で監督席に座り、ほとんど試合に出ない藤真の姿には、虚脱感さえ感じたものだった。怪我の具合が悪いのかとも思ったが、海南対翔陽戦では後半から出ていたので、おそらく大丈夫なのだろうと思い込むようにしていた。
 試合の後「うちと当たるまで勝ち進むなんて大したもんだ」と素直な賛辞を口にすると、藤真との間に他の部員達が壁のように立ちはだかって、その向こうから「そりゃどーも」と不貞腐れたような声が聞こえた。その場での直接の会話はそれだけだった。
「怪我は、もう大丈夫なのか?」
「お前こそ大丈夫か? 記憶失ってる? 選抜予選、一応対戦したんですけど?」
「そりゃ覚えてるが、フルでは出てなかったし、タイミングが合わなくて声掛けられなかったから気になってた」
「素人がフルで試合出ながら監督やるなんて無理だって。それに、オレが入ってなくてもやってけるチームにしたいって思ってるし」
「春から新しい監督が来るんじゃないのか」
 それは牧の願望でもあった。藤真とのマッチアップを心待ちにしているし、彼がコートで動き回る姿をこそ見たいと思っているのだ。
「どうなんだろうな。どっちにしろ、層は厚いほうがいいだろ」
 遠くを見つめて目を細めた、声は少しだけ投げ遣りなようにも聞こえた。
「……インターハイの。あの試合、俺も見てたし、ずっと心配してた。時間さえ許せば見舞いに行きたかった」
 藤真は苦笑した。
「来なくて正解だろ。自分の立場わかってんのか?」
 牧が少し寂しそうな顔をした気もするが、愛想を振り撒いてやる義理もないので構わず続ける。
「だってそうだろ。順調に勝ち進んだライバル校のやつに会って、傷心のオレはなんて言えばいいんだ? オメデトウって?」
「そんなつもりじゃない。悪気はないんだ」
「ああ、知ってる」
 いつ、どんなタイミングでだって、牧に自分への悪意などないことを知っている。フィジカルの強さや試合中の印象とは打って変わって、彼はコートの外では穏やかで紳士だった。今だとて、友好的な感情以外は抱いていないだろう。
 途端、情けなくなって、牧から視線を外した。
「なんか駄目だな、オレ。お前に八つ当たりしてる」
 こんなことで監督など務まるのだろうか、とは喉の奥に呑み込んで、再びコートを見つめる。次に牧が口を開いたのは、試合が終わったときだった。
「別に、八つ当たりくらいしてもいいぞ」
「え? ……いや、その話はとっくに終わってるって」
 頭の中で前の会話を遡り、あまりに律儀な男に思わず吹き出した。試合中だって話し掛けられても構わなかったのだが、どうにもこちらに気を遣っているようだ。
「そうか……そうだな、藤真、これから忙しいか? よかったらお茶でも」
 不意に。そう、本当に不意に、いつかの花形との会話が光のような速さで頭を過った。
『お前、随分気に入られてるな』
『ヘンなことされそうになったら言えよ』
『なんだよ、変なことって?』
(──つまり、そういうことなんだろうか)
 唐突に浮上した可能性と、それを確かめるための思い付きを、熟慮せずに口にする。
「大丈夫だけど、話すんなら静かなとこがいいな。……そうだ、お前の家はどうだ?」
「うち?」
 牧は面食らって目を瞬く。彼の余裕を失った表情を見られただけで、藤真はにわかに愉快な気持ちになっていた。
「一人暮らしだろ? 無理なら別にいいけど」
「いや、大丈夫だ。少し遠いが」
「平気」

 牧の住居は、シンプルな外観の、比較的新しく見えるマンションだった。
「へえ、綺麗なところだな。ゴミ置き場も散らかってないし」
 途中のコンビニで菓子などを買ったビニール袋を鳴らしながら、藤真は感心したように呟いた。
「別に普通じゃないか?」
「東京でだけど、家族に付いて一人暮らしの物件を見て回ったことがあって。これはハイソなほうだと思うぞ」
「家族? 兄弟とかいるのか?」
「姉がいる」
 牧はまじまじと藤真を見つめ、深く考えずに呟いていた。
「さぞかし美人なんだろうな」
「……似てるって言われる」
 男女の差はあるものの、明らかに血縁者だとわかる特徴と造作をした、見目麗しい姉弟だった。女きょうだいに似ていると言われることを気にした時期もあったが、昔のことだ。
 三階に上り、牧のあとに付いて部屋に入ると、ダイニングキッチンというのだろうか、玄関から続くだだっ広いキッチンの壁にサーフボードが立て掛けてあった。
「牧ってサーフィンするんだ。それで焼けてるんだな」
 藤真はさも納得したというように頷く。
「海南って練習厳しいんだろ? 海に行く時間なんてあるのか?」
「まあ、たまにだな。最初に思ったほどは行けてない」
 サーフィンは昔からの趣味だった。引越しに際し、それについても期待していたのだが、どうやら海南の練習量を甘く見ていたようだ。バスケットにおいては充実した日々を送っているので、不満ではなかった。
「藤真は海行くのか?」
「高校入ってから行ってないかも」
「波乗り、楽しいぞ」
「多分、今までの人生で一度もサーフィンに興味持ったことない」
「そうか……」
 もちろん今も、と言わんばかりに本当に興味がなさそうな様子なので、牧はそれ以上話すことができなくなって居室へ進んだ。
「出た! バスケオタクの部屋!」
 壁に貼られたバスケットボール選手のポスター、レプリカユニフォームやシューズ、本の棚にはバスケットボール専門誌。それに混ざって飾ってある小さなトロフィーも、おそらくバスケット関連のものだろう。部屋自体は片付いていて、学生の一人暮らしにしては広々として見えた。
「皆こんなもんなんじゃないか?」
 ただの遊びで齧っているわけでもない、強豪校のバスケ部員だ、牧の言う通りではあった。
「そうかも。花形の部屋はさ、バスケのやつと勉強の難しいやつが交互に貼ってあって。なんとなくシュールで笑ったな」
 唐突に登場人物を増やして思い出し笑いをする藤真の言葉に、いつも彼の近くにいる長身の黒縁眼鏡を思い出す。
「花形……確か、センターの」
「うん、デカいメガネのやつな。あいつバスケもうまいのに、めちゃめちゃ頭良くて学年一位とか取るんだ。やばいよな」
「仲いいんだな」
 チームメイトならば部屋に遊びに行くことくらいあるだろう──あるのだろうか? 牧の感覚に照らせば珍しいことに思えたが、現に今こうして他校生の部屋にまで来ているのだし、藤真はそういうタイプということなのだろう。
「一年のときから同じクラスでさ、最初のとき席順が一志、花形、オレ、て並んでて。背でかいしバスケやってんのかなーって……いや、なんで花形の話?」
「お前が言い出したんだろう。まあ、座ってくれ」
 ようやく話題に疑問を感じたらしい藤真に、牧は一人掛けのソファを勧めた。基本的に人を呼ぶことを想定していない部屋のため、テレビ、ローテーブル、今示したソファと、ソファの右手側にベッドがあるくらいで、客人を座らせる場所はごく限られていた。
 藤真はコンビニ袋を傍らに置いてソファに座ると、リモコンを手にして勝手にテレビをつける。
「今なんかやってたっけなー」
 興味なさげな表情でチャンネルを切り変えていく藤真に適当に相槌を打ちながら、牧は自分の部屋で藤真が寛いでいるという光景を、至極不思議な気分で眺めていた。
 そこにあるはずのないものがある、違和感、あるいは現実味のなさというのか。
 知人というほど他人ではないが、友人と呼ぶほど気の置けない仲でもない。連絡先だってまだ知らない。それでいて、一番大切なこと(言わずもがなバスケットのことだ)に向き合うときにはいつだってその存在を意識している。いわば藤真は特別だった。
 そんな人物が、唐突に懐に飛び込んできたというのが今の状況だ。決して悪い気分ではないが、なんとも落ち着かない、危うい気配を感じなくもない。
 藤真は適当なところにチャンネルを据え、コンビニ袋から飲み物と菓子を取り出して外装を開くと、訝しげな顔で牧を見上げた。
「なんでずっと突っ立ってるんだ? オレがソファを乗っ取ったせい?」
「……いや、少し考えごとをしてた」
 のんびりとした答えに軽く吹き出しながら、菓子の個装を破く。
「牧って結構天然だよな」
「そんなことないと思うが」
「はいはい。……ん、これうまい。ほら」
 牧がソファの背凭れの後ろを通り過ぎようとすると、整った面が不意にこちらを仰ぎ、濃いピンク色のポッキーが一本突き付けられる。半ば口に押し込まれながら受け取って咀嚼すると、苺の爽やかな酸味と甘みが口の中に広がった。
「ちょっと高いポッキー。牧って甘いの好き?」
 食べさせてからそれを聞くのか、順番が逆ではないのかと思わなくもない。
「むしろ、嫌いな食べ物が思いつかないな」
「お、いいじゃん。好き嫌い多いやつって一緒にいてめんどくさいからな」
 中性的で優しげな顔立ちに、天使と形容される微笑を浮かべながら明け透けな物言いをするものだから、つい面白くなって笑ってしまった。
「なんだよ?」
「いいや。なんでも」
 ついでに、平時でないとき──バスケットをしている最中などはまた違う顔を見せてくれるのだが、それはまた別の話だ。
 牧は藤真の座るソファの右斜め前まで移動して床に腰を下ろした。そうすると、丁度ベッドに背中を預けて座ることができる。
「……」
 特別面白いとも思えないテレビ番組を眺め、藤真の顔を盗み見ると、目の前にポッキーの箱が差し出された。そういう意味ではなかったが、と思いつつ一本頂いて口にする。少し酸味が強いか。
「藤真、話ってのは一体?」
「こっちのセリフだろ。静かな場所をリクエストしたのはオレだけど、先にお茶に誘ってきたのはお前だ」
「あー……、あぁ……」
 そう言われればそうだったかもしれない。いや、そうだった。牧は気まずい気分で呻いた。そして実際のところ、話というほどの話はない。久々に会えたものの試合中は静かにしていたから、もう少し雑談でもしたいと思った、それだけだった。
「だからさ、そういうとこが天然なんだって」
 藤真はさも愉快そうに笑っているが、特に理由もないのに家に連れてきてしまったと言ったら怒られるだろうか。話題を探そうにも、試合会場でのことを思えばインターハイについてはやめておいたほうがいいだろうし、それと密接に絡んでいると思われる、翔陽バスケ部の現状や監督の件にも触れにくい。
(しかし、バスケ以外の話題なんてますます無いような気がするな)
 そこまで考えて、愕然としてしまった。それなりに知った間柄だと感じていたのに、バスケットを除いてしまえば、二人の間には何の所縁もないのだ。
 初対面は練習試合だったし、その後顔を合わせる機会も全てバスケット関連だった。互いにバスケットを主目的としてその場に居たに過ぎないのだ。牧にとっての藤真の存在が、他の選手と一線を画すものであることもまた確かではあるのだが──
「あのさ、もしかしてなんだけど」
 ゆっくりと、淡々とした口調だった。見遣ると藤真もまたこちらを見ていたが、表情にはつい先ほどまでの穏やかな笑みはない。感情を察せない整った顔貌はまるで作り物のように綺麗で、牧は無性に落ち着かない気分になった。
「な、なんだ?」
「牧って、オレのこと好き?」
「……!?」
 言葉は、シンプルであるほどに力を帯びるのだと思う。たった二文字のそれに想定外の衝撃を受け、牧はしどろもどろに答えた。
「いや、まあ、嫌いな相手を部屋に上げようとは思わないというか……」
 脈拍がおかしい。体温もカッカと上がって、握った手の中に汗が滲んだ。一部で帝王などと呼ばれていても、彼はコートの外では至って温和で、普通の少年らしい面も持ち合わせていた。
「そっか。そうだよな」
 藤真は小さく頷くと、視線をテレビに戻してポッキーを口に咥えた。
「……」
「……」
 二人の間にはテレビの音と小さな咀嚼音だけが流れていたが、牧の頭の中には藤真の言葉が何度も繰り返されていた。
『オレのこと好き?』
(それに対して俺はなんだ、なんて言った)
 がしがしと頭を掻く。今感じているものは、〝嫌いではない〟という程度の消極的な感情ではないはずだ。
 このまま流してしまえば、二人はいつまでもバスケットだけで繋がっている間柄だ。いや、それでいいのではないか、一体藤真とどうなりたいというのだ、そもそも彼の発言の真意はなんだ。
 混迷を極める内心に反して、口調は案外と落ち着いていた。
「待て藤真。好きってのは一体どういう意味で」
「……こういう意味」
「!!」
 藤真はソファから体をずり落として牧のそばに膝を付き、その手を掴んだ。握られていた拳を丁寧に広げて手のひらを重ね、二人の指の一本一本を互い違いに組んで握る。握手とは呼べない、男の友人同士ですることでもない、いわゆる恋人繋ぎというものだった。
「オレの勘違いなら忘れてくれ」
 無言の牧に対し、藤真は軽い調子で言って手を離そうとする──が、離れない。がしりと掴まれた手を自分のほうに引き戻そうとしても、びくともしなかった。牧はといえば、きまり悪そうに視線を泳がせている。
「その、そうだな、確かにお前のことは好きだ……が、具体的なことについては全く考えたことがなかったというか……」
 握ったままの熱い手のひらが、答えのようなものだった。
(照れてんのかな、これ)
 藤真は俯き、前髪に目元を隠しながらほくそ笑んだ。牧の目には、弧を描いた薄い唇が、ひどく色めいて映っていた。
「なら、試してみるか? 具体的なこと」
 顔を上げて目を細め、愉しむように微笑した、その表情に〝小悪魔的な〟という形容が浮かんだときには藤真の顔は随分と接近していて、牧は状況を理解するより先に目を閉じていた。
「……!」
 唇の感触は柔らかく、ごく優しいようなのに、体の芯に電撃が走ったようだった。もはや否定しようのないものを自覚しながら、藤真の背中に腕を回し、その身をしっかりと抱き寄せる。触れるだけだった唇を吸い、深く重ねた。
(甘い……)
 唇を割って舌を差し込み、柔らかな口腔内を探り、藤真の舌に触れる。応えるように蠢き絡みつく感触が淫靡だった。
 小さな頭を手のひらに包むように撫でると、柔らかな髪のさらさらとした感触が好くて、このまま腕の中に閉じ込めて大切に触れていたいと思えるのに、心臓はうるさく、呼吸は荒く乱れ、肉体は逸って熱い血を滾らせている。
「んっ…」
 藤真は苦しげに息を漏らす。一瞬唇が離れても、追い縋るようにまた塞がれる。最初は触れて撫でるだけのようだった行為が、深く喰らいつき貪るように変貌していた。
 牧の気持ちを探った理由は〝本当にそうなのか気になった〟それだけだったと思う。結果を蔑もうと思ったわけでもない、単純で純粋な興味だったはずだ。
 しかし彼の言葉を引き出したとき、藤真の中に確かな、そして多大な悦びが生まれていた。恋愛が成就した感覚とは違うと思う。想像が的中し、思い通りの展開になった嬉しさ。そしていつも自分の前に立ちはだかるこの完璧な男が、自分にただならぬ想いを寄せているという事実への、少し歪んだ陶酔感だった。
 今、牧に求められ喰らわれそうになっていることに、間違いなく興奮している。男を相手に体の中心が熱く疼き、自分の身が得体の知れないものになったようで恐ろしくもあった。
(それにしても)
「……はぁっ」
 思い切り顔を背けて長い長いキスからようやく逃れ、藤真は大きく息を吐いて思わず笑った。
「キス、好きなのか?」
「違う。お前のことが好きなんだ」
 もはや迷いなく言い放った、牧の表情は恐いくらい真剣で、瞳は肉食の獣のように鋭くギラついていた。好きだなど言われ慣れた言葉だろうに、重く臓腑に響くようで目眩がした。危うい心地は紛うことなき快楽だ。
 逃す気などないというように両の手首を捕らえられながら、藤真はあくまで柔和に笑い、すっかり牧の体に密着している自らの脚を僅かに動かした。腿に、硬い感触が擦れる。
「そうみたいだな」
「す、すまん……」
 謝りながらも離れる気配の見えない、牧の内情を想像しながら、藤真は逞しい首筋に額を埋めて小さく笑った。この先は経験したことのない領域だが、不思議と迷いはなかった。
「いいよ、オレも同じだし。……やっちゃう?」
 軽い調子で言って牧の顔を覗き見ると、ごくりと喉の鳴る音が聞こえた。

きみを知った日 1

1.

 痺れるように、鮮烈だった。
 動きの硬い選手たちの隙間を縫って、スピードに乗った小柄な体躯が飛び込んでくる。まっすぐこちらを向いた造作は少女めいていながら、大きな瞳の奥にギラギラとした光を湛えていた。心臓を射抜かれたような、このインパクトはなんだ。
「……っ!?」
 反応が遅れた、否、動きを読めなかったのか。しなやかな風が身体の脇を抜けていく。
(巧いっ!)
 やられた、振り返るまでもなくそう確信していた。
「牧が抜かれた!」「まじかっ!」
 海南ベンチの動揺の声。小気味良い踏切と、ボールがゴールを通る音。
「藤真ぁ! 決めたァ!」「やった、すっげえ!!」
 そして翔陽側の歓声とが牧の鼓膜を震わせ、しかしそれすらすぐに意識の外に追いやられる。
「っしゃあ!」
 藤真と呼ばれた少年は拳を握ってこちらを顧みると、瞳を細めて挑発的に笑った。つい先ほど交代で入った、周囲と比べて随分と小柄で華奢ではあるが、強い存在感のある、華やかな毒を感じさせる男だった。
 チームメイトが牧の背中を叩く。
「あいつも一年だってよ、牧。練習試合だからって手ェ抜いてんなよ」
「ああ……もちろんだ」
 今日の練習試合は両校の一、二年によるトライアル的なもので、牧もその重要性は理解しているし、手を抜いたつもりはなかった。翔陽にもいいポイントガードが入ったようだと試合前に聞いたが、藤真のことだろう。牧は確信とともに口元を歪め、愉快だと言わんばかりに微笑した。
 藤真の入った翔陽は、全く別のチームのようだった。レギュラーも固まっていないこの時期の試合、チームワークが心もとないのはお互い様だ。それでも皆が藤真に期待を寄せ、彼の投入によってこの試合に勝てるかもしれないと思い始めたことで、チーム全体の動きが良くなった。勝つことにはフィジカルのみでなくメンタルも非常に重要だ、牧は若くしてそれをよく知っていた。
 牧が肌で感じるものとそう遠くないことを考えながら、海南の監督である高頭はトレードマークの扇子を扇いだ。
 翔陽の勢いは感じるものの、そう簡単に逆転を許しては海南ではない。チームを鼓舞する藤真の存在に、牧もまた闘志を煽られ調子を上げていく。練習試合、さらに互いに一年同士とは思えないハイレベルなプレイに、チームメイトもギャラリーも大いに湧いていた。
(二人とも、随分と楽しそうにプレイするもんだ)
 まるで大きな子供だ、いや年齢的にはまさしく子供か、と高頭は頷きながら顎を掻いた。
(無論、遊びに来たわけではないのだがね)

「ありがとうございました!」
 試合終了の挨拶をするや否や、藤真は大袈裟に息を吐いて体育館の床にへたり込んだ。さほど暑い日ではなかったが、すっかり汗だくだ。
「おい藤真、大丈夫か?」
 すぐ隣に立っていた長身の黒縁眼鏡の一年──花形が慌てて屈み込む。
「大丈夫、疲れただけだ。少し休ませてくれ」
 無理もないと頷くと、花形は友人のことを気にしつつも体育館の片付けに加わる。
 翔陽サイドが軒並み絶望するほど、牧はシンプルに強かった。飛び抜けて上背があるわけではなかったが、鍛え上げられた肉体は彼を実際よりも大きく、立ちはだかる壁のように見せていた。見掛け倒しなどではないパワーと巧さもあり、弱点らしい弱点が見えない。藤真はそれに対して唯一渡り合っていたように見えた。気が強いようでいて無性に庇護欲を掻き立てる、この友人の試合での強さに、花形は正直なところ驚いていた。

 チームメイトから受け取ったタオルで汗を拭う藤真に、歩み寄って来る者があった。床に落ちた薄い影を辿るように目線を上げると、見慣れないバスケットシューズ、筋肉質な浅黒い脚、黄色と紫のラインの入った白のユニフォームが順に視界に入る。これは海南の──
「よう、お疲れ。楽しかった」
 予想通り、牧だった。おおよそ高校生には見えない落ち着いた面立ちに、湛えた笑みと言葉からそこはかとない余裕を感じて、藤真は眉間に皺を寄せたがその口元は笑っていた。
「ほんとに疲れた。一年だろ? 一体なに食ったらそうなるんだよ」
 花形にもまるで同じ台詞を言ったことがあるが、牧については食べ物や遺伝だけではないように思えた。ウェイトトレーニングでもしていそうな見事な肉体だ。
 座り込んだままこちらを仰ぎ、愛らしい外見には不似合いな、いかにも男子然とした、横柄ですらある口調で言った藤真に、牧は不思議そうに返す。
「肉とか?」
「そういうことじゃねーよ」
「?」
 愉快そうにカラカラ笑い、ぐるりと辺りを見回し、再びこちらを見上げた藤真の動作に、リスの類の小動物を想像する。
「すぐ帰る? あっちで少し話さないか? 牧くん?」
 藤真の視線の先には、中庭に向かって開け放たれた白い扉があった。初対面の対戦相手から親しげにされることの少なかった牧は、意外な申し出に驚きつつも口元を緩める。ここは翔陽の体育館だ。皆長居はしないだろうが、多少の時間はあるだろう。
「そうしよう。あと、呼び捨てでいい」
「じゃあ行こうか、牧」

「はー……」
 扉を出ると、藤真はコンクリートの階段に座り込んだ。外から体育館の中へと吹き込む風が、汗を掻いた体に清々しく心地よい。牧も倣って隣に腰を下ろす。一回りも大きさの違う、二つの背中が横に並んだ。
「話ってのは?」
 牧は隣を見遣り、思わず動きを止めた。体育館の中が特に暗いとも感じなかったが、明るい陽の光の下で、藤真の肌色は随分と白く見える。肌だけでなく髪の色も明るいために、全体に柔らかい印象になるのだろう。曲げた膝に肘を乗せ頬杖をついて、長い睫毛の下、色素の薄い瞳が気怠げにこちらを見た。
「ん?」
 瞳だけだったものが、顔ごとこちらを向いて不思議そうに瞬きをする。試合中はそれどころではなかったが、中性的に整った顔貌は誰が見ても美少年と呼ぶであろうもので、ハーフかクォーターか、少しばかり日本人離れした印象も受けた。
「牧って、ハーフかなんか?」
 今自分が思っていた通りのことを藤真の口から聞いて、牧は面食らう。思えば、自分も言われないことではなかったのだった。
「ガタイがいいし、色が黒くて、髪も茶色。あと、年より上に見える」
「日本人だぞ。色は地黒と日焼けだ。体は鍛えてるからな」
「そうなんだ」
 言ったきり藤真は正面を向き、ゆっくりと目を瞬いた。
「聞きたかったことはそれなのか?」
 別にそれでも構わなかったが、妙な男だとは思う。
「そういうわけじゃないけど。なんか、陽に当たったら眠くなってきた……」
 藤真は膝を抱え、自らの二の腕に頬を寄せて、首を傾げながら牧を見つめた。瞳はいかにも眠そうにとろんとしている。彼は自分に女性ファンが多いこと、特に〝かわいい〟と言われることを厭わしく思い、警戒しているのだが、相手が男と思うと無防備になるふしがあった。
 なんとなく不健全というか、退廃的というか、あまりよろしくない気配を感じて、牧は少年から目を逸らし正面を見据えた。
「そうだ、牧って中学は神奈川じゃないだろ」
「ああ、東京から。監督じきじきに声を掛けてもらってな」
「だよな。お前みたいなのが県内にいたら知らないわけないと思った。じゃあ、寮暮らしか」
 海南の寮や牧の私生活に特別興味があるわけではない。ただの雑談だ。適当に時間を潰して涼みながら──ライバル校との交流を盾に、体育館の片付けをやり過ごしたいだけだった。まだあまり真面目でない翔陽のホープの気まぐれに、牧は巻き込まれたに過ぎない。
「いや、一人暮らしだ」
「は? 高校生で? 下宿とかでもなく?」
「ああ。やっぱり珍しいのか?」
「知らないけど、身近で聞いたことないぞ。なんで? 寮が汚いとか?」
 牧は苦笑した。友人に連れられて海南の男子寮に行ったときのことを思い出すと、少なくとも藤真はあの場所には馴染まないように思えた。
「親が学生のころ、寮でいい思いをしなかったらしい。それで部屋借りてやるからって。俺はどっちでも構わなかったんだが、一人のほうが落ち着くだろうかと」
「へえ、オレは絶対無理だな。朝起きれなそう」
 高校生離れしたプレイをする男は、外見も、そして生活ぶりまでも高校生離れしているのか。藤真は大雑把に納得しながらうんうんと頷いた。
 と、二人の頭上から声が降ってくる。
「おい牧、そろそろ行くぞ」
「あ、はい!」
 海南の二年生だ。牧は慌てて立ち上がり、藤真もゆるゆると立ち上がる。
「それじゃ、また」
「ああ、引き止めて悪かったな」
 一旦言葉を切り、思い出したかのように続ける。
「牧、次のときはオレが勝つからな。ちゃんとレギュラー獲れよ」
 眠気が覚めたのか、その面にはコートの上で見せた挑発的な微笑が浮かんでいた。牧もまた、応じるように不敵に笑って頷く。
「そっちこそ」 

「牧、あの子となに話してたんだよ」
 翔陽からの帰り道、先輩の一人に二の腕を小突かれた。あの子とは藤真のことだろうが、突っ込まれるとは思っていなかったので、牧は思わず目を瞬いた。
「そうそう、俺が見に行ったときなんて、二人見つめ合ってたぜ」
「俺が行ったときはなんか熱血な話をしてたよな」
 最後に言ったのは牧を迎えに来た二年だ。確かにあのときだけは試合の話になったが、他は他愛のない雑談だったから、牧は唸ってしまう。結局藤真は何が言いたかったのか。
「なんだよ難しい顔して」
「いえ。中学がどこだったとか、ありがちな雑談です」
「藤真は県内勢? 一年、知ってるやついる?」
「覚えてないっすねえ。まあ中学だと強い学校じゃなかったのかも」
「俺、大会のとき、なんか妙に可愛い子がいたっていう記憶だけあるな。髪もやっぱ茶色くて。女子マネかと思ったら選手だったという」
「あー、正直かわいかったな。翔陽の奴らみんなデカいのに小さかったし」
「汗掻いてるとこちょっとエロいと思った」
「正直抱ける」
 同級生なのか先輩なのか、途中から把握してはいなかったが、好き勝手に語られる無礼な話題に牧は眉間に深い皺を刻み、苦々しい顔をした。同じコートに立つプレイヤーに対して、あまりに無礼で下品な話題だ。
「おい牧、冗談だぜ?」
 さすがに周囲も牧の様子に気づき、話題は自然と他のことに移っていった。

 牧と藤真が顔を合わせる機会は、二人が全く想像しなかったほどに多かった。
 県でトップを争うライバル校の、同じポジションの一年として、初対面の日以来互いに意識はしていた。しかし試合中以外は敵対心もなかったから、他校の試合などで相手の姿を見つければ、どちらともなく声を掛けた。じき、地域のバスケットボール誌で互いのコメントを目にすることや、二人セットで取材を受ける機会も発生した。友人と呼べるかは微妙なところだが、もはやただの知人と言えない程度には互いのことを知っていた。

 自販機といくつかの机と椅子と、とってつけたような観葉植物の置かれた、休憩コーナーの一角だった。
「高校のバスケって、こういう感じなのか?」
 女性記者の取材から解放された藤真は、いかにも不愉快そうにどかりと椅子に腰掛けた。彼はバスケットの話ならば喜んで取材に応えたが、外見だの彼女だのといった話題を振られると途端に機嫌が悪くなる。今の取材もそうだった。
「地方誌らしいし、話題が少ないんだろう。よく知らんが」
 適当に相槌を打ちながら、牧は自販機に向き直った。
「バスケ関係ないじゃん。くだらねー」
「なんか飲むか?」
「コーラ」
 藤真は目を据わらせて、自販機のボタンを押す同輩の広い背中を眺めた。確かに高校生らしくはないが、牧だとて自分と並んでバスケ部のイケメン特集だのに取り沙汰されるほどに整った容貌をしている。それなのに、自分との環境の違いはなんだ。
 牧は写真で見ればいい男でも、実際対面すると威圧感があって恐いのだと、女子から聞いたことがある。海南そのものが恐いとも言っていた。だからキャーキャーうるさいファンはいないし、可愛いとも言われないし、おそらく男から嘗められることもないのだ。
 行儀悪く上体を机に伏せ、飲み物を買って戻ってきた牧を目だけで恨めしそうに見上げる。
「オレもいかつい見た目になりたかった」
 牧は淡い栗色の髪の流れる、中性的な顔貌の横にコーラの缶を滑らせた。
「別に、得することなんてないぞ」
 続けて「今のジト目可愛いな」と言おうとしたが殴られそうなのでやめて、「ファンが悲しむぞ」と言おうとしたがやはり怒られそうなのでこれもやめておいた。

 花形は一人、会場の廊下を歩いていた。一緒に試合を見に来た友人は、ライバル校のライバル選手と共に記者に攫われてしまった。自分も取材を受けたいと思うわけではないが、彼らとの格の違いを思い知らされるようで少し堪える。
(あいつらはレギュラー確定みたいなものだからな。俺もがんばらねば……)
 そんなことを思いつつ歩いていると、休憩コーナーによく知った姿を見つけた。
「藤真、こんなところに居たのか」
「おー、花形。おせーよ」
「もう帰ったのかと思ってた」
 牧の姿はない。こちらはすでに帰ったようだ。それから藤真を凝視する。
「珍しいな。アイスなんて食べて」
 そこに見える自販機で買ったのであろう、円筒状の棒アイスだ。彼が甘いものを比較的好むことは知っている。そして、人前では進んで食べようとしないことも。
「牧が買ってくれた」
 花形は脱力した。「知らないおじさんから食べ物をもらうんじゃない!」と言いたい気分だったが、牧のことは知らなくはないしおじさんでもない。
「お前、随分気に入られてるな……」
 わからないことではなかった。藤真は魅力的な人間だ、相手が他校生だとてそれは同じことだろう。それにしても少し目に余る気がする。
「オレが機嫌悪いからめんどくさくなったんだと思う」
 花形も藤真から取材の愚痴を聞かされたことはあった。今日もそんな調子だったのだろう。しかし、だからといって、単なる知り合いの機嫌を取る必要などないのだから、牧が藤真を気に入っていることには間違いはないのだ。
 心配だ。だいたい藤真もよくない。黙っていても人が寄ってくるのに、自分から牧に話し掛けに行ったりするから──花形はもはや藤真の保護者のような気持ちだった。
「……まあいいが、ヘンなことされそうになったら言えよ」
「なんだよ、変なことって?」
 わざととぼけているのだろうかと、花形は怪訝な顔で藤真を見つめる。藤真はすでに花形の言葉から興味を失って、食べ終わったアイスの棒をくず箱に投げ入れようと狙いを定めている。
「何事もないなら、それでいいさ」